第五章 江戸前蕎麦に地獄割り②

第27話

 年越し用に蕎麦を購入し、それから車で数十分行った先にその場所はあった。


 編集長の言う「絃が好きな場所」という意味がわかった。なるほど、納得である。


 そこは酒蔵直営のお酒の販売所だ。

 つまり醸造元というわけで、絃が気に入らないわけがない。


 扉を開けて出迎えてくれるお酒の香りに、絃はゆっくり深呼吸する。肺の中まで、お清めされるような気分だ。


「編集長、ここはお酒のいい香りがします」

「そうですね。こちらの蔵元は、この銘柄のお酒が有名なんですよ。昔ながらというか、ちょっと珍しいつくりかたをしています」


 言いながら彼が指さした先に、看板商品がずらりと並べられている。どれもこれも美味しそうで、目移りしてしまう。


「試飲もできますよ。絃さんどうですか?」


 いつも騒いだりしないように心がけているのに、今日は絃もワクワクした気持ちが押さえられなくなっていた。


「飲みたいです!」


 はしゃいでしまってから、しまったと思って編集長を見る。彼は運転するため、もちろん飲めない。


 申し訳ないと思ったのだが、編集長はなんとも言えない表情で笑った。


「いいですよ、たくさんはしゃいでください」


 言われてしまったからには、遠慮せずにはしゃぐほうがいい。変に遠慮するほうが、逆に失礼というものだ。


 ほかの人の前ではしゃいだ姿を見せるのは好きじゃないが、編集長の前だったら良い。


 そう思えたのは、酒飲み友達だからというだけではないだろう。もうずいぶん、編集長は絃の心の壁を壊している。


 編集長と一緒にいると居心地が好い。不思議な人だ。ただの飲み友達以上になってもいいと思えたのは、編集長の人柄に間違いない。


「ありがとうございます、編集長」

「いえいえ」


 たっぷり楽しんでほしいと頼まれたからには、絃は真剣に試飲に向き直る。

 日本酒を数種類試させてもらうことになり、飲めない編集長には香りだけ楽しんでもらうことにした。


 どのお酒もフルーティーな味わいが強く、燗酒でも冷酒でも美味しく飲めるという。酸味が特徴の珍しい酒で、にごり酒も口当たりがよく美味しい。


 どれか買って帰ろうと思っていると、つんつんと袖をつつかれた。


「絃さん。僕が好きそうなの選んでください。部屋に一本欲しいんで」

「……お酒の手綱を、人に任せていいのでしょうか?」


 編集長の好きなお酒はわかるが、絃の好みとは違う。だから頼まれたことにびっくりしたのだが、編集長は瞳をやんわりと細めながら頷いた。


「絃さんなら大丈夫です。僕の好みの味と、ぬる燗が好きというのも熟知していますよね?」

「そうですが、私にできるかな」


 そうまで信頼されると、逆に困ってしまう。


「絃さんが選んでくれるなら、間違いないですよ」


 絃は試飲をもう一度させてもらい、ぬる燗に合う酒を選び出す。最後まで迷ったけれど、きっとこれならと推せるものをチョイスした。


「ありがとう。楽しみに飲むことにします」


 絃は自分用の一升瓶も購入し、二人とも大満足でその場を後にした。

 車に乗り込んでシートベルトを装着すると、もう帰るのか、と一瞬寂しくなってしまった。


 名残惜しいと感じるのは、今日一日が楽しかったからだ。走り出した車のフロントガラスを見ていると、運転席から声が聞こえてきた。


「本当は、蔵元見学もできるんですよ」

「そうなんですか!?」


 編集長は残念そうに肩を落とした。


「申込制で、一週間以上前からの予約が必要です。それに、もう今年は予約埋まってしまっていたので」

「残念ですが、調べてくださってありがとうございます」


 きっと、絃のためを思っていろいろ見てくれたのだろう。その気持ちが嬉しかった。

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