第26話
日本人でそんなストレートに、好きだのなんだのを言うなんて。思考が堂々巡りを始めそうなので、絃は蕎麦茶に手を伸ばしてごくごく飲んだ。
蕎麦が先に来て、天ぷらがあとから来た。
どれどれ、からいというのを食べてやろうじゃないの。意気込んでめんつゆに蕎麦を泳がせると、編集長はあっ、と目を一瞬見開いた。
すすろうとしていた手を止めて編集長を見ると、苦笑いをされてしまう。
「なんでしょう?」
「からいですよ、めんつゆ」
「聞きましたよ?」
絃はそう返して蕎麦をすすって、なるほど、と顔をしかめた。
からいという意味も、関西の蕎麦が甘いという意味も、今やっと理解できた。
「だから言ったじゃないですか。江戸前蕎麦の食べかたは、蕎麦の先にちょこっと汁をつけてすするんです」
編集長はお上品に蕎麦をするりと少しだけめんつゆに浸し、お手本のようにずるずるっと気持ちのいい音を立てて、一気にすすった。
天ぷらで口直しをしてから、絃も見様見真似で半分だけ汁をつけてすする。
「うん!」
思わず、納得の声が出た。
つるりとした触感と蕎麦の香りと甘みを楽しんでいると、あとからつけだれが丁度よく口の中で合わさってくる。
妙に納得して、絃は何度もうなずいてしまった。
いきちょんはよくわからないが、江戸っ子の美徳というものをほんの少しでも感じ取れたかもしれない。
醤油の味が強く、蕎麦の滋味をこれでもかというほど引き締める。
わさびをまぜて、ネギとともにもう一度すする。蕎麦の味がやんわりと鼻に抜け、あとからめんつゆのからさと旨味が追いかけてくるという寸法だ。
「確かに、蕎麦はこっちのほうが美味しいかも」
「気に入ってもらえたならなによりです。ちなみに、薬味は蕎麦に直接乗せるんですよ、天ぷらでもそうです」
編集長のうんちくに、いとはへえ、と声を上げていた。
「江戸時代は大根おろしが主流でした。それから、このお店にはありませんが、蕎麦前と言っておつまみを用意しているお蕎麦屋さんもあります。卵焼きとか、板わさとか。それで蕎麦の前に、一杯するんです」
「蕎麦がメインディッシュみたいですね!」
「蕎麦を楽しむための前菜です。それを冷酒でくいっと。蕎麦が来たら、まずはめんつゆをつけずに食べて、次に塩で食べるというツウな人もいます」
江戸っ子がやりそうだと、想像するだけで楽しい気持ちになる。
「それから、忘れちゃいけないのが蕎麦湯です。からいめんつゆに、蕎麦のゆで汁を入れて飲むのが、美味しくて」
一枚じゃ足りませんね、と編集長は困ったように首をかしげた。
天ぷらでお腹は膨れたものの、まだまだ蕎麦が入る余裕があるという顔をしている。
「絃さん。もう一枚、頼んでもいいですか?」
「どうぞお好きに。私は手酌させてもらっても?」
もちろん、と編集長の眼鏡の奥の瞳が細められた。
彼が追加の一枚を頼んで、絃は美味しくお酒をいただいた。
昼から飲んだせいで、たったの一杯なのに妙に楽しげな気分になってきた。
「薬味で胡麻を出してくれるお店もありますが、あれも本当に美味しいんですよ。あとは、胡桃蕎麦。胡麻ダレみたいなつゆで香ばしくて、食べても食べても、飽きがこない。出雲そばも美味しいです。でも、長野の辛み大根の蕎麦も捨てがたい」
いったいいくつの蕎麦が出てくるのだ、と絃は話を聞きながら目を丸くした。
「編集長、饒舌ですね。今日は特に」
「美味しいお料理を食べていますから。絃さんと一緒に」
このあと行きたいところがありますと言われて、絃は首をかしげた。
「絃さんの好きな所ですよ」
「私の?」
ヒントを言われたのだが、さっぱり見当がつかない。考えていると、ずずずと江戸前蕎麦をすする音に思考を邪魔されてしまった。
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