第17話
「それとも、今から戻って、笠井さんとハワイアンのお店に行きたいですか?」
編集長は、わざとハワイアンを強調してくる。絃はムッとして半眼で彼をにらみつけた。絃がハワイアンは嫌だということを百も承知の上での発言に違いない。
「わかっていて、聞いてきていますよね?」
「ええ、まあ」
おそらくこれは、同僚と飲むのが嫌なことも見透かされているはずだ。
嫌みをストレートに言い過ぎて嫌みにならないところが、編集長のすごいところだ。そして、とどめの一言が彼の口から放たれる。
「熱々のアツアツも大丈夫ですよ」
「うっ……」
思わず喉の奥から声が出てしまった。
「それでも僕と一杯は嫌ですか?」
これはもう、絃が断らないことを知っている確信犯だ。絶対に断らないことをわかっている訊きかただった。
彼の口元にあるほくろまで、絃をからかって楽しんでいるように見えてしまうくらい憎らしい。
絃は負けたような気持ちになって、肩の力がガックシと抜けた。じっとりとした目で長身を見上げる。
「……美味しくなかったら、ただじゃおきません」
「大丈夫です。味は僕の舌が保証します」
参った。降参だ。
絃は抵抗するのをやめて、編集長に腕を引っ張られるまま歩いて行く。
しばらく歩いてから、もう放してくれないかなと握られた手をちょいちょいと引っ張った。
しかし、編集長はなにやらうんちくをのべながら、明後日の方向を向いて楽しそうに歩いている。
絃は手を解くのを完全に諦めた。
大きくため息を吐くと、うんちくを耳に一言も入れず、宵の口の薄暗闇へ目を向けた。
陽が、ずいぶん短くなった。このまま冬がやって来る。恐ろしく寒い盆地の冬が。
そうなったら、熱燗で身体を温めよう。
鍋を食べよう。
牡蠣もおいしかったが、牡蠣鍋に味噌ちゃんこ、キムチ鍋に水炊きも美味しい。モツなんかも、たっぷりの生姜とにんにくで身体が温まる。
冬に食べたい鍋のラインナップを考えてぼうっとしていたため、絃は編集長に正面に回り込まれていたことにも気づかなかった。
「いつからですか?」
「え、はい?」
声の近さに驚くと同時に、斜めから絃の前方をふさぐように、身体ごと覗きこんできていた編集長にぶつかりそうになる。
ぶつかる前に、編集長のほうが身を引いたから大丈夫だったが。
鍋物に飛んで行っていた魂を呼び戻しながら、絃は再度、編集長を見上げた。
「僕の話、聞いていませんでしたね?」
お見通しだぞと言わんばかりに片眉を上げられてしまい、絃はすみませんと小さく頭を下げた。
「いつから、日本食がお好きなんですか?」
「いつから、といわれましても……」
そんなことを考えたこともなかった。気がついたらすっかり、酒と肴で一日の終わりを締めくくる日々を送っている。
なんだかもう、それをしないと一日が終わらないような気がするくらい、すっかりなじんでいる気がする。
「海外生活をしていたので……帰国してからどっぷりっていう感じだとは思うんですけど」
細かいことも、理由も覚えていないもんだなと、自分の記憶力の低さには驚くばかりだ。
「海外だと、日本のものが手に入りにくいですし、高いですもんね」
さらりとした編集長の言いかたは、海外を知る人だと絃は直感でわかった。
「そういう編集長も、海外に住んでいたんですか?」
おそらく初めて、彼のプライベートに踏み込んだ質問をしたはずだ。編集長は嫌がることもなく「うーん」と首をかたむけた。
「僕は住んでいたというより……放浪していました」
「放浪!?」
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