第16話
「ごめん。編集長と、このあとちょっと……」
笠井が、重ねようとしていた誘い文句をしまった。妙な間が生じるより早く、編集長が両手を顔の前でパチンと音を立てて合わせる。
「ごめんなさい笠井さん! 今日は僕が、絃さんと約束していたんです」
笠井はほんの少し驚いた顔をする。それは絃が誰かと約束なんて珍しいと言わんばかりだが、事実その通り。絃は誘われても、よっぽどのことがない限りは、誰かとプライベートで飲みに行くことはない。それが仕事関係ならばなおさらだ。
編集長は今度、ひどく真面目な表情と声音になった。
「ちょっと、自分の仕事の件で絃さんに相談事がありまして」
笠井が「そうなの?」と問うような視線を向けてきたので、絃も神妙な面持ちで頷く。
「そんなら、また今度な。梶浦さんもまた。ほなな」
笠井がさわやかな笑みとともに手を持ち上げる。
お疲れさまと言いながら笠井に愛想のよい笑みを投げかけて、絃は編集長のコートの裾を引っ張った。
「じゃあ行きましょう、編集長」
笠井が手を振ってくるので、絃もちょこっとふり返しながら、編集長を引っ張るようにしてずんずん歩く。
しばらく歩いて、笠井が帰っていく後姿が遠くなったのを確認して、絃は何となくほっとした。ビールは嫌いではないが、今日はそういう気分じゃなかったから。
今一度、笠井の姿が見えないことをチェックする。引っ張っていた編集長のコートの袖から手を離そうとしたところで、逆に手を掴まれた。
「どこに行くんでしょう、絃さん?」
見上げると、眼鏡の奥の瞳が嬉しそうに細められている。
編集長のその表情を見た瞬間、笠井から逃げる口実をくれた感謝の気持ちよりも、なんだかはめられたような気持ちのほうが勝った。
「ええと。帰ります……」
スーパーでがんもどきでも買おうと、その場で編集長と別れようとしたが、彼は絃を逃がすつもりはないようだ。
「いいえ。行きましょう、絃さん」
言うや否や、手をがっちりと握られてしまった。
「な、ちょっと……約束なんてしていないじゃないですか。あれは、笠井を断る口実で」
「口実に僕を利用したのが、運のつきというやつです」
まだ尽きていないぞと絃は口を曲げる。
「そうしろとでも言うように、背中をつついてきたのは編集長のほうです」
「助けてほしそうにしていたのは、絃さんのほうです」
振り払おうとすると、編集長は指を絡ませてきてまったく動じない。
「事実助かりましたが、私はこれからお家で晩酌タイムです」
「でしたら、お礼に一杯ほど、僕に付き合ってくれてもいいはずです」
いつもと変わらぬ笑みとともに、編集長はずいずいと商店街を進んでしまう。
「ちょ……編集長!?」
「美味しい鶏肝のお店があるのを、僕だけじゃなくて絃さんにもお伝えしたい気持ちになったので。行きましょう」
本気で振りほどこうとすれば、きっと手はすんなり解ける。でも、それをするのをためらうくらい、砂肝というパワーワードが耳に残った。
「……横暴な。美味しいもので釣ろうって、そんな手には乗りません」
口では抵抗してみるものの、胃袋はすっかりその気になっている。ついでに、半分ほど自らついていっているのだから、絃のそれはただの言い訳だ。
「鶏肝の、味噌漬けです。ラッキョウもあります」
ラインナップを聞いた瞬間、絃の喉がごくりと鳴る。ついでに腹の虫までぐるぐる騒ぎ始めた。
鶏肝の味噌漬けとは、なんとも爆弾まがいの言葉だ。さすがになにも言い返せなくなってしまった。
そこでやっと、編集長の歩みがゆっくりになり、絃の顔を覗き込んでくる。
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