第13話
「毎晩食べても飽きが来ないほど美味しい。だから常夜鍋。だし汁じゃなくて、日本酒で煮るのがポイントなんですよ」
突然編集長のうんちくが始まったが、絃は耳を傾けるのと同時に箸先にも集中するのを忘れていない。
「こんなに芳しくて柔らかく美味しくなるのなら、僕も日本酒に浸かったらこうなれるかもしれません。いや、まさにこうなりたい、と願ってしまいそうになります」
魅力的といわないところが、編集長らしい。
しかしもうじゅうぶん、彼は魅力的だ。絃はふうふうと豚肉に息を吹きかけてさます。
「編集長は、すでにこのお鍋くらい素敵だと思いますけど」
時折、編集長が、店に来た女性に話しかけられていることがある。だから、もうじゅうぶん芳しいはずだ。
「でも足りないっていうのなら、お酒をお風呂に入れたらいいじゃないですか」
「お酒は飲むものですよ、絃さん」
自分で浸かりたいと言ったくせに。
絃はムッとしたのだが、編集長の笑顔にその先が続かなくなった。
「絃さんだって、そう思うでしょ?」
「私は浸かってもいいです。むしろ、露天風呂に浸かりながら、熱燗グビグビで酔っぱらいたいです」
「それはもう、想像するにしのびないです」
絃は編集長の返事にむくれた。
「悪うございました」
とげとげしく言い放ってから、編集長が掴もうとしていた豚肉をまるで忍者のような素早さで鍋の中からかっさらって、どや顔してみせる。
編集長は一瞬ぼけっとして、目の前にあった豚肉の残像を追っていたようだが、絃を見ると困ったなと口を開いた。
「……いやだなあ、僕が絃さんの素肌を想像したら、セクハラじゃないですか。決してあなたの露天風呂姿に、魅力がないという意味ではないです」
あまりにもまっすぐに言われてしまい、絃のほうがむせ返ってしまった。言いかたはわかりにくいが、遠回しに絃のことを褒めたことになるのだろう。
「むしろ、貴女がそんな反応をするなら想像してみましょうか?」
絃はおしぼりで顔を覆いながら首を横に振った。
「……いいです、想像しなくて。むしろしないで」
「はい、止めておきます」
部屋に戻ってからにします、と言われて絃は再度むせた。
それに編集長はあははと気持ちよく笑って、使っていないおしぼりを絃に差し出す。
「もう……いや、なんでもないです。さっさと食べましょう。すごく美味しいですから!」
彼のとんすいに、茹っている豚肉をどんどん盛り付ける。
「僕は猫舌なので。でも、美味しかったなら良かった。はまりそうですか?」
「ヤバいです」
もう底が見えそうになっている鍋を覗き込んで、ほうれん草を摘まみだす。
「はまったら、ダメな気がします」
「そうですね。絃さんなら、抜け出せなくなりますよ」
編集長の言う通りだ。はまってはいけないのだ、この鍋は。
はまってしまったら最後、毎晩食べたくなってしまう。
常夜という冠を持つこの鍋に秘められた魔力に、いつしか酔ってしまったら最後、抜け出せないというのがわかった。
絃は心して豚肉を噛みしめながら、ちらりと編集長を見つめた。
お猪口についだ、すでに冷めてしまっているだろうお酒を飲み干す姿が、なんだか憎らしかった。
いつも、編集長は一枚上手だ。
絃は視線をゆだったほうれん草に戻した。
常夜鍋に今宵は少し、酔いしれてしまったようだ。頭の中が、ぼんやりとする。素材のうまみを感じながら、絃は最後の一口まで美味しくいただいた。
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