第12話
編集長はもうとっくにつまみ終わったらしく、テーブルの上は片付いていた。絃の帰りを待っていたのだと思うと、胸のあたりがそわそわした。
「急がなくていいです。味わってください」
「ですが」
「僕が勝手に待っていたいだけですから、気にせずどうぞ」
編集長は言葉通り急かすようなことはせず、お酒を美味しそうに舌先で味わいつつゆっくりしている。
絃が味わって牡蠣を食べ終わったところで、編集長が口を開いた。
「では絃さん、今夜は常夜鍋にしましょう」
そんな聞いたことのない鍋は、たしかメニューには載っていなかったはずだ。
「先ほど大将に確認したら、作ってくれるそうです。やりましたね」
「常夜鍋とは、一体何でしょう?」
訊ねてから絃は慌てて手を振って「あ、待って待って!」と話始めようと口を開きかける編集長を止めた。
先に頼んでからにしないと、彼のうんちくを聞いている間お鍋が遠のいてしまう。
きっと美味しいに違いない。どういうものかわかっていないというのに、期待に胸が膨らんだ。
「では、僕のうんちくは、実物が来てからのお楽しみですね」
「そうします、早く食べたいので……」
編集長が選ぶものは、間違いなく美味しい。
味の好みが似ているのもそうだが、編集長は美味しい食べ物をたくさん知っていた。それも、日本酒に合うとびきりのものを。
甘くかすれる声で紡がれるうんちくは、昔のレコードのようにノイズまじりに絃の耳に届く。
悪いことに彼の声は、ついつい聞き入ってしまう魅力がある。音の柔らかなまろみや退廃的な雰囲気に、レコードというものにのめり込んでしまうのと同じような感じに似ている。
「おまちどおさま」
熱いので、と言われて絃はむやみやたらと手を出すのは止めた。
一度、あぶすきの時に叱られたのを、しっかり覚えている。編集長はおしぼりで蓋を持つと、ぱかっと豪快に鍋の蓋を開けた。
「わ……!」
湯気とともに、鼻にたっぷりと沁み込んでくるお酒の香りに驚いた。熱によってまろやかになったお酒の香りは、かぐわしさが別格だ。
鍋の中を見れば、ぐつぐつと煮えた豚肉と長ネギ、ほうれん草がいまだに熱の余韻で身を震わせていた。絃のお腹は、ぎゅるぎゅる鳴りそうになっていた。
「ポン酢でも、胡麻ダレでも美味しいですよ。僕は今日はポン酢かな。絃さんは?」
「同じにします」
ポン酢を小皿にそそいだのをもらうと、お互いに鍋の中身をとんすいにすくい出した。柔らかい薄切りの豚肉に、たっぷりのほうれん草を合わせて、冷まさずに口の中に入れる。
じゅわっと旨味が凝縮された出汁に、一気に心臓を締め付けられた。
「なにこれ、美味しい!」
「絃さん、いい顔で食べますね。美味しいなら良かった」
ほふほふしながら首を縦に小さく振ると、さらに豚肉をぱくぱく食べてしまった。
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