第三章 宵の口の鶏肝味噌漬け

第14話

 その日絃は、さつま揚げでも食べようと思い立った。


 仕事終わりにいつものお店に行こうとして、定休日だったのを思い出したからだ。豆腐屋によって厚揚げか油揚げを買ってもいいのだが、練り物を食べたい気持ちが勝った。


 今日も絃は、海外からわざわざ日本にやってきた人たちとたくさん話をした。そして、彼らのためにたくさん案内をした。


 脚が棒になるほど歩くのが、古都の日常だ。おかげで、足腰は丈夫になった。


 特に外国人は、日本人のツアー観光のように大人数であっち行ったこっち行ったしない。


 じゅうぶんな時間を使って、ゆっくりと行きたいところを見物する。この場所で二十分、あっちでは三十分で見学します、というのは少ない。


 だからこそ、絃のような外国人専用の専属観光ガイドというのは需要がたっぷりある。


 インバウンドに潤う古都では、欠かせない職業の一つだ。特に外国語が堪能であれば、この辺りでは引く手あまただった。


 一日一万歩はざらという生活をしている。おかげで、もりもり食べてもちっとも太らない。夜にお酒を飲んだってへっちゃらだ。カロリーはおそらく半日で消化されているに違いない。


 その代わり、歩きすぎれば脚は痛いし、疲れも相当蓄積される。案内がぎっしりだと、そのぶん疲労は濃い。


 ちょうど近くにいたので、ふうらふうらと商店街の奥に行き、老舗のさつま揚げ屋の前でじっとりと今夜のおかずを吟味することにした。


 テレビで紹介されたというポップのいくつかを見つめながら、絃はうーんと唸った。


「――僕は玉ねぎ天が好きです、シンプルに。あとはね、これ。コーンの甘みがあとを引くんです」


 隣から、甘く掠れる声が聞こえてきて絃は力が抜けそうになる。


 いったいいつからいたのか、それともたまたま鉢合わせただけか。だとしても、あいさつより先に好みのさつま揚げの説明を始めるとは。


 どうしてこの人はいつも、突拍子もない声のかけかたしかしないのだろう。


「こんばんは、編集長」


 絃の問いかけに、「枝豆天も、捨てがたい」と耳に残る甘ったるいかすれ声で、のんきなことを言っている。


「こんばんは、絃さん」


 編集長は人の好い笑みをたたえながら、さりげなく絃の隣にやってきた。


 そのまま去って行く気配は微塵も感じられない。ピリ辛天に熱燗でしっぽりもよさそうですねと、本気で悩んでいる。


「どうしたんです、こんなところで油を売って」

「僕は今さっき仕事を終えたところです。飲みに行こうかと思ったんですが、いつものお店、定休日でした。そういう絃さんは、こちらを購入してお家で晩酌ですか?」


 真白――もとい編集長は、おしゃれな眼鏡の奥の瞳を穏やかに細めた。


 黒のタートルネックに、煉瓦色のチェスターコートを嫌みなく着こなしている。長身というのは、なるほど洋装に向いている。


「そうしようか迷っているところですが……どこかの編集長に急に話しかけられたので、こうして話をしています」

「おや、申し訳ない。絃さんを前にして、僕はついうっかり自分の酒のあての好みを申し上げてしまいました」

「編集長の好みは、よーくわかりました」


 彼の舌は、絃と同じような感覚を持ち合わせているようだ。そのため、言われたさつま揚げは、絃が買おうか迷うものとドンピシャだった。


 それ以外のものをわざと買おうかと考えたがやめた。頑張った仕事のあとなのだから、美味しいもの、好きなものをとにかく食べたい。


 ショーケースを前に首をかしげていると、今度ははつらつとした声が聞こえてきた。


「あれ、花館。こんなところでつまみの買い足ししとんの?」

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