第3話

 今からほんの少し前のことだ。


 会社の強制的な飲み会に参加し、そしてはしゃいで飲み過ぎた同僚が、気持ち悪くなってしまったという出来事があった。店を出るなり道の脇で座り込んでしまい、吐くこともできずに泣き始めたのだ。


 湯豆腐のやわさに、いつもは固い絃の口がゆるゆると解れた。


「飲みすぎだって何度も注意したんです。でも、彼はお酒を飲むのを止めなかったんです……あげく、美味しくなかったとか言うもんだから」


 カウンターの奥にかけられた書を睨みつけるようにし、絃は思い出し怒りを抑えるように湯豆腐をふうふうさました。


 絃の言に、紳士はくつくつと笑いながらお酒で唇を湿らせた。


「なるほど。酒に情をかけましたか」

「個人的には、お酒は楽しく飲むもので、気持ち悪くなるために摂取するものではないと思ってます」


 眼鏡の紳士は、同意とばかりに口の端を持ち上げた。


「同僚も可哀そうですが、味もわかってもらえなかったお酒も可哀そうです」

「それはごもっともな意見です。ですが、あの場では少々浮いたでしょう?」


 嫌味なく言われてしまい、絃はうーんと首をかたむけた。


「……まあ。上司には、言いかたがきついぞと叱られました」

「叱られちゃいましたか」

「さらっと叱られちゃいました。そういうあなたは、なぜ私の事情を知ってるんですか?」


 彼は絃のうさん臭そうと言わんばかりの表情を視界に入れるなり、若い紳士は困ったように微笑んだ。


「貴女が飲んでいた横の店で、友人の結婚式の二次会でした。外で涼んでいたら、先ほどの一連の話し声が聞こえてきたので」

「……涼んでいた? こんなに寒いのに?」

「ええ。甘い赤ワインにイタリアンで、胸が焼けそうになったもので」


 爽やかな笑顔で言われて、絃はへえと生返事をする。


 いかにもワインもピッツァもいけますというような服装と顔立ちで、胸が焼けると言うなんて。思ったことがそのまんま顔に出て、言葉になってしまっていた。


「胸やけですか……それで、この店に?」

「貴女もでしょう?」

「そうです。そうでした、人のことを言えませんね」


 絃が会社の飲み会で立ち寄った店も、後輩が選んだオシャレな創作フレンチだった。


 洋食は嫌いではないしむしろ好きだ。だが結局、舌先が患うほど恋焦がれるのは、日本酒とそれに合う肴なのだ。


 紳士は今までも何回か見かけている顔だが、話しかけられたことは一度もない。いい距離感というのが、この世界には存在する。それを、カウンター席に座る人々はわきまえている。


 絃はあんまり話しかけられたくないから黙っているし、そんな空気を感じて、ほかの常連客も絡んでこない。 


 だから今宵の絃の同僚に対する発言は、ついつい話しかけたくなってしまうくらい、紳士の心に響いたのだろう。


「胸やけまではしませんが、やっぱり日本酒が美味しいんです」


 そうですねと相槌を打って、彼はそれ以上話題を深堀する様子は見せなかった。


(距離感のわかる人みたいね、さすが、大人)


 絃はとっくりを手酌しながら、塩ツクネに温玉を絡ませて黙った。

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