第4話

 そのままちびちびと、いい塩梅になるまでたこわさをつまみにして飲んでいた。


 わさびの茎のシャキシャキが、たまらなくお酒がすすむ。とっくりが軽くなってきたところで、絃はメニューを手に取った。


 お腹はいっぱいだけど、そろそろなにかで〆て帰ろう。なにが良いかなと考えていると、隣から視線がふうわりとこちらに向けられた。


「お嬢さん。あぶすき、いかがですか?」


 二人前からしか頼めないんです、とメニューの横に書かれた小さい文字を、紳士の長い指先がさししめしている。


 にっこりしながら誘われれば、断るのも少々野暮だ。それにちょうど、あぶすきを食べようと思って、二人前からの文字に下唇を齧ったところだった。


 悔しさとあきらめきれない気持ちとで揺れている時の提案だったので、のらないわけにはいかない。


「……私でよろしければ」

「もちろんですよ。大将、あぶすきお願いします」


 カウンターで刻み物をしていた大将は、奥にあぶすきと声をかけてにっこりと笑うと、また手元に視線を戻す。


「そこじゃ遠いですから、こちらへどうぞ」


 言われて、紳士と自分の間に一つ席があることになんだかげんなりした。


 移動するのが嫌なわけではなくて、この紳士の手のひらの上で転がされてしまっているように感じたからだ。


 ちょっと……いや、かなり気に食わない気持ちだが、あぶすきのほうが大事だ。


 大将に席を移ることを告げ、それから酒とたこわさを持ち、紳士の隣へ収まった。


「ありがとうございます。お嬢さんという年齢ではないですが」

「そうですか? 僕からしたら、ずいぶんと若いですよ」


 席を移ったが、相変わらずお互い手酌だ。あぶすきがきたら乾杯しようと、酒をとっくりから最後の最後まで搾り落とした。我ながら、少々けちくさい。


「寅年ですから、いい塩梅です。世間ではアラサーと言います」


 お年頃と言えば聞こえはいいが、世間一般で言えば、絃は大人の思春期ともいえる二十六という年齢だ。


「では干支ほぼ一回り。僕のほうがいい塩梅のアラフォーですね」


 さいですかと気のない返事をしておきながら、絃は一回りも違うことに内心驚き、訊き返した。


「え、一回り!?」

「ちょっと盛りました。ちょうど十違いです」


 それでも、とても十歳も違うようには見えない。雰囲気は穏やかで大人だが、見た目には非常に若い。


「……嘘つき」

「あはは、老いぼれ詐欺しちゃいましたね」

「なんですかその、老いぼれ詐欺って」


 思わず笑ってしまうと、奥からぐつぐつという音をたてている小さめな土鍋が運ばれてきた。二人の間に小さなカセットコンロが用意され、そこに土鍋が置かれる。


 芳しい湯気につられてしまい、頼まないと決めていたのに追加の燗を二人とも注文してしまっていた。


「熱いんで」


 一言とともに去って行く店員に礼を述べ、絃は鍋の蓋に手を伸ばした。その手を隣からぐい、と紳士に掴まれてしまう。


 見た目の穏やかさからは想像できない、意外にもしっかりと骨ばっていて大きい手だ。


「熱いらしいですよ?」

「すみません。つい、匂いにつられて」


 新しいおしぼりを手に持ちながら、紳士はそれを使って蓋を開ける。


「気持ちはわかりますが、火傷したら危ないですから」


 再度謝ってから、絃は蓋を取った鍋に顔を向ける。もんわりした蒸気とともに、鼻孔をくすぐる甘じょっぱい香りがした。


 ふっくらしたお揚げと、しんなりしたネギ。それから椎茸が鍋の中でてりてりと輝いている。

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