第2話

 そこには赤ちょうちんにそぐわない、上質なスリーピーススーツを着こなし、さらにはアスコットタイまでつけている男性がいた。


 ウェリントン型の眼鏡が、嫌みなく顔に収まる姿はまさしく紳士と言う単語がぴったりだ。


 今さっきのいかにもオジサンが好みそうなものを注文したのが、目の前の紳士だとは思えず、絃はじいっとその男性を観察してしまった。


 絃の不躾ともいえる視線に気がついた紳士は、こちらに振り向きざまに爽やかにほほ笑んで軽く会釈をした。


 つられて絃も会釈をし「どうも」と間抜けな挨拶を口から発する。


 我ながらかわいくないなと思いつつも、プライベートな時間にまで、他人に愛想をよくする気はみじんも持てなかった。


 しかも、あの疲れる飲み会のあととあっては、特に。


「――お酒に失礼でしょ、そんな飲みかた。あれは、傑作でしたね」


 急に、とろみのあるかすれた声で紳士に話しかけられて、絃は手酌していた手を止めた。意図せず口の先が尖ってしまう。


「……聞いていたんですか?」

「正確には、聞こえていた、です」


 悪気の感じられない言い分が返ってきた。


 絃は一つ席をあけた隣の席に向かって、じっとりと視線を送りつける。絃の視線を気にしていないのか、男性は穏やかなままお猪口の中を見つめていた。


 この店に来る前、会社の飲み会での出来事が頭をよぎる。絃は、なみなみとそそいただお酒を一気に飲み干してふうと息を吐いた。


 日本酒のこってりした香りが鼻から抜けて行く。


 再度大きく息を吐いてから「思ったことを言ってしまったまでです。大人げなくも」とぽつりとつぶやいた。


 紳士は「そうですか」と頷きながら、穏やかにとっくりを傾けている。その仕草は美しく、ひどく雅なものに見えた。


 彼が上等なスーツを着ているのもあるだろうが、本人から漂う品格もあるように思える。


 スリーピースを着こなす物腰の落ち着き具合からして、絃とは十は違うだろうが、存外、年齢を感じさせる容姿ではない。


 じろじろと見ているのに咎めもせず気にもしない姿から、余裕しゃくしゃくの大人を感じる。絃はなんだか自分が小娘のように思えてしまい、再度口をとがらせた。


 目の前のほっくりと縦に割れる大根に、たっぷりの甘い自家製味噌を絡ませて口に入れようとした時、はたと気がついて箸を止めた。


 絃はいつもカウンター席で一人酒を楽しむ。カウンター席の多くは、一人酒を楽しむ常連専用になっている。


 そして絃が店に来る時、たいがいいつもカウンターでゆっくりしている上品な男性がいたのを思い出していた。


「……そういえばお兄さん、よくこのお店で飲んでいるかたですよね?」


 彼の服装は今とだいぶ違うが、おしゃれな眼鏡と、独特な甘い響きのかすれ声を絃の耳が覚えていた。


「ええ、まあ。仕事終わりに、ちょうどいいんですよ」

「同じくです」


 常連だとわかると、なんだか一気に絃の気持ちが緩んだ。


 おまちどおさまと出された湯豆腐を箸の先でつつくと、湯気がやんわりと顔を湿らす。


 鰹節と刻んだ小ネギ、細かく刻まれた生姜が白い四角い豆腐の上に乗せられていて、辛い醤油を酒で割ったタレを数滴かけて、じっとそれが広がる様子を見つめた。


 白い豆腐の角からタレが零れ落ちるのを確認してから口に運び入れると、待っていましたとばかりに舌先で崩れ落ちた。


 この店の湯豆腐は、木綿ではなく絹ごしなのだ。とろんとした滑らかな舌触りに、あとから薬味が追い付いてくる。少し硬めの絹ごしは、豆の味がしっかりと濃く出ている。

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