第一章 あぶすきと星月夜

第1話

 気持ちよく酔いたいので、いとは飲み直しに向かった。


 絃がいつも行くお気に入りの店は、古都の風情が残る地域の地元民しか通らないような裏路地を、つつつと暗がりへ行った先にある。


 鹿しか通らないような路地裏の小路は、もやもやと月明りさえ入り込まない。そこをひょいと入ってしばらくすると、ぼんやりと灯る赤ちょうちんが、まるで妖怪のようにいらっしゃいと手ぐすね引いている。


 そのうちにベロリと長い舌でも出して、顔でもなめてきたらひょうきんなのに。


 いつもそんなことを思うのだが、今のところ提灯は提灯のままで、妖怪になる予定はないようだ。


 それに、いざ妖怪ですと脅されたら腰を抜かすに決まっている。提灯は提灯のままでいい。


 寒さに凍える身体を冬物のコートに包み込み、いそいそと暖簾をくぐって引き戸を開ける。


 しっぽりとした温かい空気に包まれて、やっと呼吸ができるようになったと感じた。外は寒い。それはもう凍えるほど。


 盆地の冬は、足元から凍らせられるかのような、痛い寒さなのだ。


「いらっしゃい、いとちゃん。今日はずいぶんと遅かったなあ」


 一枚板のカウンターの向こうから、人のよさそうな笑顔が向けられる。絃は口元を緩めた。


「大将こんばんは。熱燗をください。舌が火傷しちゃうくらいのやつ。外が寒すぎちゃって」

「そんなんしたら、アルコール飛んでまうよ。ほどほどにしとくわ」


 金曜日の夜ということもあり、店内は少しにぎやかだ。温かいおしぼりを受け取り、思わず顔をそこにうずめる。


 冷えきった夜気にさらされた顔のでこぼこに、温かい湯気が沁みてヒリヒリ痛かった。目の前に大将がやってくる気配がして、絃は目元だけおしぼりを外す。


「……いわゆる、飲み会というやつでした。大変、たいっへん、面白くなかったでございます」


 大将に今日の出来事を手短に伝えながら顔を上げると、絃は突き出しのふろふき大根に顔をほころばせた。


「そら、ほんまにごくろおさん」


 細目で削られた柚子が、黄色い点々となって大根の上でお行儀よく乗っているのを確認した瞬間、鼻孔に柚子の芳しい香りが広がった。


「ふろふき大根の匂いで、疲れが吹っ飛びました」


 絃はそれをもらい受け、大将の匙加減で温められる熱燗を待つ。


 寒露を過ぎたら飛び切り燗と決めているのだが、今日は熱いのに耐えられるお酒はあいにく品切れのようだ。


 しばらくしてとっくりに入れられたお待ちかねが運ばれてくると、いつものようにおちょこになみなみと注いだ。


 そうしてからやっと、箸を手にして手を合わせ、「いただきます」とふろふき大根を口へ運ぶ。


 少し冷めたかと思ったそれは、口の中でほふほふと熱さを広げてくる。


 一瞬、予想以上の熱量に眉を寄せる。あとから舌の上にじんわりと染み出してきたお出汁の香りが鼻に抜けると、絃はうーんと渋い感嘆の声を喉の奥から発した。


 ちょうど良いぬくさにしてもらった熱燗をくいっと喉に流し込むと、胸のあたりをあたたかいものが下へ通り過ぎる。


 自分の身体の中を普段意識することはないのだが、この熱量が通り過ぎる瞬間だけは、自分にも身体が引っ付いていたんだと切に感じる。


 ほくほくと、お腹の中が温まってきていい感じだ。


 一通りお清めを済ませて落ち着くと、絃はメニューを見て湯豆腐とたこわさ、温玉と塩ツクネを注文した。


 すると、一つ席をあけた隣から「たこわさと湯豆腐、ピリ辛こんにゃくと七味下さい」と注文する声がする。


(似たようなもの頼むのね、隣の人は)


 さりげなく見るつもりが、絃は思わずまじまじと視線を向けてしまった。

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