第7話 桜の闇のその影で

 牡丹ぼたんが部屋から立ち去った後、数分、ヨウは、打ち刀を持ったまま立ち尽くしていた。


 少し経った後、ヨウは、打ち刀を鞘から引いて、その刃を凝視した。


 部屋の電灯は、明るかった。……このカルト教団の屋敷の中には、電話はないが、電灯と、おばんざいを作れるぐらいのガス水道のライフラインは生きているらしい。


 明治か大正時代を思わせる厳めしいレトロな造りではあるが、中身は、暮らしていける程度に現代の技術が整っている、ように見える。


 そこに、重い打ち刀が出てきて、手渡されたのだからたまったものではない。


「……」

 ヨウは、刀を鞘から抜き。その刃を間近から見た。彼の顔が映りそうなぐらい磨き上げられた、むき出しの刃。


 鋭利に研ぎ澄まされたそれは、武器としての殺傷能力があることは間違いなかった。ヨウは、それを確かめるとすぐに、刀を鞘におさめた。そして、左手に握りしめたまま、自分に与えられた部屋を出た。


 様子をうかがい、足音を忍ばせながら、刀を握りしめて、廊下を歩く。百合ユリの部屋の前を通り過ぎた時、話し声がした。ケイ百合ユリは、何やら話が盛り上がっていて、ヨウが通り過ぎた事に気づかなかったようだ。


 先ほどの事があっただけに、ヨウは胸をなで下ろし、広い洋館の出口を探した。

こんな気の狂った人間しかいない屋敷に長居は無用だ。

 ヨウは、即座にメレウトから脱出する気でいた。




 重厚な扉がついている館の表玄関ではなく、こじんまりした裏口を見つけた。

 ヨウは、そっと、かけられていた鍵を開け、簡素な建て付けのドアから滑り出た。


 外は真っ暗闇だった。

 ひんやりとした春の夜気が頬を撫でる。

 ヨウは刀を握りしめたまま、何も見えない闇の中を足音を忍ばせて歩いた。何とかして、このあやしい屋敷を脱出し、友達に助けを求めるつもりだった。今時、数は少ないが、屋敷から出てしまえば公衆電話を探す事が出来るかもしれない。


--否、そうでなくとも、近所の家に助けを求めて、電話を貸してもらい、110番通報すればいい。


 とにかく、この館を出なければ。

 ヨウは夜の闇の中、目をこらし、洋館の広大な庭の中を歩き回った。どこかに塀があるだろう。塀の向こうには、ごく普通の常識的な世界が……。


(普通の世界?)

 そのとき、ヨウの脳裏を微かな疑問が流れた。

 ごく普通の、常識的な世界とは何だろう。

 人によって普通と思うこと、常識と思うことは違う。似ているようでも微妙にずれている。それが当たり前であることを、高校生である彼はよく知っていた。


 だが、今はそんな、些細な疑念を取り払う。

 カルト教団か、ひとさらいの犯罪者集団に捕まっているのだ。一刻も早く、この場を逃げ出さなければ……。


 一度だけ振り返ると、メレウトと呼ばれる洋館は、本当に大きかった。

 三階建てか、それ以上だろうか。夜の暗闇の中で見上げると、さながら西洋の城のようにも見える。城としては小さい方かもしれないが、個人の所有する館としてはどう考えても大きすぎる。


 黒々と闇にそびえる城は、その光景だけで、ヨウに不安と緊張と、微かな恐怖を与えた。


 ヨウはその微妙な恐怖を振り払うようにメレウトに背を向けて、庭の中を歩き始めた。


 暗い庭。


 庭だけでも、ヨウの知っているどの校庭よりも広い。まるで公園か球場か……いや、それよりももっと広い。

 広大な空間には様々な木々が植えられている事が、気配でわかる。


 木の匂いと土の匂いが混ざり合い、夜風となってヨウの感覚を刺激した。ヨウは、歯をかみしめた。これから自分がしなければいけない仕事の事だけに集中することにした。


 そのとき、次第に闇になれてきた目に、桜の花が目に入った。

 

 桜。


 夜の闇の中、ほの白く絢爛と咲き誇る、桜。

 花雲に枝をしならせ、冷たい夜風に花弁を華やかに泳がせ続けている。

 暗い足下に僅かな紅を残して白く舞い落ちていく花。


 何故に、桜は一本一本、違う花樹であるとはっきりわかってしまうのだろう。

 桜は一本ずつが、一人の人間のようにそれぞれが個性が違う。主張する事が違う。桜の花が降りしきるごとに、ヨウはその桜のいわんとしていること、桜の言葉がわかるような気がして、思わず立ち止まった。


 花枝が空高く伸びて、近い木々の枝と触れあい、風が揺れるごとに重たげな花雲さえも揺れる。

 桜の花の回廊の下を、ヨウは何かを恐れるように静かな足取りで歩き出した。


 足音一つ立てる事さえ、はばかられるような、恐いほどの美しさであった。その夜の桜は。


 何年もの間、ヨウはその夜の桜の木々の光景を、夢の中に思い出している。暗闇の中に白く、花の芯から輝くように美しかった桜。闇の中に惜しむ事なく繚乱と花開いている桜。


 美しいという言葉さえも有り余る、花の情景を、ヨウは夢見るのだ。


 そのことさえ、このときは知らず、ヨウは刀を抱えてその花の回廊の下をくぐり抜け、出口を探した。

 迷い込んだ家の中、さらに迷い込んだ桜の回廊。


「--さくら?」

 そのとき、夜気よりも冷たい声が鋭く飛んだ。

「そこにいるのか、さくら?」


 さくらとは、この屋敷で彼に与えられた名前だ。その声の主を、ヨウは素早く聞き分けた。

 蓮だ。

 蓮が、自分を追いかけてきたのだ。

 ここで見つかって、捕まるわけには行かない……。


 ヨウは、刀を持ったまま、その場を全速力で走り出した。




さくら?」

 蓮はヨウが逃げだそうとしている事を即座に悟った。

 蓮は、自分の愛用の忍び刀を抜いた。


 そのまま、音もなく--足音すらさせずに、蓮はヨウを追って走った。


 白刃が閃く。

 さくらの闇の夜の中。

 抜き身の刃が、ヨウのことを、情けもかけずに追い回す。


 ヨウは普通高校に通う男子生徒だ。

 そんなことをされたらたまったものじゃない。

 現代の高校生は、本来、銃刀法違反で捕まるような事はしない。刀を持っていたとしても、扱い方などわからない。


 そういうことに、なっている。


 数分後、ヨウは--その日、二回目の気絶となり、レンに刀ごと抱き上げられて、洋館の中に帰るのであった。


 脱出、失敗。


 その夜の、桜の闇の中のくちづけを、ヨウはずっと、思い出し続けている。

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