あの時こいだペダルのように勇気は想いを回転させる

甘宮 橙

第1話

「あきら君、絶対に手を離さないでね」

「もう離してるよ。今、あやなちゃん、自分で自転車に乗ってるんだよ」

「ええ~! 怖いよぉ!」

「大丈夫。勇気を出してペダルをこいで!」

「うん。わぁ、あきら君。私、自転車に乗ってるよ!」



 放課後の談話室であきら君を待ちながら、ふと脳裏に子供の頃の記憶が蘇った。

『放課後、久しぶりに二人で話せないか』

 突然こんなメッセージを貰うなんて……。


 思えばあの頃から彰君のことが好きだった。彼は運動神経がよくて頑張り屋さん。整った顔立ちで野球のリトルリーグのエースだったから、子供の頃から女子の人気も凄かった。

 一方私は読書が趣味で、いつもクラスの隅にいるような地味な女の子。想いを遂げるなんて絶対に無理だって分かっていたから、それは胸の中に閉じ込めて、せめて彼と釣り合うような努力をしようと思った。

 運動は苦手、芸術のセンスもない。だけど活字を読むのは苦にならないから、勉強を頑張ろうと心に誓った。


 やがて彰君の野球の実力はメキメキと上がり、中学を卒業する頃には「彼の才能ならプロにもなれる」と周りの大人達が騒ぎ立てるほどになっていた。だけど私は知っている。彼は才能に加えて、血の滲むような努力があったからこそそこまでこれたんだって。


 だから私も陰ながら努力を続けた。そして、その過程で、私にも夢ができた。私の夢は研究者になること。雑誌で知ったバイオテクノロジーというものに興味を持ち始め、そのために高校は私立の進学校に進んだ。 

 そしてこれは偶然なんだけれど、この学校はスポーツにも力を入れていたから、スポーツ特待生の彰君とも同じ高校に通うことができた。


 私達の道はつながることはないけれど、お互いが夢に向かって努力を続けていた。


 だけど……。


「ごめんな。遅くなっちまった。何しろ、この足だからさ」


 無理に微笑む彰くんの、松葉杖をつく姿が痛々しい。

 靭帯損傷。幸い数ヶ月安静にしていれば、大事には至らないそうだ。だけど彼にとって最後の甲子園への挑戦は大会前に終わってしまったのだ。そして、夢だったプロへの道も厳しいものになるのだろう。


「気合入れすぎてバカなことやっちまったよ。けど流石にさ、アイツはもうダメだって陰口たたかれてんの聞いたら応えちまってさ。幼馴染の綾奈の顔を見たくなったんだ」

「誰がそんなことを!」

「でも事実だから応えんだ。大会にも出れなきゃスカウトなんてあり得ないし。……綾奈は凄いよな。志望の大学十分狙えんだろ? 今だから言うけどさ、俺、幼馴染の綾奈の頑張り見てたからここまでこれたんだ」


「え?」想像もしなかった彼の言葉に動揺する。


「やっかみで悪く言われることがあっても一生懸命頑張ってさ。俺、憧れてたんだ。そんな姿勢に。だから俺も頑張ってきた……けど……」


 違う。そうじゃない。それは私の方だ。だけど……だけど、今の彼になんて言葉をかけてあげればいいんだろう? 大好きな人に何もできない自分が情けない。


「野球ばっかしてきたから、今から勉強しても大学なんて無理かな? 今までの努力も無駄になっちまったな」

「無駄なんかじゃない!」


 無意識に私は叫んでいた。通りすがりの学生が声に驚いて、こちらに目線を向ける。だけど、心が外に出てしまったらもう止まらない。


「今までの努力は辛さを乗り越える力になってくれるはずだよ。だって、まだ終わってなんかいないじゃない! 彰君はスマートにいかなくったって最後まで食らいつける強さを持ってるの知ってるから。それに彰君が頑張れなきゃ私だって頑張れないよ。私もずっとあなたに力をもらってきたんだから」


 沈黙が流れる。二人の時計が止まってしまったかのようだ。だが、その針は彼がはっきりとした意思で再び動かし始める。


「……何だろうな? 他の誰に言われても感じないだろう言葉が綾奈の口からだとスッと心に落ちてくんだ。俺もずっと綾奈を見てきたから。

 そうだよな。俺は簡単に叶う夢追ってたわけじゃないんだから、何度だって食らいついてやる。卒業する頃にはこの足も治ってるだろうからさ。そしたらプロの入団テストを受けてみるよ。調整が間に合わなかったら1年自力で磨いて翌年もだ! だから……」


 彰君が両手で挟み込むように、私の手を握る。そこから彼の体温が伝わり、私の体温と同化する。私の心臓が高鳴り、そして彼の瞳は私を真っ直ぐに見つめる。


「だから俺のそばにいてくれないか? 綾奈の頑張っている姿は俺に勇気をくれるから。そしたら絶対に挑戦を諦めねぇから」


 彰君が見せた一歩踏み出す勇気に涙がこぼれそうになる。

 だから私は、それを悟られないよう、あの時のように告げるのが精一杯だった。


「離さないでね」

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