第二話
朝会が始まる直前、友達との談笑を終えてハナは自席についた。予備校のテキストを出して予習を始める。朝会で担任が話すのは一瞬で、いつも大した連絡事項はなく自習しながら聞き流し英会話の如くBGMにしていた。
隣の席の奴は「危ねー」と言いながら上がった息と共に教室に入ってきて隣に勢いよく座った。挨拶を交わす間柄でもないから気にせず参考書を食い入るように見つめる。後の自分に気をつけろよという意を込めてマーカーで抜けている事項の下に線を引っ張った。
顔の横に気配と私のものではない匂いを感じて頭を上げた。視線を横にずらすと、驚いたようにのけぞるサイゴの顔。
「おはよ」
と言われてさっき挨拶を交わす間柄でもないと思った私の良心がキリキリと痛む。
「難しそうなのやってるね」
誰もが若干機嫌の悪い朝だと言うのに鬱々しさは微塵も感じさせないツヤのある肌。寝不足とは無縁そうな跳ねた前髪をじっとりとした視線で一瞥した。
「おはよう、ほぼ遅刻だよ」
ブラザーの袖を捲って時計を確認した。5分進んでいるこの腕時計は友達からは焦るという点で不評。淡いコーラルピンクのバンドがお気に入りで高校の入学祝いにもらってからずっと使っている。
「お、いい時計」
遅刻という都合の悪い話をすぐさま変えたサイゴ。腕時計をつけている女はカッコいいという偏見でつけている時計を褒められて複雑な気持ちになった。
「それ塾の課題?」
サイゴは自分の通学カバンを勢いよく机に放り投げた。朝会中だと言うのに声のボリウムを下げないから周りの視線がこちらを差す。
「そうだよ、今日の授業でやるとこ予習してる」
「予習?したことないや、偉いね」
偉いね、と言われても一つも嬉しくない。英語の和訳問題のページが開かれたテキストをサイゴはじっと目で追った。テキストと顔の距離が近い。
「視力悪いの?」
「細かい作業好きで気づいたら悪なってた」
ケタケタと乾いた声で笑う。予習したことないのも目が悪いのも全部カッコいいと思っているタイプだ、と曲解して受け取った。
「ハナって文系だっけ」
「文系だよ」
「文系だからこんな難しい英語やってるんだ」
君は一体いつの時代の話をしているの、と突っ込みたくなった。サイゴが文系か理系かなんて知らないし気にしたこともなかったということに今気付かされた。
「今は理系も文系も英語出来ないと話にならないよ」
そんなことも知らないの?という非難の気持ちで語気が強くなった。
「じゃあ俺は話にならないのか」
あっけらかんとそう言う彼の顔を見た。悔しそうなわけでも焦っているわけでも無さそうだった。もうこれ以上何も言うことはなかった。そういう人だ、私とは違うタイプの人だと理解する他なかったからだ。
「サイゴって放課後何してるの?」
ほぼ毎日予備校に通い詰めている私には放課後勉強する以外の選択肢はなかった。
「いい質問だね」
指をパチンと鳴らしてサイゴは笑った。
「家の手伝いとバイトかな」
「ほら、俺の家あんまり裕福じゃないから」
そう言われて今まで気づかなかった選択肢に気づいた。バイトや家を手伝うというのは全くなかった発想で、予備校で良い成績を取り続け、授業料を半額免除になっている私は偉いと思っていた。その傍で自分でお金を稼ぎ先に社会に出ている人もいたのだ。凝り固まった自分中心のエゴがガラガラと崩れていく。
「下に兄弟もいるし公立高校じゃないと行かせられないって言われててさ、俺絶対受からないと思ってたのに受かってビックリしたわ」
「俺みたいなのが同級生にいておかしいなって思うでしょ」
あくまで全く嫌味みたいな雰囲気は感じなかった。ただ純粋に自虐ネタとして吐かれたそのセリフだったけれど冗談と分かっていながらも面白半分に肯定してはいけない気がして、黙ってしまった。
「危うく中卒になるとこだった」
またナチュラルに笑っている。
「高校受験、沢山頑張ったんだね」
「めっちゃ頑張ったわ、そう言えば。塾行ってないし、学校の先生に一から教えられてたな」
「塾なしで?」
「考えられない?」
「うん」
「俺もやればできるんだよ」
「大学受験するの?」
「しない、てかできないし」
「できないというのは...?」
「金も学力も、弟の方が頭良いし」
そっか、と短く返事をした。部外者の私には入れない家族の中の話だと思ったからもう言葉は続けなかった。
「なんでちょっと申し訳なさそうな顔すんだよ」
「いや、だって...なんか、」
「俺は嫌だなんて思ってないしバカすぎーウケるーで良いのに」
「バカすぎーウケるーなんて言ったことないでしょ」
「ないけどさ」
俺毎日楽しいから、と最後に聞こえた小さな呟きが羨ましくて喉がひゅっと音を立てた。今私が一番欲しい何か。サイゴにはそれがあった。心、というものが存在して、もしそれを覆う膜があるとしたならば、それが揺れた。
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