×されたかった
澄田ゆきこ
本編
父が包丁を手に戻ってきたとき、私は「これでやっと殺される」と思った。死ぬことなんて怖くなかった。むしろ、そうすれば父が裁かれるのだと思うと愉快だった。
防音性の高いマンションの中、密室のうちに起こった嵐を、私は思い出していた。幾度となく浴びせられた罵声、投げられたリモコンや茶碗やスマホ、壊されたゲーム機やノートパソコン、痕跡の残らない暴力。この家の中で起こっていることは、私たちのほかに誰も知らない。先生も、友達も、出て行った母も。
今まで狡猾に隠されてきたすべてが、これでやっと明るみに出る。私が死ぬと同時に、父も社会的に死ぬ。ざまあみろと思った。
「悲劇のヒロインぶるな」と散々言い放ってきた人間の手によって、私は正真正銘の悲劇のヒロインになる。そのことに高揚感すら覚えていた。馬鹿みたいでかわいそうな父。お似合いだ。
私は殺されたかった。
父の影がゆらゆらと近づいてくる。包丁の刃が薄闇で鈍く光る。私は父を見据えながらじっと立っている。血走った目が見える。父の影に私が隠れる。荒い鼻息がかかる距離で、父は包丁を逆さに持ちかえた。何が起こっているのかわからない私に、父は言った。
「そんなに俺が憎いなら、殺してみろ」
ぐい、と包丁の柄が押し付けられた。私は少しの間戸惑い、次の瞬間には怒りを覚えていた。卑怯だと思った。恐怖もあったかもしれないけれど、焼けつくような怒りの方が強かった。
拒んだ私を、父は鼻で笑った。「意気地なし」と。
それからどうやって床につき、次の日学校に行ったのかは、もう覚えていない。
今ではもう十年近く前。遠い遠い昔のこと。だけど今でも思いだして、激しい後悔に襲われる。なんであの時、私は父を刺さなかったのだろう。父を殺さなかったのだろう、と。
家を出たのは十九歳の時だった。「出ていけ」と言われたから、ここぞとばかりに出て行った。それだけのことだ。
生まれて初めての平穏と自由は新鮮で、けれど日常生活は変わらずに続く。目まぐるしく過ぎていく生活の中、不意に訪れた空白で、私は何度もあの夜のことを思い出した。あの時殺しておけばよかったと、布団の中で何度も歯噛みした。あいつが何食わぬ顔をして生きていることが許せなかった。
――いや、今からでも遅くない。
家出から数年後、ある時そう思い至った。大学の最寄り駅のいくつか先に、私の実家の最寄り駅がある。そこまで行って、会社帰りの父を突き落とそう。思い立ったら行動は早かった。そのまま一心不乱に駅まで行って、じりじりする気持ちで電車を待った。やってきた区間快速に飛び乗り、長椅子に座る。
実家に近づいていくにつれ、動悸がした。これは武者震いだ、と自分に言い聞かせた。祈るように手を組んで、呼吸を落ち着かせているうちに、電車が止まった。
私が乗ってきた電車と父が乗ってくる電車は、それぞれ反対方向だ。電車から降りた私は、電車が去ったあとのホームを振り仰いで――そして、気づいた。
ホームドアがある。家を出た当時にはなかったものだ。
頭が真っ白になった。その直後、だめじゃん、と私は悟った。
自分の計画の杜撰さに自分で呆れた。そして、憑き物が落ちたかのように、あっさり「帰ろう」と思えた。これじゃ無理だ。殺せない。私の中にぐらぐら煮えたぎっていた殺意は、冷静になると同時にどこかへ抜け出てしまった。急にすべてが馬鹿馬鹿しくなった。
結局私は、そのまま反対方向の電車に乗った。
もしホームドアがなければ、私は父を殺していただろうか。それとも、包丁を差し出されたあの夜のように、殺せないままだっただろうか。
それからさらに数年が経った。鮮烈な殺意も怨恨も、父とは関係ない毎日を過ごしているうちに、少しずつ少しずつ薄れていった。それでも時々は、あの時の痛みや苦しみを思い出した。衝動的に殺意が蘇ることもあったが、物理的な距離のおかげで、あの時のように実家まで向かうことはなかった。
そんな折、ある本を読んだ。家族が中心のヒューマンドラマだ。中にはお菓子に入れる砂糖のようにたっぷりと家族愛が練り込まれている。昔ならただ辟易していたはずなのに、読んでいたら不意に涙が出てきて、私は焦った。そして気づいてしまった。吐き気がするほど嫌だった。けれど腑に落ちてしまった。
認めたくはなかった。
ああ、私、愛されたかったんだ。
なんて。
×されたかった 澄田ゆきこ @lakesnow
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