ささくれの対処法

朝飯抜太郎

ささくれの対処法

「課長」

「あ?」

「ちょっと、それ、社会人の返答じゃありませんからね」

 たしかにそうだ。私は、デスクの前に立つ困り顔の部下を見た。

「何かあったっけ」

「1on1の時間です。なしにします?」

「ああ、やるやる」

 私はノートPCをもって、彼に先行して近くの空いている打合せスペースに入る。

 いかんいかん、集中せねば。小さく頭を降る。

 なるべく和やかな雰囲気を作るために笑顔を作る。

「えー、日下部くん。最近、活躍目覚ましいけど、どう? 何か困ってることない?」

「めちゃくちゃ器用ですね先輩。眉間にシワ寄せながら笑えるんですね」

「あ?」

 眉間にシワ? あ、そうか。ずっと力入れててわからんかったな。

「何かあったんですか。聞きますよ。先輩」

「先輩じゃねぇ、お前の上司だぞ」

「先輩と上司は両立する概念ですよ」

 涼しい顔で答える日下部。大学からの腐れ縁だが、私以外にも飄々としているので性格だろう。



「ささくれって、痛いですよね」

「何の話?」

「ささくれが痛いって話です。まあ、聞いてくださいよ。ささくれって、めちゃくちゃ痛いじゃないですか。いつの間にかできていて、ポケットに手を入れるときに痛っ!てなって気づくと、爪の横で、俺です、ごめんなさい、みたいな感じで存在感放ちやがって。意識しちゃうと、もう日常が地獄ですよ。痛いし、また痛くなるのが怖いしって。それでやっと忘れたころにまたポケットに手を入れるときに痛っ!てなるっていう」

「マジで、ささくれが痛いって話じゃないか」

「だから、そう言ったじゃないですか」

 聞き分けのない人だなあ、と言う顔で私を見る日下部。業務時間に上司の前でこの態度。何なのもう。

「だから何なんだよ」

「だから、ですね。何があったか、わかりませんが、その眉間のシワが、先輩や美羽ちゃんにできたのせいだったらですね」

 勘がいい。何で、美羽のことだとわかったのか。

「先輩が眉間にシワを寄せるのは大体美羽ちゃんのことですからね」

 気持ち悪いなコイツ。

「で、ささくれってのは僕たちの意識を奪ってくる嫌な奴なんですが、そいつが痛みを押し付けてくる間もですね、筋肉や内臓は働いてくれているわけです。不平不満もなくね。そういうことにね、同じように目を向けてあげた方がいいんじゃないかなと思うんです」



 美羽が通うスイミングスクールで溺れそうになったという連絡を受け、慌てて駆け付けたときには美羽は起き上がっており、元気そうで安心した。しかし、私の顔を見ると、泣き出した。

 私は美羽を抱きしめながら、美羽のコーチから話を聞いた。

 彼女の話はしどろもどろだった。私はよく目が怖いと言われるし、完全に彼女のミスだったので、それで動転しているのかもしれないとも思ったが、何だか変だった。

 美羽は他の子より少し遅れていたので、他の子と違う練習をしていたという。そして目を離した隙に溺れていたという。

 私は家に帰った後、美羽と同じクラスの子のママに連絡して話を聞いた。彼女は自分の子供から詳しく聞いてくれた。あと、二三人からも同じように話を聞いた。それは信じられない内容だった。

 美羽は、今のクラスのコーチからイジメを受けていた。みんなの前で揶揄されたり、イジられる。一人だけ別のしんどくてつまらない練習をさせられ、叱責を受ける。

 美羽が好きだったスイミングスクールを休みたい、などと言い出したのは今のクラスになってからだ。一通りの泳ぎ方を習い、タイムなどの向上を目指すようになり、より厳しい内容になったためと思っていた。

 私は美羽から話を聞いた。聞ききながら私は、これまでの半年間の美羽を思い出して、泣きそうになる。思わず、ごめんね、と言うと、ママのせいじゃないよ、と涙ぐんだ美羽が言った。私はどうしようもなくなって彼女を抱きしめた。

 話を聞いたママ友に、聞いた話をスクールにしていいかと聞いた。彼女は、絶対するべきだよと言って私達のために怒ってくれた。その日の内に塾長に連絡し、聞き取りが行われて、美羽のコーチが内容を認めた。

 私は原因の説明と謝罪、再発防止策を求めたが、まだ大学生だったコーチは一度も謝罪することなくやめていき、塾長はのらりくらりと私の追及をかわそうとする。そんなことをこの数週間やっている。

 ささくれ、と言えばそうだろう。こんなしょうもない人間のつけた傷が、私の中でそれはズキズキと存在を主張して、時折鋭い痛みが襲ってくる。



 日下部は黙って話を聞いてから、言った。

「それは眉間にシワもよりますね」

「だろう?」

「早く、けりをつけるべきです」

「だから、相手が逃げるんだって」

「けりをつけるのは先輩の方ですよ」

 何を言ってるんだ。こいつは。

 見上げた日下部は、いつもの涼しい顔で、

「美羽ちゃんと話してみたらどうですか。でも、その眉間のシワはなしですよ。それ、めちゃくちゃ怖いんで」と言った。



 人に話すと確かに少し楽になった。あと眉間のシワも気になる。

 私は美羽と一緒にお風呂に入って、すべすべの美羽のほっぺにすりすりする。

「もう! やめてよ。ママ」

「いいのよ、私が生んだんだからね」

「こわいよ~」

「何にもこわくないのよ」

 美羽がキャッキャと逃げ回り、それを私が追いかけて、湯船のお湯がジャブジャブ揺れる。

 やがて落ち着いて、美羽を後ろから抱っこして座り、私は言った。

「美羽が今一番思ってること、教えてくれる?」

 何でもいいよ。ママの悪口だって、何でもいい。ママの眉間のシワが怖いって言うのも今は許しちゃうよ。そう言うと、美羽は少し考えてから絞りだすように言った。

「ママが、スイミングのこと、悪く言うのが嫌だった」

 美羽の顔は見えない。でも泣いているのがわかった。

「葛西コーチが悲しそうな顔をしているのが辛かった」

 葛西コーチは、美羽がスクールに入って最初のコーチだ。私と同年代だが、明るく、優しくて、美羽も大好きだった。葛西コーチは私と美羽に向かって、真摯に謝ってくれたと思う。それでも私は。

「美羽は、スイミング、何が一番嬉しかった?」

「一番……って決められないけど、やっぱり最初の方かな。顔をつけるのもできなかったから、潜ることができるようになって、泳げるようになって、いつも葛西コーチが最初にめちゃくちゃ喜んでくれたんだ。やったよ! すごいよ!って。わたしは他の子と比べて遅かったから、そんなにすごくないってわかってたんだけど、コーチに言われたら、やっぱり嬉しかった」

 そうだ。それから美羽は楽しそうに通うようになった。しんどい練習をぼやくことはあったけど、最近だってやめたいとは言わなかった。

 美羽はあそこで、肯定されていた。

 嬉しい。嬉しいと思えたのが嬉しい。

「あとね、私ね。スイミング習いたいって思ったのはね。ママがかっこよかったから。ママ、水泳部だったんでしょ? パパがいたころに、連れて行ってくれた市民プールで。ママは嫌がったけど、25メートル泳いでくれたよね。すぅーって沈んだまま進んでいって、浮き上がってきてからも腕が伸びて、体が伸びて、綺麗な魚みたいだって思ったの。私も大きくなったら、ママみたいに泳げるようになろうって思ったの」

 もうこらえきれなかった。私は美羽を抱きしめて、おいおいと泣いた。

 美羽は恥ずかしそうに私の腕を持ち、私にもたれている。

 もう目を逸らすのはやめよう、と思う。

 嫌なことも、嬉しいことも、存分に味わってやる。

 こんな素晴らしいかたまりが私の側にいる。いつだって、褒めて、可愛がってあげないといけない。

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