第7話 え? 僕とペアに?!

 ――


 結衣は確かにそう言った。


 そしてその言い回しは僕が彼女とのやり取りの中で感じ取っていた所感と一致する。

 ただ、それをそのままの所感の通りには捉えるわけにはいかなかった。

 到底あり得ない事だと蓋をして、考えないようにしてきた。


 とはいえだ。

 もしかしたらと――そんな妄想めいた事はどうしても思ってしまうもので……。

 その度に自分の心に『待った』をかけ、思考を巡らせ、落とし所を見つけてはそこに思い留まる。それの繰り返しだった。


 だが、たった今、結衣本人の口からその〝可能性〟について裏付けるような発言があり、


「え?僕……付き纏う……?」


 僕はすかさずその証言の裏取りを開始する。しかし、


「うん。実は、奏君にお願いしたい事があってね……それで……ね?」


 と、彼女が浮かべた申し訳無さそうな笑みに、僕が抱いた期待は早々に打ち砕かれる事となった。


(――あぁ、そりゃそうだよな。変な期待なんかして……本当、馬鹿だな僕は……)


 バクバクと脈打っていた鼓動が嘘のように沈んでいく。


 そして、なるほどな、そういう事かと、不思議に思っていた点が全て線で繋がった。


 要するに、結衣の僕に対する行動は全て損得勘定によるものだったのだ。


 幸い、切り替えは早い方だ。それに、歓喜しながらでも懐疑的な目は捨ててはいなかったので思いのほか傷は深くはない……はずだ。


 期待と落胆、その他にも弄ばれたという理不尽な感情からくる彼女へ対する僅かばりの憤りと失望、それら蠢く様々な感情を抱きつつも、何はともあれ、まずは結衣の言うその〝お願い〟について掘り下げていく。


「……僕に、お願い?」


 一体、何事だろうか。


「うん。奏君にしかできない事で、奏君じゃなきゃ駄目な事だよ」


 僕じゃなきゃ駄目な事?……一体何の事か。皆目見当もつかない。


「それって一体……?」


 すると彼女は窺うような上目遣いで、


「私と、将棋、しない?」


 と、句読点多めの辿々しい口調で言ってきた。


 うん。ヤバい。やっぱ、死ぬほど可愛い。と、それはさて置き……なるほど。今の唐突に出てきた〝将棋〟というワードで、話の方向性が分かった。

 だが、その全容は未だ不透明。


「……将棋?」


 とりあえず話の腰を折らぬよう流れのまま疑問形で返す。


「うん。正確にはペア将棋。……えっとね、その……奏君。私と、ペアになって欲しいの……ダメ、かな?」


(だから、その上目遣いは反則だよ。可愛過ぎだよ。そんな目で見られて断れるわけないだろ!……さてはこの女、分かっててやってるな?)


 ……しかし、まぁ、ペア将棋ときたか。


 ペア将棋――言うなれば将棋のダブルスだ。

 ペアを組む相手とは一手毎に交代で指していく。

 

 どこでどう知り得たのかは不明だが、僕の将棋の腕を見込んでの勧誘という事か。

 なるほど。それなら僕の名前を知っていたのも頷ける。




 実は彼女――佐々木結衣は将棋の実力者として有名だ。


 前に、テレビ番組で〝芸能界最強将棋王決定戦〟なるものを見た事があるが、そこで彼女は芸能界No.1に輝いていた。


 そして僕もまた、将棋界隈では少しばかり名の知れた存在


 将棋界隈に精通してるであろう彼女ならば、確かに僕の名前を知っていて不思議は無い。


 芸能界No.1棋士からの棋力を見込まれた上での誘い……。

 まぁ、確かに光栄な話ではある。


「…………」


 しかし、僕はその返事を躊躇する。

 そんな僕に彼女は畳み掛けるように言う。


「……強いよね?将棋。……本来、アマチュア将棋における最高段位は事実上6段まで。それ以上の段位が認められる事は極めて稀。あの米山竜王でさえアマチュア時代は6段止まりだった。そんな中、君の段位は8段。無論、当時のアマチュア将棋界で、現竜王――米山康生を含めた誰もが君の圧倒的棋力の前に平伏した。そして君は結局誰からも負かされる事なく、将棋の世界から忽然と姿を消した……」


 今の彼女の言葉にはひとつ間違いがある。僕が将棋を辞めたあの日、一度だけ決勝戦で敗れている。棄権による不戦敗だったけど。


 それはさて置き、そう言った彼女の顔からは『――何で? どうして?』というような疑問が張り付いている。


 その疑問の意味。……そう、分かっている。

 僕はあの頃から長く将棋の駒に触れていない。


 別に、決意を持って将棋から離れたわけじゃなかったし、特段嫌いになったというわけでも無かった。

 いつしか盤に向き合うのが億劫となり、遂には将棋の事を考える事も無くなった。ただそれだけ。


 かつてはあんなに必死になって取り組んだ将棋。


 僕が将棋を始めたきっかけは女流棋士だったお母さんの影響と、幼い頃に出会ったある女の子と交わした約束だった。


 ただ、母が病気を患ってからは僕が将棋を指す理由は明確にひとつとなった。


 無論、母の為だ。

 僕が将棋で優秀な成績をおさめる度にお母さんはもの凄く喜んでくれた。


 もっともっと強くなって、勝って、母を喜ばせたい。元気付けたい。

 その一心で僕は将棋に打ち込んだ。

 そうする事でいつか母の病気が治るような気でいた。

 

 学校の勉強は疎かに、将棋ばかりに明け暮れる日々。

 とにかく盤を睨み、思考を巡らせ、駒の音を鳴らす。

 その一連の流れをひたすら繰り返し、将棋特有の緊張感の中戦ってきた。そして、勝ち続けてきた。


 でも、今の僕にはもう将棋を指す理由は無く、出来ればもう向き合いたくないと思っている。

 何故なら、将棋は死んだ母を思い出すきっかけとなり、辛くなってしまうから……。


 そんな思いもあって、僕は彼女からの誘いに躊躇している。

 それに、もう何年も将棋は指しておらず、そのブランクも気になる。


 ペア将棋……つまりチーム戦だ。故に、かえって迷惑を掛けてしまいかねない。


 でも結衣は真剣な眼差しで僕の事を見つめ、そして固唾を飲むようにして僕からの返答を待っている。

 まるで告白の返事を待つ乙女のように……。


 その様子から、どうしても僕とコンビが組みたい、その一心がひしひしと伝わってくる。


 でも、やはり無理なものは無理だ。


「ごめん。僕はもう将棋はやめたんだ」


 そう告げると、結衣はある程度その返事を予想していたのか「そっか……」と、表情を緩めて小さく俯いた。

 思いのほか簡単に引き下がったな、と思ったのも束の間、結衣は再び「でも」と顔を上げ、表情を引き締め、


「……私はどうしても奏君と組みたい。 昔、あんなに目をキラキラさせながら将棋を指していた君は間違いなく将棋が大好きだったはずだよ?」


 と、説得に掛かってきた。


「将棋が嫌いになったわけじゃない……指す理由を無くしてしまったんだよ。それに……」


 ――将棋と再び向かい合うのが辛い。そう続けようとしたところで彼女の言葉が割って入った。


「――なら、私をその〝理由〟にして!!」


「え?」


「〝理由〟が要るのなら、今後は私の為に将棋を指して! どうか、私とペアになって下さい!お願いします」


 結衣はそう言って頭を下げた。

 

「でも……」


 それでも躊躇する態度を崩さない僕に、すると結衣はまるで開き直ったかのような勢いで下げた頭をスッと元に戻した。

 ……その表情には心無しか不穏な色が浮かんでいた。


「――ねぇ、奏君。 コレ、見て? 何か分かる?」


 そう言って結衣が指差した先――


「え?」


 暗がりの中、ベランダ上部にぶら下がるに目を凝らす。


 ……白く、小さい布?

 そして、真ん中に小さな黒のリボンのようなデザイン……って、これってもしかして……


「私のパンツ」


「――えぇ!?」


 何故今まで気付かなかったのかと、自問したくなる程に結衣の居る周辺には洗濯物がずらりと干されていた。

 当たり前だ。ベランダなのだから。

 ……ブラジャーもある……。


 結衣はこれまでの天使のような表情から一転、ニヤリと悪魔のように表情を歪めると、


「あぁ〜あ、いいのかなぁ〜? もしも学校で『奏君にパンツ見られた!』って言ったら、どうなるんだろうね?」


 と、明らかな脅し。

 つまり、ペアにならなければ今後の学校生活を悲惨な目に遭わせる、という事だろう。


 ……なんという執念。


 というわけで、ここで勝負あり。

 僕に残された道はひとつしか無くなった。


(……仕方ない。やるか)


 正直色々と思うところはある。

 けれど、こうやって僕の力を必要としてくれる人がいた事は素直に嬉しく思う。

 

 思えば、僕の取り柄は将棋しか無かったはずだ。

 これを機に再び将棋と向き合うのも良いかもしれない。


「……分かったよ。やるよ、ペア将棋」


「本当? やったー!!」


 僕らの住むアパートのベランダに結衣の歓喜の叫びが響いた。


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