人魚姫は恋をしていた。

夕藤さわな

第1話

 一日中、雪が薄っすらと積もった山を歩き回ったけれど食べられそうな物は何も見つからなかった。破れかかった草鞋わらじは何の役にも立たない。すっかり短くなって穴だらけになった着物とも呼べない布切れもだ。


「千代、今日は大漁だよ!」


 寒さと疲労と飢餓。ますます色濃くなる死の気配に背中を丸めて歩いていた私は、弥彦の声に顔をあげた。

 春の木漏れ日のように暖かな声に誘われて振り返ると、弥彦は川で捕った魚を誇らしげに掲げて駆けてくるところだった。


「獣か大きな魚にでも追い立てられたのか、川原に魚が打ち上げられていたんだよ。こんなにたくさん!」


 運が良かった、と言って弥彦は無邪気に笑った。

 不思議なこともあるもんだね、と言って私も無邪気に笑い返した。


 昔から弥彦のまわりでは〝そういうこと〟がよく起こった。当時の私は大して不思議に思うこともなく、ただ喜んでいた。


「ちょっと痩せてるけど……俺の家族と千代の家族、一人一匹ずつはあるよ」


 隣にやってきた弥彦は私を見下ろして目を細めると手を差し出した。


「俺は千代のことが誰よりも、何よりも大切なんだ。だから、大丈夫。泣かなくていいよ、千代。絶対に俺が千代を守るから。絶対に離さないから」


 気恥ずかしくなるようなことを憶面もなく言って弥彦は微笑んだ。

 凪いだ夜の川面に満月が映り込んでいるかのようにきらきらと光る優しい弥彦の目に、私は頬を緩めて涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔を手の甲で拭った。


「……うん、絶対に離さないで」


 そう言いながら差し出された手を取る。


 体も心も十才だった、あの頃。

 私は二才年上の少年に恋をしていた。厳しい生活の中でも穏やかな微笑みを絶やさない弥彦に恋をしていた。


 春の木漏れ日のように暖かな声に。

 凪いだ夜の川面に満月が映り込んでいるかのようにきらきらと光る優しい目に。


 あの頃の私は、間違いなく恋をしていた。


 ***


「人魚、姫……?」


 離れにある庭の池を泳ぐ錦鯉をぼんやりと眺めていた私は、その声に顔をあげた。

 私をじっと見つめていたのは十才頃の男の子だ。子供用のスーツを着ている……と、いうよりもスーツに着られている感じの男の子。

 その子を見つめ返して、私は思わず目を細めた。


の息子……いえ、孫かしら?」


 長く真っ直ぐな黒髪に赤い着物、二本の足で歩く十才そこそこの少女の姿をした私を見て、座敷童や日本人形と言うならまだしも人魚姫と呼ぶ人間はそうそういない。守人もりとの家の伝承を聞いて育った、守人の血を引く子供なのだろう。

 案の定――。


守人もりと 翔太しょうたです!」


 男の子は背筋を伸ばすと緊張した面持ちで言った。


「初めまして、翔太。そんなに固くならないで。……私は千代。よろしくね」


「知ってる! 守人の家に伝わる人魚姫のお話、何度も何度もお祖父さまに聞かせてもらったから!」 


 そう言って翔太は目を輝かせた。

 凪いだ夜の川面に満月が映り込んでいるかのようにきらきらと光る目。翔太から見て弥彦は何代も十何代も前の先祖に当たるはずだ。弥彦自身の血はすっかり薄まっているはずだ。

 それなのに翔太には弥彦の面影が残っている。


 きらきらと光る目に見つめられて、私は胸が締め付けられるのを感じた。


「千代さんは……」


「千代でいいわ」


「千代は人魚の肉を食べて不老不死になったんだよね?」


 守人の家以外の人に話したら鼻で笑われそうな突拍子もないことを、翔太はきらきらとした目のまま尋ねた。子供らしい残酷な無邪気さに目を伏せ、私は静かにうなずいた。まちがってはいないのだ。


「病気で死ぬところだった千代を、人魚の肉を見つけ出したご先祖さまが助けたって!」


「遠い昔の話よ。あなたたちが江戸時代と呼ぶ、遠い昔の話」


 もう三百年近く昔の話――。

 現代でいうところの麻疹はしかだったんじゃないかと思うけれど、実際のところはわからない。

 ただ、私と弥彦が生まれた貧しい山間の村の人々が病のせいで次々と死んでいったことだけはわかっている。私の家族も弥彦の家族も、病に罹り、助からなかっただろうことだけはわかっている。


「本当の話だったんだ! お祖父さまが聞かせてくれた話……離れに不老不死の人魚姫が住んでるって話!」


 一体、彼はどんな物語を話して聞かせたのだろう。血沸き肉躍る冒険譚。切なくも美しい恋物語。少なくとも十才の子供が目を輝かせるような、そんな物語になっているのだろう。


「どんなケガを負っても病気に罹っても千代は死なないんだよね?」


「えぇ、見せてあげましょうか?」


 髪に挿したかんざしに手を伸ばし、好奇心に満ちた翔太の目を見返して私は薄く微笑んだ。でも、すぐに反省した。


「いい、見せなくていい! 不老不死って言っても痛いし苦しいんでしょ? 千代が痛い、苦しいと思うことなんてしなくていい! 守人の家は千代が痛い思いや苦しい思い、寂しい思いをしないためにあるんだから!」


 十才そこそこの子供の姿をしていても、三百年近く生きている良い年をした大人なのに。心も体も十才の翔太に意地悪を言って、本気で叱られるなんて。


「質の悪い冗談だったわね。ごめんなさい、翔太」


 かんざしに伸ばした手を下ろしながら言うと、全くだと言わんばかりに翔太が大きくうなずいた。真剣な表情で目を吊り上げる翔太に私の頬は自然と緩んだ。

 弥彦もこんな表情で、やけを起こす私をよく叱りつけたものだ。


 翔太の先祖が――弥彦が私を守ろうとしてくれたことも。誰よりも、何よりも大切に想ってくれたことも、わかっている。


「……わかって、いたのにね」


「千代……?」


 苦い笑みを浮かべてうつむく私を見て、翔太は心配そうな顔で首を傾げた。気にするなと言うように私はゆるゆると首を横に振った。


「ところで、翔太。用があって私を呼びに来たのよね?」


「そうだった!」


 翔太が私のところにやってきた理由には思い当たっている。ただ、話をそらすために尋ねただけ。でも、翔太は素直に目を見開いて、慌てたようすで言った。


「お祖父さまに千代を呼んでくるようにって言われてたんだった!」


 ***


 弥彦が私を守ろうとしてくれたことも。誰よりも、何よりも大切に想ってくれていたこともわかっている。


 病と死が蔓延した村を見捨て、病に罹って弱り切った家族を見捨て。村人や家族と同じ病に罹っているだろう私を背負って弥彦が生まれた村を出たのも、私を守ろうとしてくれたからだ。


「千代のことは……千代のことだけは絶対に俺が守るよ。絶対に離さない。だから、大丈夫」


 病のせいで虫の息の中。弥彦の背に揺られ、弥彦の声を聞きながら、このまま死んでもいいと私は思った。


 春の木漏れ日のような暖かな声に名前を呼ばれ。凪いだ夜の川面に満月が映り込んでいるかのようにきらきらと光る優しい目に見つめられて死ねる。

 ほんの十年と短い人生だったけれど。恋と言うにはあまりにも幼かったかもしれないけれど。大好きな弥彦に見守られて、抱きしめられて死ねるのだ。

 これほど幸せなことがあるだろうか。


 もしかしたら、本当にあのとき死んでいた方が幸せだったのかもしれない。


「千代、薬をもらってきたんだ」


 だけど、私は死ななかった。


「これを食べれば千代の病気は治る。必ず助かるよ」


 笹の葉に包まれた、たった一切れの魚の身。イワナに似た白い身をさっと炙って、弥彦は私へと差し出した。

 弥彦がどこからか見つけ出してきた〝薬〟を食べて、たったの一晩。それで私の病はすっかり治って――私は死ねない体になった。


 昔から弥彦のまわりでは〝そういうこと〟がよく起こった。


 人魚の肉を見つけ出したこと。

 村の人々も、家族も、私も。誰もが流行り病に罹る中、たった一人、弥彦だけが流行り病に罹らなかったこと。

 不老不死になった私を一人にしないため、守人の家を作り上げたこと。


 運が良かったんだよ、と言って弥彦は無邪気に笑った。

 不思議なこともあるもんだね、と言って無邪気に笑い返す気には……私はもう、なれなかった。


 昔の私は大して不思議に思うこともなく、ただ喜んでいた。けれど、今ならわかる。

 弥彦には〝そういうこと〟を引き寄せる何かがあるのだ。


 ***


 翔太のあとについてやってきたのは母屋だ。広い平屋の日本家屋は古くはあるが手入れが行き届いている。落ち着いた雰囲気の苔庭を眺めながら長い外廊下を歩いていく。


 離れから滅多に出てこない私が母屋にいることに驚いたのか。赤い着物に黒く長い髪と、まるで日本人形のような姿を不気味に思ったのか。

 守人の家の者たちも使用人たちも、私の姿を見るなりぎょっとした表情になり、すぐさま緊張した様子で頭を下げた。

 その中には年老いた彼の妻も――翔太の祖母もいた。私を見るなり唇を噛み、それでも他の者たちと同じように頭を下げた。


「だから、こちらにはあまり来たくないのだけれど……」


「何か言った?」


 ため息交じりに呟くと翔太が不思議そうな顔で振り返った。何でもないと首を横に振ると安心した様子でまた前を向いて歩き出した。


「お祖父さまの体調がよくないんだ。だから、みんな集まってるんだって。……千代にもトラとムギを見せたかったんだけど、人が多くてどこかに隠れちゃったみたいなんだよね」


「トラとムギ?」


「今年の春にサビが生んだ子たちだよ。千代は猫、好き?」


 サビは母屋で飼われているサビ猫だ。外廊下を歩きながら翔太はきょろきょろとあたりを見回した。


「えぇ、好きよ」


「なら、余計に見せてあげたいんだけどなぁ」


 動物の本能だろうか。猫の方は私を怖がって近寄って来ようとしないのだけれど。

 私は苦笑いで翔太の背中を見つめた。大人たちが私のことを腫れ物のように扱う中、子供の翔太だけが普通の人間のように接してくれる。普通の少女のように接してくれる。

 たったそれだけのことで私の心はぽかぽかと温かくなった。


 でも――。


「お祖父さま、千代を連れてきました」


「……入、れ」


 翔太が開けてくれた障子戸の向こうから聞こえてきた木枯らしのようにしわがれた声に、私の心はあっという間に冷たくなった。


 畳の部屋には布団が敷かれている。そこに枯れ枝のように細くなった老翁ろうおうが横たわっていた。


「……」


 凪いだ夜の川面に満月が映り込んでいるかのような優しい目が私を見つめる。気楽に声を出せるほどの体力も残っていないのだろう。彼は目だけで座るようにうながした。


「翔太、ありがとう」


「ううん!」


 薄暗い部屋に翔太の声だけが明るく響いた。翔太が部屋を出て行き、障子戸が閉まれば照らすものは何もない。


「……」


 私は黙って彼の枕元に座った。背筋を伸ばして正座する私を見上げたあと。彼は目を閉じて疲れた様子で息を一つついた。


「そろそろ……いかなければ、ならない……ようだ……」


 目を閉じたまま、彼は力ない声で言った。


「……そう」


 私の暗く沈んだ声を聞いて、彼は何を思ったのだろう。


「心配、するな」


 薄く目を開けて、今までよりもはっきりとした声で言った。


「千代、のことは……絶対に……俺が、守る。絶対に離さ、ない……離したりは……しない。だか……ら、大丈夫。……安心して、待ってなさい」


 唇の端がピクリと動くのが見えた。布団の端からわずかに指先が見えた。

 私を安心させようと微笑んだつもりなのだろう。幼い頃のように手を差し出そうとしたのだろう。

 私は彼を静かに見つめた。

 微笑み返しもせず、手を取ることもせず、絶対に離さないでとすがることもせず。ただ、じっと――。


「死を、見てはいけない。……わかって、いるね」


「わかっているわ」


 私の答えに彼は満足げに息をつくと目を閉じた。もう長くはない。私はさっと立ち上がると部屋を出た。

 障子戸を閉めると外廊下にしゃがみこんでいた翔太が顔をあげた。


「もう、いいの? お祖父さまとの話は終わったの?」


 翔太の笑顔に私は目を丸くした。


「まだ、いたの?」


「うん、待ってた。もう離れに戻る? それなら送ってく。途中でトラとムギを見つけたら千代にも紹介するよ。できるなら抱っこもさせてあげたいな。あったかいんだよ!」


 春の木漏れ日のように暖かな声と、凪いだ夜の川面に満月が映り込んでいるかのようにきらきらと光る優しい目に、冷たくなっていた私の心がふわりと温かくなった。私の笑顔を見てか、翔太もくしゃりと笑った。


「お祖父さまが死んでも千代のことは守人の家が……俺が絶対に守るから。絶対にこの手を離したりしないから。だから、大丈夫だよ。安心して」


 そう言って翔太は私の手を取った。


「……っ」


 翔太の笑顔に、遠い記憶にある弥彦の笑顔が重なった。ふと強張った私の表情には気付かないまま、翔太は外廊下を歩き出した。

 私の手を引いて、トラとムギを探しながら歩いていく翔太の背中を見つめたあと。私はうつむいた。


 体も心も十才だった、あの頃。

 私は二才年上の少年に恋をしていた。厳しい生活の中でも穏やかな微笑みを絶やさない弥彦に恋をしていた。


 春の木漏れ日のように暖かな声に。

 凪いだ夜の川面に満月が映り込んでいるかのようにきらきらと光る優しい目に。

 あの頃の私は、間違いなく恋をしていた。


 だけど、今は――。


 ***


 守人の家の敷地にはたくさんの草木が植えられている。木々の葉が生い茂って、どこも太陽の光が直接差し込むことはない。

 母屋は手入れが行き届いているから薄暗くとも木漏れ日の柔らかな光が差し込む。


 私がほとんどの時間を過ごす離れは違う。人が入ることを私が嫌がるため、必要最低限の手入れしかされておらずうっそうとしている。

 不気味で、だからこそ、いつまで経っても十才の子供の姿のままな私にはお似合いな住処すみかだ。


 自嘲気味に笑っていると、私の手を引いていた翔太が足を止めた。


「どうしたのかな」


 そう言って振り返る翔太につられて私も振り返る。母屋の方が騒がしい。

 恐らく、きっと――。


「お祖父さま!」


 翔太は大声をあげ、私の手を握ったまま母屋に引き返そうとした。私はその手を引いて止めるとゆるゆると首を横に振った。


「私は行けない。私は……死を見てはいけないから」


 〝弥彦の死〟を見てはいけないから。

 見たら、私が一人ぼっちにならないように、私の手を離さないようにと弥彦が見つけ出し、守ってきた〝まじない〟が解けてしまうから。


「なら、俺が行ってくる! 俺が千代の分までお祖父さまを見送ってくるから!」


 そう言ったかと思うと翔太は私の手を離して母屋へと駆け出した。


「だめ……!」


 ――離さないで。


 そう言いかけて私は結局、言葉を呑み込んだ。


 着ているというよりも、子供用のスーツに着られているといった様子の男の子。十才かそこいらの、まだ子供だ。

 見た目は子供の姿をしていても、私は三百年近く生きている良い年をした大人……いや、バケモノだ。

 だというのに翔太の手の温もりが離れた瞬間、寂しさを感じてしまった。ずっとそばにいてほしいと思ってしまった。


「いい年をして……子供じゃあるまいし」


 翔太の背中が離れと母屋を仕切る竹垣の影に消えるのを見送りながら、私は前髪のきわを撫でて苦笑いする。

 柔らかな木漏れ日が差し込む母屋に背を向け、薄暗い離れへと歩き出す。一歩、二歩と歩いたところで――。


「……千代」


 翔太の声に私は足を止めた。母屋の騒ぎを見に――息を引き取ったのだろう彼を見送りに行ったはずなのに。


「どうしたの、翔太……」


 慌てて振り返った私はため息のような吐息を漏らした。


「千代」


 そこに立っていたのは間違いなく翔太だ。翔太の、姿をしていた。

 私は今にも泣き出したい気持ちになった。それでも泣くまいと堪えて笑ったせいで、ぐにゃりと顔が歪んだような気がした。


 ***


 昔から弥彦のまわりでは〝そういうこと〟がよく起こった。


 流行り病から助かって十年近くが経ち、弥彦はすっかり大人の男性の姿になったのに、私は十才の少女の姿のまま。


 病気に罹らず、どんな大きなケガを負っても死なないことに気が付いた周囲の者たちは、私を気味悪がるようになった。

 川で溺れても、飢えても、どれだけ苦しくても……死ねないことに気が付いた私は、私自身とこの先の未来に絶望した。


「お願い、弥彦。この手を離さないで。ずっとそばにいて。私を一人ぼっちにしないで」


 周囲の者たちから気味悪がられて孤立することが怖くて。弥彦だけが老いて私一人残されることが怖くて。

 弥彦の手を握りしめて泣き暮れるようになった私に弥彦は言った。


「千代のことは絶対に俺が守る。絶対に離さない。離したりはしない。だから、大丈夫。安心して待ってなさい」


 春の木漏れ日のように暖かな声でそう言って私を抱きしめて。凪いだ夜の川面に満月が映り込んでいるかのようにきらきらと光る優しい目で見つめたあと。弥彦は私の手を振り解いて一年ほど姿を消した。

 そうして次に帰ってきたときには、弥彦は私を一人にしないためのすべを見つけ出していた。


 人魚の肉を見つけ出したこと。

 村の人々も、家族も、私も。誰もが流行り病に罹る中、たった一人、弥彦だけが流行り病に罹らなかったこと。


 不老不死になった私を一人にしないためのすべを見つけ出したこと。

 守人の家を作り上げるに至ったこと。


 昔から弥彦のまわりでは〝そういうこと〟がよく起こった。


 運が良かったんだよ、と言って弥彦は無邪気に笑った。

 不思議なこともあるもんだね、と言って無邪気に笑い返す気には……私はもう、なれなかった。


 昔の私は大して不思議に思うこともなくただ喜んでいたけれど、今ならわかる。弥彦には〝そういうこと〟を引き寄せる何かがある。


 弥彦は、異常だ。


 ***


「千代」


 そこに立っていたのは間違いなく翔太だ。だけど、翔太の姿をしているだけの別物だ。

 私は今にも泣き出したい気持ちになった。それでも泣くまいと堪えて、震える声で尋ねた。


「……弥、彦なのね?」


 今にも泣き出しそうな顔で笑う私を見て、彼は――翔太の姿をした弥彦は何を思ったのだろう。


「だから言っただろう、千代。絶対に離さない。千代を一人ぼっちにしたりはしない。大丈夫、安心して待ってなさい、と」


 春の木漏れ日のように暖かな声で。凪いだ夜の川面に満月が映り込んでいるかのようにきらきらと光る優しい目で。私を真っ直ぐに見つめて微笑んだ。

 私は堪え切れなくなって、顔を両手で覆ってうつむいた。


 弥彦は不老不死になった私を一人にしないためのすべを――〝まじない〟を見つけ出した。

 その〝まじない〟を守り続けるために守人の家を作り上げた。


 弥彦の血を受け継いだ守人の家の子孫たち。

 彼らは不老不死になった私を一人にしないため、ずっとずっと弥彦が私のそばで私を守れるようにと用意した器。

 弥彦の体はとっくに、二百年以上も昔に死んで朽ち果てた。


 たった今、死んだであろう老翁は弥彦の子孫。

 そして、今代の弥彦の器。


「……いいえ」


 もう、先代と言うべきか。

 はたった今、死んで、弥彦の心は新しい体に移った。


 守人 翔太の体に――。


「俺は千代のことが誰よりも、何よりも大切なんだ。あの体が死んでも、この体が死んでも……千代のことは俺が絶対に守るから。絶対に離さないから。他の誰でもない、俺が千代を守るから」


 ついさっきまでは翔太のものだったはずの体で駆けてきた弥彦は私を見下ろして目を細めると手を差し出した。


「だから、大丈夫。安心して」


 気恥ずかしくなるようなことを憶面もなく言って、弥彦は翔太の顔で微笑んだ。

 凪いだ夜の川面に満月が映り込んでいるかのようにきらきらと光る優しい目に、私はぐにゃりと歪んだ笑顔を返した。


 体も心も十才だった、あの頃。

 私は二才年上の少年に恋をしていた。厳しい生活の中でも穏やかな微笑みを絶やさない弥彦に恋をしていた。


 春の木漏れ日のように暖かな声に。

 凪いだ夜の川面に満月が映り込んでいるかのようにきらきらと光る優しい目に。


 あの頃の私は、間違いなく恋をしていた。


 体は何度、死んで変わっても、弥彦の心は変わらない。

 生まれ育った山間の貧しい村で暮らしていた頃と同じように。流行り病から逃れるために私を背負って村を出た時と同じように。

 今も私のことを――私のことだけを大切に想ってくれている。


 なのに、私は――。


 十才の、それも栄養状態の良くない子供の姿で時が止まってしまった私の体は、子供を成すことができなかった。

 だから、守人の家は弥彦と子供を成すことができる誰かとによって作られた。弥彦の器となった子孫たちと誰かとによって受け継がれてきた。


 そのことが憎らしくて、みじめで。

 翔太や、先代の彼や――弥彦の器となった守人の家の子孫やその母親のことを思うと苦しくて、申し訳なくて。


 体は十才のあの頃のまま、少しも変わらないのに、私の心はいつの間にか変わってしまった。

 遠い昔、私の心にあった弥彦への想いはもう、ない。


 だけど――。


「決して千代を一人にはしない。寂しい思いも怖い思いもさせない」


 だけど、そう。

 一人になるのは寂しい。怖い。


 だから――。


「千代、大好きだよ」


 翔太や、先代の彼や――弥彦の器となった守人の家の子孫やその母親たちへのごめんなさいの代わりに言うのだ。

 弥彦に嘘をつくのだ。


「……私もよ、弥彦。だから、絶対に離さないで」


 差し出された手を――取るのだ。


 穏やかな微笑みを浮かべ、弥彦は強く私の手を握り返した。


「もちろんだよ、千代。絶対に離さない。離したりはしないから」


 春の木漏れ日のように暖かな声に名前を呼ばれ。

 凪いだ夜の川面に満月が映り込んでいるかのようにきらきらと光る優しい目に見つめられ。

 遠い昔に朽ち果てた大好きな人の体と、恋をしていたあの頃を思い出して。


 私は、泡になって消えてしまいたいと――そう思った。

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人魚姫は恋をしていた。 夕藤さわな @sawana

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