告げ口幽霊

馬村 ありん

告げ口幽霊

 クラス委員長の倉橋星奈が、売り物のチョコレート菓子を通学カバンにしまうのを目撃した時、僕は「告げ口幽霊」が話したことすべてが真実だったと確信した。


「嘘だと言ってくれ」

 僕は口の中でつぶやいた。


 店を出ようした倉橋と鉢合わせした。倉橋は表情をかたくしたが、僕の作り笑顔を見て安心したようだ。

「美濃部クンじゃん! めずらしいね、きょうは歩きなんだ。買い物?」

「ああ。暑いしのどが渇いてさ。水でも買おうかなって――」


 世間話のあと、僕たちは別れた。幽霊の言うことが真実であるならば、この後倉橋は駅前を根城にしている浮浪者に盗品を与えて優越感に浸ることになる。


 めまいが襲った。足元がふらついて雑誌コーナーに倒れ込みそうになったけれど、なんとかこらえた。

 だれか嘘だと言ってくれ。

 僕が聞かされた話はすべて僕の空想の産物であると。


「告げ口幽霊」が見えるようになったのはひと月ほど前、八月の夏休み中のことだった。僕は塾の模試でひどい点数を取ってしまい、母からなじられていた。


「この点数はどういうことなの?」

 目を三角にして母は言った。

「今回は全体の平均点も低いんだ。問題がやたらとむずかしかった。僕だけじゃないんだよ」

 僕のいいわけは概ね真実であったが、母は眉をひそめて声を震わせた。

「いつからそんなくだらない嘘をつくようになったのかしら。自分の怠けているのを誤魔化そうなんて。あなたがそんな態度じゃ、死んだおばあちゃんに申し訳が立たないわ」


 母のお小言にこたえた僕は、その日から勉強時間を増やすことにした。睡眠時間は五時間。それ以外はすべて勉強。体の無理は母が用意してくれたカフェインの錠剤で乗り切ることにした。


 とはいえ、時折めまいがし、耳鳴りがした。吐き気にも襲われた。それでも机に向かおうとする僕の前に、が現れた。


 休み中の登校日だった。担任教師が宿題の進捗状況をたずね、高校生として模範的な生活態度で夏を過ごすよう呼びかけていた。僕は気分が悪くて、うつむきながら聞いていた。


 その時だった。


 ひとりの生徒が教室を横切ってこちらに向かってきた。詰襟つめえり姿になで肩の男で、頭には古めかしい帽子(学生帽というのだろうか)をかぶっていた。

 どう見ても同じ学校の生徒ではなかった。うちは指定のブレザーだし、詰襟なんて三十年も前に廃止されたはずだ。


 違和感は、男が近づいてくるにつれて高まってきた。僕を見つめるうつろなまなざしに、ろうそくみたいな白い肌。

 そして、何より恐ろしいのは僕以外誰も男に関心を向けていないことだ。男は僕にしか見えていないのだ。

 ――幽霊。

 そんな言葉が頭をよぎった。


 男は僕の目の前まで接近すると、その薄い唇を僕の耳に触れさせた。じわりと針が刺されるような冷たさが広がった。

 その体から漂う卵の腐ったような臭い。

 幻覚だ。

 僕はそう思うことにした。


 ぼそぼそ、ぼそぼそ。

 男は何かささやいてきた。 

 聞こえない、聞こえない。

 そう思えば思うほど、その声を強く意識してしまう。

 男の墓穴から響いてくるような声が語りはじめたのは、あるクラスメイトのことだった。


 ――緑川あみはお前に狂っている。理想化して王子様みたいに思っている。お前を想って毎晩股をいじってる。彼女のベットシーツはいつも汁まみれ。

 僕の「幻覚」は僕の大切な友人のひとりを侮辱する。

 つまりは、僕が彼女を侮辱しているということだ。


 なんでこんな馬鹿な幻覚が浮かぶ?

 緑川あみはかわいいし、元気がいい。その笑顔はひまわりのようにクラスの雰囲気を明るくする。

 僕は彼女が好きだ。

 母の車で一緒に下校できたらと思うくらいに。


 それなのに、心のそこではこんなふうに考えていたのか?

 自問自答していると、いつの間にか幽霊は姿を消していた。

 跡形もなく。

 

 きっと受験勉強で心が参っているんだ。

 今夜は日付が変わるころには寝ることにしよう。

 ……本当は精神科に行きたいくらいだが、母を心配させられない。


 夏休みが終わり、学校が再開した。

 疲れがたまってくると、きまって奴は姿を現した。

 僕は「見えない、聞こえない」と自分に言い聞かせる。


 奴は地獄の声でささやく。

 ――野球部のひょうきんもの、木下英司、やつは緑川あみに狂ってる。猿のような性欲で、あみと顔を合わせるたびイチモツを勃起させている。あみに近づく男には顔面パンチを食らわせてえ奴。


 ――バレー部のエース、矢幡シオリは死体フェチ。死体と暮らすことを夢見てる。愛しの彼氏をなぶり殺して死体にすることを妄想しているのさ。スポーツ少女の暗黒面。シオリンのスマホの画像コレクションに興味はないかね?


 ――ナルシス野郎の外山十矢は実の母とヤッている。若く肉感的なお母ちゃん。坊やが溺れるのも無理ないねえ。こんなことよくないわよ。でもアソコは濡れ濡れ。ああおろかな母ムスコ。


 ――演劇部の太賀翔子はパートタイムのSM嬢。学校帰りのボンデージ。男の背中でお馬のけいこ。はいどうどう、はいどうどう。乗馬鞭で男をさいなむ。あれもこれも女優の夢ための資金稼ぎよ。


 ――クラスみんなのパシリ、小高村健蔵は強姦魔。国分町の裏路地で何があったか知ってるか? ああ、かわいそうなOLさんよ。二度とは見られぬ顔になっちまい、警察にも届けられねえ。ああ、恐ろしいやつがいたもんだ。


 こんなふうに奴は『侮辱』を続けた。

 自己嫌悪に胸が苦しかった。

 僕はなんて嫌な野郎なんだと。

 だが、もう悩まなくてもいい。

 これまでに聞いたすべてのものが僕の幻想と片付けることができなくなったからである。

 

 翌日は登校するのに勇気がいった。

 僕はクラスメイトみんなの秘密を知っていた。死体愛好、万引き、過剰性欲、援助交際、強姦――。みんなと顔を合わせるのが怖かった。

 ――何も考えるな。

 知らぬ顔をしていればいい。いつものように。

 騒いで、母を刺激するようなことを起こすな――。


「美濃部クン、おはよう」

 昇降口についたときのことだった。緑川あみが下足箱の前にいた。彼女は僕を見やると、小首をかしげた。

「どうしたの? 顔色悪いよ。あんまり寝ていないんじゃない?」


「心配してくれるんだね、ありがとう。かぜでもないし、普通に生活ができるくらいには元気だよ」

「そうなんだ、よかった」


 青天の霹靂のように、緑川あみのあられもない姿が脳裏をよぎった。

 ベッドに一糸まとわぬ姿でよこたわる緑川。

 彼女の花のような唇が、僕の名をつぶやく。

 そして、その小さな指の腹が、股間の赤い果実をまさぐるのだ。

 僕は胸がムカつくのを感じた。彼女のそんな姿、信じられなかった。


「お、何してんだい?」木下英司がいた。「なんだよ、仲よさそうにして。妬けるじゃねえか」

 ニコニコ顔を向けられたが、僕は知っている。そのマスクの下に憤怒の表情が秘められていることを。

「すまないけど、先に行くよ。予習したいところがあって。ふたりはゆっくり来てよ」

 僕は靴を履きかえると、逃げるように階段をのぼっていった。


 皆の秘密を抱えていると思うと、気もそぞろになり集中力が続かなかった。

 いつもより授業が長く感じられた。

 ああ、集中しなくてはいけないのに。

 勉強しなくてはいけないのに

 ――こんな気分のときに、奴が――奴が現れたらどうすればいいんだ。

 パニックの予感が芽生えはじめた時、姿


 ――知っているかい、美濃部クン。

 腐乱臭がただよった。


 消えろ、消えてくれ。

 頼むから僕に構わないでくれ。

 何も聞きたくないんだ。

 何も話さないでくれ。


 ――倉橋星奈チャン、肩書を殺人犯に変えたぜ。こんなことがあった。温情さしあげた浮浪者がまさかのキッスのおねだり。コーフンした男の爪が星奈チャンの柔らかな右手の甲に食い込んだ!

 ――抵抗して暴れたら、おっとっと、浮浪者のやつ、車道に飛び出てしまいやがった。そこに登場、ワンボックスカー!


 視線が倉橋星奈の方に向いた。その右手が目に入った時、僕の心臓はバクバクと高鳴った。彼女の右手は包帯で覆われていたのだ。


 ――あの子はほっぽりだして逃げてった。一心不乱に逃げてった。そこにカメラはなかったが、鑑識の兄ちゃんにゃ捜査キットがある。シャバでの生活もあと何日?


 倉橋星奈は黒板の内容を板書している。長い黒髪をかきあげ、ノートにボールペンを走らせる。その快活そうな雰囲気は平時と変わりがなかった。

 不可抗力とはいえ、人を死に追いやった人間がここまで平常でいられるのだろうか?

 吐き気。

 グロテスクな現実に、神経がぎりぎりとしめつけられた。


 ――緑川あみちゃんの真実。美濃部クンは知りたいかい?


 僕は、「告げ口幽霊」のほら穴のような眼球に視線を合わせた。

 絶対零度の冷たさが僕の眼球を射抜く。

 それでも僕は見つめ続けた。

 やめろ! 知りたくない!


 ――あの子は英司と結ばれた。お前のつれない態度に呆れ、猿のような男を選んだんだよ。


 うそだ。


 ――ドスケベ同士が結び付きゃ、やるこたぁはひとつ。あらゆる前戯をしまくり。あらゆる体位でヤリまくり。場所も時間も選ばねえ。学校は無料のラブホテル。フレンチな文庫一冊かけそうな体験ずらり。

 ――あの時告白していれば? 今でも心はお前にあったのに。全部お前のせいだよ、美濃部クン。


 絶叫が喉をほとばしり出た時。

 クラスメイト――変態と強姦魔と窃盗犯と殺人犯と売女ども――の何十もの視線が僕に向けられた時。

 そこになんの感興もわかないと気づいた時。

 僕は完全におかしくなったのだと思った。


 しかし、まだ理性の余地があったのだと次の一言で思い知らされた。


 ――お前のおっかさん知りたいかい?


 やめろ、やめろ、やめろ、はなさないでくれ、はなさないでくれ。


 ――担任教師とヤッてるよ。


 ハナサナイデ。



 終わり。

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