第2話

『今のあなたが、あなた自身の事を思い出す事は出来ません』

「どういうこと?」

『そういうものなのです』

「なんだよ、それ」

 ソフィは有益な情報を与えてくれない。やはり、僕の脳が拵えた仮想の人格に過ぎないモノなのだろうか。


『あなたはこれからその部屋を出ます。あなたが手に持っていたその二つは必ず持って行ってください』

「その二つって、音叉とこのおもちゃ?」

 僕は右手にマジックハンド、左手に音叉を持ってそれぞれを眺める。

『そうです。その二つは決して手放さないで』

「ん。あぁ。分かった……」

 自分の名前さえも思い出せない心細さは、ソフィに従う事を余儀なくさせる。たとえ、ソフィが僕の脳の拵えた疑似人格であったとしても、不安を少し軽減してくれる存在であることに変わりはない。


『それでは、この部屋を出ますか?』

「うん。出よう」

 ソフィに促されるまま立ち上がり、僕は目の前のドアを開け部屋を出る。そこは何もない空間だった。僕は思わず振り返ったが、そこにはもうドアもない。

 足元に意識を向ける。床を踏みしめている感覚はない。上下の感覚もはっきりしない。現在が落下の最中だという実感はないが、そうではないとも言い切れない。薄いしゅのモヤが果てしなく見えているこの空間では、落下中だとしても目に入ってくる風景でそれを知る事が叶わない。


「なんだ、これ。浮いてるの?落ちてるの?僕は今どうなってるの?」

 僕はソフィに問いかける。

『落ち着いて。音叉を響かせて』

 僕は音叉で手首を叩く。音叉は響かない。あぁ、固いモノに当てなきゃ。次に音叉で叩いたのはマジックハンドの柄だった。ラの音がようやく響く。

 すると、朱のモヤが晴れていき、世界の輪郭が出来上がっていく。


「ここは、どこ?」

 草原と砂漠と子供部屋がないまぜになった世界が目の前にあった。

『ここは、これからあなたが生きていく場所。もうすぐ外の世界に辿り着きます』

 外の世界?なんだ、それ。草原の上に吹く爽やかな風、砂に埋もれたおもちゃ箱、照りつける強い日差しのせいで砂も草も絵本も眩しい位に光っているように見える。ただ、見上げても空に太陽は見えない。


「……どうやったら外に出られるの?」

『あなたが進むべき道を歩むだけで出られます』

「音叉とマジックハンドは、この先も必要なの?」

『その音叉は便利なものです。使う度にあなたを助け、あなたを強くします。ですが、使う度にあなたから何かを奪います。持って行くなら、マジックハンドで握って持って行くのがいいでしょう』

 ソフィの言う事は僕の脳が拵えられるものの範疇を出ない。でも、音叉が便利でありつつも危険だという示唆は恐ろしく、持って行くべきか捨ててしまうべきかで迷う。


 有用だが危険な音叉と、なんの役にも立ちそうにないマジックハンド。

 訳が分からないまま、僕はソフィの助言に従う事にする。マジックハンドに音叉を握らせ、そのマジックハンドの持ち手を握って僕は歩き出す。

 草原を行けば侵食してくる砂漠、砂漠に向かえば草原が現れ、拾えば砂になるおもちゃや絵本。どこへ向かうべきなのか、確信を持てないままに僕は歩みを進める。


 僕は自分が何者なのか、向かうべき方向がどちらなのか分からないまま、出て行ける事を信じて足を動かす。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る