ぺガススの尾を追って

IS

グランド・フィナーレ

 ゴールラインまであと1500mの地点で、私は未だ後塵を踏んでいた。身体が熱い。火を噴くようだ。比喩じゃない。それは腕が、足が、心臓が、彼女を抜くために私の全身が死力を尽くしていた証だった。前方で、全身を斜めに倒し、華麗にカーブを曲がっている彼女を、特徴的なポニーテールが鞭のように揺れている彼女、天馬鈴音を、私は抜かなければならなかった。


 鈴音は私が一方的にライバルに認定した相手だった。鈴音を走りで抜くために、それ以外のすべてを私は捨ててきた。カーブが終わり、いよいよ最後の直線が訪れる。ゴールラインまで残り1000m。培ってきたすべてを、これまで生きてきた15年すべてを遂に燃やし尽くすときがやってきた。カリッ。奥歯を強く噛んだ。それは、私の秘密兵器の起動スイッチだった……。





「わたしのもくひょうは、一番はやい選手になることですっ!」


 私が小学生のころ、地域合同の練習会だっただろうか。同学年の女の子たちの前で、私はそのように言ったと思う。帰ってきたのは嘲笑の嵐だった。「無理に決まってるじゃん」「現実見ろよ」「もっと気楽にやりましょう?」今ならわかる。それは正常な反応で、私が鈍かっただけなのだと。夢見がちな少女の夢を、その中に一人だけ、笑わなかった子がいた。それが鈴音との最初の出会いだった。優しい子だと思った。いっしょに走りたいと思った。でも、彼女こそが、人が一番はやい選手になれない理由だった。


 ”最速の女”、天馬鈴音。彼女は小学生にして、この世の何よりも速かった。最初にオリンピック金メダリストが負けた。今度はチーターが敗れた。最新のジェット機が、ランニングマシンが、次々と投入されては、彼女はそれを軽々と置き去りにしていった。そして、高校生になるにしたがって、ただでさえ早かった彼女の脚はさらに早くなっていった。


 格好いい。憧れと同時に、恨めしさも抱いた。私もはやく走りたい。一緒に並んで走りたい。彼女が見ている景色が見たい。けれどもそれは困難で、どれだけ努力を重ねても、クラスで一番早い男子にさえ、私は勝つことができなかった。たぶん、私の身体は走りに向いていない。なんとかしなければならなかった。早く走れない私が、早く走れるようになる方法を模索し、いつだったか、一つの結論に辿り着いた。


 ――私は、ヒトを捨てることにした。


 最初に捨てたのは脚だった。スラスター内蔵ターボレッグアーマメント、通称”アローヘッド”。次は腕だ、速さは腕を振る速度に比例する。多機能内蔵機腕”デリカッセン"。最初は戸惑いもあったが、肺や眼を置換した頃には迷いが消えていた。あるいは思考補助汎用フレームワーク”ケルベロス”が不安を消してくれたのかもしれない。


 大好きだったシュークリームも、頑張っていた筋トレもいらない身体になった。両親から疎遠になった。それでよかった。人生の不要な部分が、力になっていく実感があった。そうしてようやく、彼女のポニーテールを追いかけるところまで、ようやくたどり着いたのだ。生身の9割を犠牲に、私は地上二番目に早い女になった。あともう少し、残り1割も捨ててしまえれば勝てる。その確信があった。


「弊社としては現状で十分満足しています。まだ機能拡張されるのですか? 既に、自我汚染が始まっています。これ以上のアーマメント増築は、危険です」


 マネージャーが必死に懇願してきたのを覚えている。ノヴァテック社の、なんという男だったか。彼らが作る機械のテスターになるのと引き換えに、私は無尽蔵に身体を換えることができていた。そして、彼らの試作機の中に、私がちょうど求めていたものがあったのだ。再三の拒否要請を無視して、半ば脅す形で試作機をつけさせた。そうでなくとも、私の身体の大半は人道に反する装置でいっぱいだったのだ。交渉自体は想像以上に簡単だった。そうやって、私はついに全身機械人間になれた。鈴音への挑戦権を獲得したのだった。

 




――そうして今に至る。ゴールラインまで残り1000m。私は未だに後塵を踏んでいる。身体が熱い。火を噴いている。違法増築を繰り返した全身が、ついに熱暴走を起こしかけているのだ。もう長くないことは分かっていた。待っているのは破滅だった。構わない。あのポニーテールを抜くためにこそ、私の人生はあったのだから。カリッ。奥歯を強く噛んだ。それは、私の秘密兵器の起動スイッチだった。


 脊髄の辺りに急激な痛みが生じる。それは首を通じて、脳にまでやってきた。頭が割れそうだ。でも、これが起動成功の証だった。私は義眼”ダンタリオン”を通じて、目の前のすべてを、レース場のすべてを観察した。ほとんどのものが停止していた。唯一、鈴音だけが走り続けていたが、視界にとらえた彼女の姿は、先ほどまでよりも遥かに緩慢な動きをしていた。時間が、泥のように遅くなっていた。


 私は走り続ける。痛みの他に障害はない。ゆっくりになった世界で、私だけが正常に動き続けている。これが秘密兵器、主観加速試作装置、”ラストダンス・アーマメント”の効果だった。これをつけたテスターは今までに7人。私の他はすべて死んでいた。加速した体感時間に合わせて動かすには、他の性能が追いついていないのだ。間もなく私も後を追うだろう。その前に走り切る必要があった。鈴音よりも先に。


 振り返る余裕はなかったが、今、私は鈴音よりも前にいた。釣り餌のように目の前で揺れていたポニーテールはもうない。地上最速の女を抜いた瞬間だった。残り600m、500、400……! ゴールラインまであとわずか。鉄の心臓プラトニック・ラブの高鳴りは最高潮に達していた。そして。


 ガクン。足が沈んだような錯覚があった。義眼上に表示される、ほとんどワーニングだらけの全身パラメータの中に、ついにロストの文字が映った。過剰酷使してきた鉄の脚アローヘッドが、いよいよ限界を迎えたのだ。


 まだ競技継続中である。走り続けなければならない。私は即座に判断した。足を、下半身ごと切除した。咄嗟に腕を地面につけ、逆立ちの体勢になる。外から見ればどれだけ滑稽な姿なのだろう。問題なかった。


 私は、決して逆立ちのプロではなかった。鉄の腕デリカッセンもそのような設計思想はないのだろう。主観上は問題ないはずなのに、自分の動きがひどく鈍く感じた。残り350、300……不意に私は横を見た。そこには鈴音の姿があった。


(抜き返された……!)


 彼女の表情を見る余裕はなかった。この鈍化した世界の中で、それでも彼女は早かったのだ。逆立ち走りする自分を抜けるくらいには。まだだ。まだ諦めるわけにはいかない。本当に最後の、最終手段がある。そのためには、もう少しゴールラインまで近づく必要があった。


 揺れるポニーテールを追って、私は走り続けた。腕から火花が飛び散るのが見えた。もう少し、あともう少しだけ持ってほしい。残り250、200……不意に視界が赤く染まった。義眼さえも故障し始めたのだ。一歩進むごとに、遂に必要なものまでが零れ落ちていく感覚。私の自我なかみがこぼれていく。あるいは最初から壊れていたのかもしれないが。


 夕焼けに支配されたような世界で、それでもパラメータ表示は消えないでくれていた。残り170、160……150……!


(ここだっ!)


 最終手段は、意識のトリガーを必要とする仕組みだった。私の目は、後方で崩れ落ちる私自身の上半身の姿を見た。そのずっと先に、とっくに大破していた下半身の姿もあった。そうだ。目論見通り、私は頭部だけになって射出されていたのだ。


 ピッチングマシンから放たれた剛速球そのものになったのだろう。初めての経験だった。くるくると回り続け、あらゆるものが視界に映った。ノヴァテック社の社員。観客。その中に、涙を流して見守る、私の両親の姿。私はもう彼らの名前を憶えてさえいないのに、自分の名前も忘れちゃったのに、それでも応援してくれていたのだった。なぜか一瞬、シュークリームの画像が思考領域を過ぎった。幸せだったんだと思う。昔も。


 回転する視界がある方向を向く度、鈴音との距離が縮まっているのが分かった。幸いにも、射出された方角がややズレていたので、私の頭が彼女の背にぶつかって砕ける心配はなさそうだった。


 彼女のポニーテールまで、あと50m、40m、30……今度の私は、逆立ちよりはずっと早かった。秘密兵器ラストダンスの効果が切れたのか、段々と、周りの時の流れが早くなっていくのを感じた。私は……この時間が口惜しく感じた。勝つために走っていた筈なのに、最後の最後に、彼女を追い抜こうとしているこの瞬間が、いつまでも続けばいいのにと、なぜか思った。不意に私の口元に何かが入った。ゴールテープだった。


(そっか、終っちゃったんだ……)


 ゴールテープを少し超えたところに、私は落下した。地面にぶつかったしょうげきで、更に壊れてしまった気がした。頭がチリチリと痛い。なのに晴れやかな気分だ。きっと思考補助装置ケルベロスもこわれてしまったのだろう。


『ゴォォォォォオオオオルッ!! 両者、ほぼ同時にゴールテープを切りました!  どちらが先にゴールに到達したのか、確認してみましょう』


 実況のやかましい声が脳に響いた。音量を下げようかとおもったが、ハードを弄る手が消えていたので、我慢するしかなかった。


『これがゴールの瞬間をカメラがとらえた映像です。コマ送りします……これは、ハナ差、ないです! 天馬選手の右足と、――……鼻先が同時にゴールラインに――……………』


 不意に、せかいから音が消えた。集音の機能もこわれたか。その映像を私も見たかったが、首がないせいで上を向くことができない。壊れるまで走った代償は、自分の順位が分からないまましんでいくことだったのだろうか。しょうがないかな、とおもった。


 バチン。いたい。あたまがチカチカした。あたまのうごきが、かなりにぶくなったきがする。めのまえも、どんどんまっくらになってく。こわくはなかった。せいいっぱい、はしりきったんだから。


(――あれ)


 じめんについたはずなのに、まためのまえがくるくるした。めのまえに、すずねのかおがあった。りんごみたいにかおをまっかにして、こどもみたいになきじゃくりながら、すずねがしゃべった。


「――、――、………………」


(………………あれ)


 もうみみはきこえないのに、なんでか、すずねがいっていることがわかった。『はしってくれて、ありがとう。たのしかった』……それだけのことばだけど、いまようやく、すずねをわかったようなきがした。


 きっと、すずねはさびしかったんだとおもう。みんないっしょにはしってくれないから。たったいっかいだけだけど、わたしはすずねといっしょにはしれた。ほんのいっしゅんだけ、わたしたちは、さいそくのおんなたちになれたのだ。


 すずねのうしろにモニタがあって、たぶんじゅんいはっぴょうしてるけど、それでもさいごはすずねのかおをみたかった。りりしくて、つよくて、それでいて、ふつうのおんなのこみたいなかお。いまはないてるおんなのこのかお。


(ああ……やっぱり、ずっとつづいて、ほしいな……)


 なにか、すずねがいってる。こんどは、わからない。どんどんまっくらになっていく。ああ、でも。ほんとうに。


 ……たのしかったな。




【グランド・フィナーレ】完走

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