午後6時 その気持ちは

 午後6時

 慶彦は深淵と2人で歩いていた。

 海沿いの道を夜空が照らし、海が月光を反射しての効果もあってか、2人のその姿はとても映えた。

 2人の向かう場所は水族館。海沿いに作られた昔からある古い水族館である。けれど、つい2年前にリニューアルされたばかりなので、ある意味では比較的新しい水族館ともいえる。

 潮風を浴びながら2人は歩くこと5分。

「着いた。ここだな」

 深淵の行きたがっていた水族館、ドルフィンアクアリウムに到着した。

 水族館の周りにはクラゲを模した街灯が設置されており、それが神秘的に光っていた。建物は全体的に淡い青色。シンプルかつ、清潔感のある綺麗な見た目だ。

「うお〜、すごい」

 深淵が小走りをしてある物の所へ向かう。そこには、大きなイルカの像があった。海面から飛び出し、ジャンプしているイルカの像である。灰色1色でも十分に見応えのあるイルカ。海面の水しぶきまで再現しているのだから、それはもう美しい姿だった。

「かっこいい!」

 深淵がイルカの尻尾を触りながら振り向き、慶彦に伝える。

「良かったな」

 深淵の下に歩いて向かいながら、そう呟く。なんだか、久々に深淵の楽しそうな顔を見て、慶彦も自然と笑みがこぼれた。

「その像の生き物、お前知ってるか?」

「……知らない。生き物なの?」

 どうやら深淵は生き物かどうかすらも知らないらしい。

「それイルカって言うんだ。英語で言うとドルフィン」

「イルカ、名前はかわいい」

「だな。てか、早く行くぞ」

 確かこの水族館では平日の最終入場が7時までだったはずである。まだまだ時間に余裕はあれど、万が一に備えることは大切だ。

 慶彦は財布の中身を確認しながら受付に向かう。その後を深淵がついていく。イルカの像から離れ、少し名残惜しそうにしていた。

「……こんばんわ。2名様ですか?」

「はい。学生です」

「ですと、料金は1万円になります」

 慶彦はだろうな、と思いながら財布から1万円札を取り出す。ちなみに、取り出した一万円札はレアなプラモを見つけた時用の隠し金である。

「ちょうどお預かりします」

 2人で1万円。一人当たり5千円の出費ということになる。他の水族館が入場料をどのくらい取るのか知らないが、ここの水族館は比較的安い方だと、慶彦は思っている。しかも安いわりに中の設備が意外といい。分かりやすく言えば、綺麗だ。

「ごゆっくり」

 2人分のチケットを受け取り、そのうちの1枚を深淵に手渡す。

 慶彦の持っている方のチケットにはカメが描かれており、深淵の方にはイルカが描かれている。なかなかに可愛らしい絵だ。

 それを持って、2人は水族館の入口へと向かっていく。その短い道中、クラゲのオブジェが置いてあるのを慶彦は見つけた。初めて見るオブジェだった。

「怖い見た目だよ」

 無意識の内に立ち止まってオブジェを眺めていた慶彦に、深淵は話しかける。

「……ん? まぁ、見る人によってだな。本物はすごい綺麗だぞ」

「それ本当?」

「本当だ」

 入口に歩いていき、買ったチケットを今度は入口の方にある受付に持っていく。先程チケットを買った受付とはまた別である。

 受付にいる、胸元に研修中と書かれた名札をつけたバイトの人に、慶彦はチケットを見せる。

 隣で深淵も慶彦のようにバイトの人にチケットを見せる。

 バイトの人はチケットを受け取り、穴あけパンチでチケットに穴を空ける。

「どうぞ、ごゆっくり」

 穴を空けたチケットを慶彦と深淵に返し、中へと案内される。

「ありがとうございます」

「……ありがと」

 入口を越え、水族館の中へと入っていく。

「うわ〜きれい」

 一言。中に入った瞬間、深淵は感嘆の声を漏らす。

 目の前に広がるのは大きな水槽。中には海に住んでいるイワシ、エイ、ウツボ、ダンゴウオなど、たくさんの生物が泳いでいた。これがこの水族館の名物、入った瞬間大水槽、である。なかなかにダサいネーミングセンスだが、館長は自信を持ってかっこいいと言い張っていた。

 暗めな照明に館内の雰囲気も相まって、より美しく、かつ、存在を強調されている大水槽。

 久々に見た慶彦も、気づけばこの水槽に釘付けになっていた。それほど、魅力的なのだ。

「綺麗だな」

「うん。綺麗」

 ゆらゆらとゆったり泳いでいるエイ。集団できびきび行動をしているイワシ。ちょこまかと泳いでいるカクレクマノミ。

 まるで、海の光景をそのまま持ってきたような自然な世界。

 いつ見ても、飽きない水槽だ。



 その後、数分間2人は大水槽を眺めた後、次のエリアへと向かった。

 そこには、ぷかぷかと浮かぶ多種多様なクラゲ達がいた。オレンジ色のクラゲ。水色のクラゲ。小さなクラゲに花のようなクラゲまで。

 そのクラゲ達の姿は神秘的で、なにより見る者を魅了する魅力を持っていた。

「これってあの像だったやつ?」

 深淵が指差し、慶彦に確認してくる。

 その先にいたのは水色をした頭の部分にクローバーのようなマークがあるミズクラゲ。クラゲの中でもトップクラスの知名度を誇る人気なクラゲだ。

「像だったやつだ。ほら、見てみると綺麗だろ」

 ぷかぷかと漂うクラゲを一匹指差し、慶彦は言う。

「綺麗というか……かわいい」

 慶彦の見ていたクラゲの方にもう一匹別のクラゲが寄ってくる。

「ま、確かにかわいいな」

「うんっ。特にこの足」

「触手だな。……てかそこ?」

「そこ」

「変わってるな」

「そんなことない」

「へいよ」

 ミズクラゲを2人でたくさん眺め、その後にタコクラゲ、ハナガサクラゲと色々なクラゲを眺めてから、2人はクラゲコーナーを後にする。

 その後にも、たくさんのコーナーを渡り歩いていった。

 熱帯魚……かは分からないがそれっぽい魚のいるコーナー。

 通常よりも照明が暗めの深海魚コーナー。びくびくしながらも深淵は深海魚を見ていた。その時に慶彦はもちろんの如く、後ろから深淵を驚かせた。平手を食らったのは内緒である。

 屋外にある見学ゾーン。そこにはあの生物がある。

 夜空が2人を照らすなか、その生物は現れる。

「キィキィ!」

「おっ、気づいたな」

 慶彦達のいる場所のすぐ左手側には大きな水槽がある。とっても、その水槽は大きな円形をした、いわゆるショーで使う時の水槽。

 そしてその水槽の方からある声が聞こえてきたのだ。

 そして

 ゴチーーン!!!

「うわっ!?」

 深淵が驚いて声を出す。急に来る系は苦手なようだ。

 寄ってきた生物、それは水族館のショーでは欠かせない、いうならば皆のアイドル的存在、イルカであった。

「キィー!」

「よう。元気してたか?」

 水槽のガラスごしに慶彦はイルカを撫でるような仕草をする。それを見て嬉しそうに反応するイルカ。深淵は何が起きているのか理解出来ていない様子だ。

「よ、慶彦……もしかして」

「ん? ああ、こいつはイルカのカーくん。なんか仲良くなったんだよ」

 といっても何年も前の話だ。慶彦自身、そしてカーくん自身が覚えていたという奇跡があり、今このような状況が成り立っている。

「………すごっ」

 深淵はふと、そう口から漏らした。

 それもそうだ。こんな状況に遭遇して、驚かないはずがない。

 と、そんな深淵の反応を見て、慶彦は昔のことを思い出した。そうだ、カーくんと仲良くなったときも、親は深淵とまったく同じ反応をしていた。

 朝早くから水族館に行って、カーくんと仲良くなって、あの夕方の海を見て……。慶彦は不思議と懐かしい気分になった。

「キィ!」

 こつっ、とカーくんが口でガラスを叩く。それは深淵のいる方。慶彦から見て右手側だ。

 深淵はびくっとする。なんだか可愛いらしい仕草だった。

「えっ……え?」

 困惑している様子の深淵。折角会えたイルカだというのに、最初の出会い方がまずかったかもしれない。

「撫でるように手を動かすと喜ぶよ、そいつ」

「こ、こう?」

 先程の慶彦を真似て、深淵は撫でるように手を動かす。

 それを見てカーくんは喜び、キィキィと鳴いた。

「可愛い」

「だろ」

 深淵はその後、手をくるくると回したり、無自覚でかショーで使われる手振りをして遊んだりした。それに合わせてカーくんは水の中を縦横無尽に泳いでいく。

「ふふっ、すっごくかわいい」

「そりゃ良かった」

 自然と笑みがこぼれる慶彦。深淵はもう元気になったな、と改めて思った。

 カーくんと戯れ、笑っている深淵。それは、とても幸せそうに見えた。

「キィ! キィ!」

 カーくんも随分と楽しそうにしている。

 この水族館、やっぱ最高だ。

 慶彦は内心でそんなことを呟いた。



「楽しかったね」

 深淵が言う。

「おう。そうだな」

 慶彦は返答する。

 午後8時

 あの後、ひとしきりカーくんと遊んだあと、他にも見ていない場所をとたくさん見て回り、今はもう水族館を出てきたところだ。

 砂浜を2人で歩きながら、余韻に浸る。

 あっという間に過ぎた時間。けれど、その時間からは考えられないほど、幸せで濃厚な時間だった。

「また来たいね。水族館」

 深淵が呟く。それは思い出に浸るような言い方だった。

「また来るさ。きっと」

 慶彦はそう返す。この水族館は言ってしまえば歩いて訪れることが出来るほどの近場だ。年間パスポートさえあれば、毎日だって通える距離。それがこの水族館だ。

「今日は、ありがと」

「おう。このくらい、どうってことない」

 実際は金銭問題が少々あるが、誤差(強がり)の範囲である。たった一万円で騒ぐようでは、男失格だ。

 なんて強がりをしつつ、慶彦は言葉を紡ぐ。

「忘れないでくれよ。俺の存在を」

「……え?」

 深淵は間抜けな声を出す。何故だろうか。本当ならば出したい声はこんな声ではなかったのに、不思議と間抜けな声になってしまった。

「俺は仮にもお前と契約した身だ。お前が苦しい時も、つらい時も、悲しい時も、悔しい時も、俺がそばにいてやる」

「………」

「だから、1人で抱え込もうとするな」

 慶彦はそう伝えた。

 どうしても心配でたまらなかった深淵をなんとか元気にしてあげても、また彼女は1人で悩んでしまうかもしれない。だから、早めに教えてあげるのだ。自分という存在がすぐそばにいるということを。

 人は、1人では生きていけない。お互いに支え合い、喜び、悲しみ、感情を共有しながら生きていく。集団になって、互いを認め合って、そこで初めて、自分という人間の存在を強調することが出来る。そして強調した先に、TVや新聞などで自分の功績が称えられる。

 もちろん、強調することだけが全てではまったくもってない。

 誰かにとっての幸せはその本人にしか分からないし、自分の功績を正しく採点してくれる人がどこにでもいるわけてはない。

 だから、人は年を取るに連れ、夢を捨てろと親や学校で言われる。

 自分のやりたいことが出来ず、生活が『安定』するからという理由でやりたくもない仕事をすることになる。

 やりたくもないのにやらなくてはいけない。どんなに抵抗しても抗えない現実を知った時、人は挫折する。

 今の深淵が、まさにそうだ。

 暗黒から伝えられたつらい現実。それの整理がつかず、深淵は元気を失った。

 苦しい現実のせいで、深淵はあんな状態になっていた。

 もう、深淵のあんな顔は見たくない。そう思った慶彦の取った、彼なりの最善の択である。

「………ありがと、慶彦。すごく、嬉しい」

 俯きがちに、深淵がそう呟く。だが何故だろう。慶彦にはそんな深淵の様子が少し元気のないように思えてしまった。

 それから数秒の沈黙を置いて、深淵が口を開く。

「私のこと、認めてくれる?」

 深淵が唐突にそんなことを言ってくる。何の予告もない、唐突な質問。

 そんな質問、迷う必要などなかった。

「認めるに決まってんだろ」

 はっきりと、しっかりとそう伝える。これが慶彦の出した答えだ。後悔などない。

「………ありがと……ありがと」

 と、深淵は再び泣き出す。大粒の涙をボロボロと零しながら、深淵は泣く。

「えっちょっ、は!? な、なんで!?」

 泣き出した深淵に疑問を持ちながら、慶彦は深淵の涙を拭いてやる。

 また泣き止むのに時間かかるな……。

 そんなことをふと思いながら、慶彦は深淵に接する。

 そんな2人を、夜空の月は優しく見守っていた。

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