午後5時 その心は

 部活動を行っている教室に戻り、速攻でカバンだけを回収して慶彦は帰路につく。

 その時、直也と葵には簡単に事情を説明しておいた。こういう時の言い訳にはなんだかんだ言って歯科医院が1番役に立つ。

 現在時刻 午後4時45分

 夏に近づき、日が伸びてきたおかげでまだまだ明るい空。

 これなら行けると確信し、慶彦は歩道を走る。

 コンクリートの地面を全力で蹴り、1分でも、1秒でも早く家に着けるよう急ぐ。

 どうしても深淵に見せたい景色がある。その景色を見るためには、少しでも時間に余裕があったほうが良かった。

 過去に両親に連れて行ってもらった時、驚愕するほど感動したあの景色。どうしても、それを深淵に見せてあげたかった。

 けれど、それには順序というものがある。深淵と2人で行くとしたら、完全にデートのような順序。正直、考えただけでもどこかむず痒くなるようなシチュエーションだが、それでも見せたいのだ。

 それが今の、慶彦の夢への一歩だから。

 マンションのエントランスにダッシュで駆け込み、階段を駆け上がる。

 エレベーターも完備されているマンションだが、エレベーターを待っているだけ無駄だと慶彦は思った。

 鉄製の階段を勢いよく上がり、鉄特有の鈍い破裂音が辺りに木霊する。

 4階まで駆け上がり、自分の借りている部屋へと走る。その時、走りながらポケットにしまっている鍵を取り出す。チャラチャラと鍵につけている鈴が小うるさく鳴った。

  315室。

 鍵を差し込み、解錠する。ガチャとドアを開け、声を上げる。

「帰った! 深淵いるか!?」

 電気の付いていない薄暗い部屋。

 いないかもしれないと思いながら、しばらく待っていると、部屋の奥からある人物の声が聞こえた。

「マスターは不在」

 部屋の廊下から歩いてくる小さな人影、それは暗黒だった。

「いないのか。てか、なんでお前が俺の家にいんだ」

 それを聞き、暗黒は指を指す。それは廊下の奥、リビングの方。その先を見ると、窓があり……

「また割りやがったのか!」

 窓ガラス取り替えるのに何円使ったのか、脳裏によぎる。もうこんなことにはならないと思っていたが、まさか2回目が来るとは。慶彦は今後の出費に頭が痛くなるのを堪えながら、暗黒に質問する。

「深淵の奴、どこ行ったか分かるか?」

「………海」

「ちょうどいい、ありがとな!」

 行き先だけ聞き、慶彦は玄関から飛び出す。だが、それは出来なかった。

 振り向き玄関を出ようとした瞬間、暗黒に腕を掴まれたのだ。

 今の状況をなんとなくで察した暗黒。彼女は慶彦の腕を掴んだまま、1言告げる。

「………マスターは、望んでない」

 望んでない。つまり、遠回しに慶彦に会いたくないといっている。

 何故だ? 深淵と暗黒の関係性を知ったからか? それとも俺が嫌いになったからか?

 慶彦はある限りの理由を考える。けれど、なぜだろう。それらしい理由は何個も思いついたというのに、それだとは不思議と思えなかった。

 深淵が会いたくない。そう彼女が言っているのならば、行かない方が確実に互いのためになるはずだ。拒否されてまで無理に接することはご法度である。

 けれど、慶彦は深淵のそばに行ってやりたい。そう思うだけの理由が、今はあった。

「望まれてなくても、行かせてくれ」

 暗黒の顔は見ない。慶彦の顔は、外に向いたままだ。

「そんなことして、何の意味がある」

「意味なんてない」

「じゃあなんで…」

「あいつ1人、なぜだがほっとけないんだ」

 そんなことを言いながら、きっと心の底では自己満足の為だ。深淵が心配。深淵がほっとけない。なんだかんだ言って、それもこれも自己満足だ。慶彦は自分自身を嘲笑する。なぜこんな人間になってしまったのだろうか。覚悟というものは怖いものである。

 暗黒の力が弱まり、すっと腕を掴んでいた手が離れる。

「……留守番は任せたぞ」

「待って」

 まさに行こうとした時、再び慶彦は止まられる。

「なんだ?」

「マスターを好きには、絶対にならないで」

「は?」

 突然そんなことを言われ、慶彦は頭に疑問符を浮かべる。急になぜこんな話題を出してきたのだろうか。

「なんで急にそんなこと聞くんだ?」

「マスターの呪い。これだけは、絶対にしてはいけない」

 よく分からないことを言う暗黒。呪いと表現しているが、おそらく実際はチンケなことだろう。それに、仮にも深淵と慶彦は契約(お試し期間)をしている身なのだ。そんな簡単に呪われたら、たまったもんじゃない。

「安心しろ。お前は何も心配せず、留守番だけしてりゃ大丈夫だ」

 それに慶彦は過去、失恋をしたことがある。告白してフラレたのだ。しかもその時、悲しいことにオーバーキルレベルでボロクソに言われている。

 それ故に恋というものが多少の抗体はつけど、怖いのだ。

「じゃ、行ってくるぞ」

 今度こそ玄関を出て、廊下を走っていく慶彦。

「…………………絶対、ならないで」

 走り去ってゆく慶彦の後ろ姿。玄関から1人その姿を眺めながら、ぼそりと呟く。

 その顔は、いつも通りのすまし顔だった。



「海って……あそこしかないよなっ……!」

 息を絶え絶えにしながら、慶彦は海へと向かう。この街で海といえば、あの場所しか差さないだろうと、言い切れるほど人気な名所がある。

 それにもしその予想が正しかった場合、とんでもなく都合がいい。慶彦が深淵に見せたかった景色、それはあの海なのだ。しかし、そうはいっても時間が合わなければ意味がない。夕方ごろ、夕日が海に反射し空がオレンジ色に染まる頃。その時間帯でないと意味がない。

 車道を行き交う車を横目で見つつ、慶彦は走り続ける。

 空を見れば、うっすらと遠くの空がオレンジ色に変わってきていた。

 急がないと……。

 慶彦は焦り、走る速度を速める。わざわざ家に寄ったというのにカバンを背負ったままの慶彦。それが重くて仕方なかった。教科書数冊に筆記道具、そして辞書。

 辞書は本来、学校に置いてこようと思っていたのだが、案の定慶彦はそのことを綺麗さっぱり忘れていた。それが今、弊害となって現れる。

 一歩、また一歩と踏み出す度に体が揺れ、カバンが上下する。ずっしりとした重みが一歩踏み出すごとに肩に圧をかけていく。

 どうせならいっそのこと、カバンごと放り投げたくなった。けれど、そんなことをすればどんな未来が待っているか。想像に難くなかった。

 店々を過ぎ、ようやく海が見えてくる。太陽の光を反射し、白く輝く海面。ようやくここまで来た、と慶彦は安堵するが、まだ到着したわけではない。ここから更に海沿いを走り、少し高台になっている所まで行くのだ。

 その時、慶彦は海を注意しながら走る。もしこの時、海沿いに深淵がいて、それを見逃した場合、今までの苦労が水の泡になる。それだけは絶対に避けたい。

 坂を駆け上がる慶彦。この街の海沿いは本当に坂が多い。しかも上り坂ばかりだ。それ故、歩行者は見る限り慶彦しかいない。自転車なんてもってのほかだ。そもそもこの辺りで自転車に乗っている人を慶彦は見たことがない。二輪車系ならばバイクくらいだ。

 だんだんと息が上がる。疲労が全身を刺激し、脳が休めと警告をしている。

 それでも、止まらない。いや、止まっていられない。深淵がいつその場から去ってしまうか分からないし、時間だって迫っている。呑気に歩いて向かっている場合ではなかった。

 それに、適当な理由で部活動をやめてまで帰ってきたのだ。何の成果も上げられずに明日学校に行ったら、直也と、葵、そして一応ひとみに合わせる顔がない。そんな気がした。

 だんだんと見えてくる、あの場所。本当ならば、先に別の場所を見てから最後のクライマックスで来る場所がここだが、今回は直接向かう。

「いてくれよ……」

 慶彦は声に出す。内心で思っていたことが、無意識の内に口から漏れていた。

 遠い海を照らし、船の帰りを見守る灯台が大きくそびえ立ち、テトラポットには幾度も波が打ち付ける。

 歩道を少し離れ、海を望める高台になっている方へ、慶彦は足を運ぶ。

 そよ風が優しく頬を撫で、道の両脇では風に煽られ草が踊る。

 一気に坂を駆け上がった先、その先には雄大な景色が広がっていた。

 右手側には年季の入った所々ヒビの入っている灯台。正面には水平線の彼方まで続く青い海。

 時間が時間なのでまだ慶彦にとっての『景色』ではなかったが、それでも十分に綺麗な景色であった。

 この場所は崖になっており、下には海が広がっている。そのため、色々なことへの防止策として白色の柵が並べられている。

 慶彦は息を整えながら、辺りを見渡す。そこには、1人の人影があった。全身黒色の服を纏い、ショートカットの髪型。見間違いようがない。

「走って…正解だったな……」

 時刻 5時15分

 慶彦は安心半分、不安半分の心境でその人物の下へ歩いていく。

「よう、元気か?」

 気楽に話しかける慶彦。その声を聞いた人物は、振り返る。

「慶…彦…?」

 振り返った人物、深淵は声の主の名を呼ぶ。困惑したような表情をしている彼女。それも無理はないだろう。本来ならば平日のこの時間はいつも1人である。それなのに、ここに慶彦がいるということが不思議でたまらなかった。

「どうしてここに……?」

 いつもと違う。

 慶彦はそう感じた。いつものはっちゃけたような元気さがない。明るい表情じゃない。

 誰が見ても、彼女が悩んでいることは明白だと思わせる顔。

 やっぱり、まだ何か悩んでんだな。慶彦はそう思った。

「ここの海、綺麗だよな」

 深淵の隣に立ち、慶彦は話しかける。

「そ、そうだね」

 どこかぎこちない返事。やはりいつも通りの深淵と少し違う。やはり深淵はまだ悩んでいると、慶彦はこの時確信した。

 潮風が吹き、波が揺れる音がする。

「まだ悩んでるんだろ?」

 慶彦は遠回しにせず、直球で聞く。こういう時、下手に話題を広げずに会話をするのが、慶彦のスタンスだ。

「……よく分かったね」

「まぁな」

 しばしの沈黙。だんだんとオレンジ色に染まっていく海を眺めながら、慶彦は口を開く。

「俺は、今が怖い」

「え?」

「いつもと変わらない、平和な今。でも、もしかしたらそんな今は途端に終わってしまうかもしれない。少しでも判断を間違えたら全て終わりになってしまう今。俺は、それが怖い」

 未来と為と言いながら今を判断して失敗した人は大勢いる。過去の経験をもとに判断して、失敗した人も大勢いる。正しい答えなんてないから、皆己の出した答えを信じて、進んでいく。そして、儚く散っていく。

 変わらぬ今を過ごすことも判断。何かを買う時も判断。会話をする時も、寝る時も、遊ぶ時も、食べる時も、考える時も。そこには必ず、判断という通らなければいけない道がある。いつまでも後回しに出来ない、いつかは選ばなければいけない判断。そして、その判断をするのは必ず今を生きている自分。

 慶彦は、それが怖かった。

「後悔するか、幸せを見るか。その判断1つで決まることなんてたくさんある。俺はどうもそれを怖く感じてしまう」

 高校2年生になった慶彦。これまでの生活で幾度も彼は判断をして、後悔をしている。幸せを手にした時もあった。けれど、どうしても人は1つでもダメなことがあると、再びそうなることが怖くなる。簡単に言えば、失敗が怖い。今まで築き上げた地位も、プライドも、たった1つの失敗で簡単に崩れ落ちる。だから人は、自分のプライドの為に、進む判断をやめる。今を生きるために、未来の可能性を殺す。

「お前も、今が怖いんだよ。きっと」

「今……?」

「もともとの生活と、俺との生活。やるべきことと、やりたいこと。どれを取捨選択するか、それで今を、悩んでるんだ」

「やりたいこと……」

「たくさん悩んだ末の結果は、きっと後悔にはならない。俺がそばにいるんだ、いつでも頼ってほしい」

 伝えたいことを、下手くそながらに伝えた慶彦。言いたいことを言い、忘れないでほしいことを伝えられた。後悔は、なかった。

「……ありがと、慶彦」

 深淵が、慶彦の方を向く。

「私のことを想ってくれて、ありがとう」

 深淵は泣いていた。ぼろぼろと涙を流し、それを手で拭い、また流しを繰り返す。

「ほら、これやるよ」

 慶彦はポケットに入っていたハンカチを手渡す。赤と黒のデザインが特徴のシンプルなハンカチだ。

 深淵は泣きながらそれを受け取り、涙を拭く。

「ぐすっ……ぐすっ……」

「……頼むからハンカチで鼻はかむなよ」

「………うんっ」

 なぜだか締まらない感じで、慶彦は深淵が泣き止むのを待った。折角見せたいと思った景色、夕方の海も、気づかぬうちに夜空の海に変わっていた。



 午後6時

 泣くだけ泣いた深淵は、気づけばある程度元気になっていた。1人じゃないからなんとかなる、と分かったからだそうだ。

 過程はあれでも、終わり良ければ全てよしである。とりあえずは後悔のない判断をでき、慶彦は安堵していた。

「もう夜だし、帰るか」

「……待って」

 家に帰ろうとした慶彦の手を、深淵は掴む。

「私、行きたい所がある」

「?……どこだ?」

 慶彦は聞いてみる。しかし、場所によって考えものである。遠出するとか言われたら、終わり。

「あそこ」

 深淵は指を指す。

 深淵の指の先を追うと、そこは意外と思われがちだが、案外妥当な建物があった。

 海沿いに建てられた四角い青色をした建物。建物の看板のような場所にはイルカのイラストと共に、ドルフィンアクアリウム、と書いてあった。

 アクアリウム、つまり水族館である。

「あそこ、行こう!」

 目を輝かせて催促をする深淵。慶彦は一瞬迷ったが、まぁ行くかと思った。場所的にいつでも行けるからこそ、こういう時に行かないと一生訪れないと思ったのだ。

 それに、ただ単純に久々にあの水族館に行きたいとも思ったし、実はここに寄るつもりでもあった。

「折角だ、行くか」

 慶彦は深淵の指指す水族館に向かって歩き出す。

 疑似デートの始まりである。

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