深夜3時、その中指を

「は………」

 彼は絶句した。

 あり得ない現実を目の当たりにして、開いた口が塞がらなくなる。

 月光で暗く怪しく輝く星空を背景に宙に浮く少女。その顔は優しく笑っていた。

「迷子なの? それとも私に会いに来たの?」

 ………何が起こってるだ。

 その少女は彼に話し掛けるが、彼は未だに動揺し上手く状況を処理出来ずにいる。

 ぐるぐると理解不能な事柄が頭の中を回り、彼はまるでショート寸前の電子機器のようになる。

「動揺してるね。皆そう」

 少女はそう呟き、スッと地面に降りる。

 まるでこれが当たり前かのように少女が動いた為、余計に彼は混乱する。正しい現実が何なのか、彼の中ではだんだんとそんな簡単な問いが分からなくなっていく。

 少女はそんな彼に歩み寄り、両手で彼の両肩に触れる。

「はい、まずは落ち着こう。じゃないと何も始まらないよ」

「あ……お、おう」

 彼は言われ、落ち着こうと深呼吸をする。

 吸って、吐き、吸って、吐き。

 数度繰り返すとさっきまでの動揺が嘘のように消え、代わりに彼は正気に戻った。

 安定した脳内で、彼はまずこの状況を分析する。ここに来た理由。それまでの苦労。そして少女に出会うまで。

 しっかりと細かく思い出し、記憶にズレがないことを確認してから、ようやく本題に入る。

 この状況。情けないことに地面に尻もちをついた彼に落ち着こうと言った少女。

 あの少女は空を飛んでいた。いや、実際には飛んでいたのではなく、おそらく浮いていた。だが現実でそんなことがあり得るはずがない。人間はいまだ空を飛ぶ為には機械の力が必要なのだ。たった1人の少女が何の小細工もせず宙を浮けるはずがない。

 しかし宙を浮いている光景をしっかりとこの目で見たこともこれまた事実。比較的現実主義な彼も、これには信じるしかなかった。

「君、名前は?」

 唐突に聞かれ彼は一瞬答えに迷うが、この際深読みはせず正直に話そうと彼は思い、名前を言う。

「俺は宮深慶彦、そっちは?」

 名を言い、聞き返す。

「私は………深淵だよ」

「……は?」

 名前ではなく名詞で答えられ、慶彦は何のためらいもなく本音を口にする。

「いや、名前じゃないだろ。それ」

「名前だよ。私は深淵。この世界の深〜い闇だよ」

 話が噛み合ってない。こいつまさか名前って概念を知らないのか?

 文句を言いそうになった口をギリギリで抑え、慶彦はふと考える。

 そもそも、彼女は浮いていたのだ。ならば常識的にあり得ないことも彼女的にはありなのではないか、と。

 それに最近では擬人化が流行っているのである。今更、「深淵という概念を擬人化してみました」なんて言われても、ある意味驚けないのが現状なのだ。

 まぁ、そういうものかと慶彦は1人で理解する。

 数秒の沈黙。いわば気まずい空気が流れ、慶彦は立ち上がる。

「ん、どうしたの? トイレはこの山にないよ」

 慶彦は地面に落ちたはずのある物を捜索しながら答える。

「帰るんだよ。家に」

「家に?」

「ああ」

 と、返事をしたところで慶彦は探していたある物を見つける。

 懐中電灯。今日ここに来る為だけに持ってきたある意味の命綱である。光がなければこの暗い森を進むことは出来ない。そう思い持ってきていたのだ。

 慶彦は落ちていた懐中電灯を手に取り、スイッチを押す。

 カチッと音がし、アナログ表記のON/OFFがOFFを指し示す。

「……あれ」

 ひらけた場所であり、かつ月光が輝いている為、慶彦はしっかり見えた。

 スイッチの表記が。

 そして理解した。電池が切れたことに。

「……ライトが出ない」

「あちゃ〜、これじゃあ帰れないね。どうするの?」

「………」

 慶彦は無言になり、ここから帰る方法を模索する。

 朝になるまでここにあるか、ライトなしでこの山を下山するか。

 う〜んと慶彦は唸りながら、帰る方法を模索する。

「どうしたの? 顔こわいよ」

 慶彦は反応しない。

「お〜い」

 慶彦の前で深淵は手を振るが、それでも反応しない。

 深淵はぐるっと慶彦の周りを一周回ってみるが、それでも反応しない。

深淵はそっ〜と慶彦の顔を覗き込む。その顔はまさに、真剣そのものだった。

「〜〜わっ!」

「うおっ!?」

 けれど、そんなことはどうでもいいとばかりに深淵は至近距離で慶彦を驚かす。

 案の定、慶彦はしっかりと驚き、深淵はその様子を見て楽しそうに笑う。

「いたずらは楽しいね」

「やる側だけだ!」

 爆速でツッコミをいれ、慶彦は呆れる。

「てか、深淵ってこんなフレンドリーでいいのかよ。俺からしたら深淵ってもっとこう……怖いイメージなんだが」

 考えても最善の帰る方法が特に見つからなかった慶彦は、話題を作る意味でも、折角だと思い聞いてみることにする。

「う〜ん、怖いけどすごく優しいおじさんっているでしょ? 私の存在はあれと同じ感じだよ」

「なるほど。外見で決めてはいけない的なあれか」

「そういうこと! 流石は人間、よく分かってるね」

 疑問が解消し、慶彦は懐中電灯を上下に振ってみる。振ってみようと思った理由は、ただただなんとなくである。

 ブンブンと振り、これでライトが点くか確かめる。

 カチッとスイッチとONにしたが、結果は悲しいことに何も起きず。

「もう明るくならないね、それ」

 深淵は懐中電灯を物珍しそうに見つめる。深淵の様子は、まるで始めて懐中電灯を見たといったような感じだった。

 それに気付き、慶彦は深淵に声を掛ける。

「お前まさか、これ初めて見るのか?」

「うん、初めて」

「まじか」

 慶彦が右手に握っている懐中電灯を興味深そうに眺める深淵。一般市民の知っている道具を未知のあり得ない存在が知らないという、なんとも不思議な雰囲気に、慶彦は深淵に対して親近感を覚えた。

 慶彦は折角だしと思い、深淵に懐中電灯を手渡す。

「おー、カッコいいね、これ」

 意外と小さな深淵の両手が懐中電灯をつかむ。

 慶彦は内心、子供におもちゃ買ってやった気分だな、と思いつつ深淵の様子を観察する。

 そんな気分になるほど、深淵は懐中電灯を見て楽しそうにしていたのだ。

「ん? 何見てるの? 私は面白い物なんて持ってないよ」

「いいよ、お前の観察してるから」

 慶彦は正直にそう伝える。

「人の観察をする男、慶彦。なるほど、最近の人間は観察をすることにハマっていると」

「それはない」

 ふむふむと新たな発見をした深淵に対して慶彦は間違いを指摘する。

 それはない、と断言したはいいものの、もしかしたら自分の知らない所では流行っているのでは? と慶彦は少しばかり心配になるが、その話は内緒である。

「じゃあさ、今って皆何にハマってるの?」

 深淵は慶彦に質問する。

「う〜ん。そうだなぁ……」

 言われると意外と思い出せない。

 最近の流行り? 今の時代って何が流行ってるんだ?

 最近はほぼプラモの新作と再販を知る為にしか使っていないスマホ。もしここで慶彦が色々なネット文化などに触れていたらすぐにパッと思いついたのだろうが、案の定何も思い付かない。

 今の慶彦の脳内には、今日再販のプラモのことしか頭に思い浮かばない。

「え、えっ〜とだな……」

 誤魔化すことも出来ず、慶彦は口ごもる。

 何か最近の流行り……一体何が今の世の中流行っているんだ。ゲームか? それともアイドルか?

 慶彦は悩む。

 最近の流行り。それが何なのか分からず、必死に慶彦は考える。

 と、そこで慶彦はある1つのことを思い出す。

 それは学校帰りのこと。たまには別の道で帰ろうと思い、いつもは通らない大通りを通った時、見たのである。カフェに大行列が出来ているのを。

 慶彦はそれだ、と思い、深淵に伝える。

「最近は……カフェが人気だな」

「かふぇ? なにそれ」

 カフェという存在を知らない深淵が説明を求める。

 会話の進みがここまできた慶彦はもう安心し、説明を始める。

「紅茶とかを飲む所だよ。確かな」

 最悪の場合を想定し、慶彦は保険として、確かな、とつけておく。この言葉があるだけで間違えた時の責任追及が非常に軽くなるからだ。

「へぇ〜、オシャレな所だね。慶彦はよく行くの?」

「いや、あんまり行かないな」

「あんまりなんだ」

 深淵が何故だがしょんぼりとする。その顔を見て慶彦も何故だが気分が下がる気がしたので

「自分へのご褒美として行くから、あんまり行かないんだよ」

「ほう、カフェはご褒美。なるほどなるほど」

 どこか間違った知識を教えてしまった気もしなくはないが、まぁ大丈夫だろ。と慶彦は思った。楽観的になることも時には大切なのである。

 その後も雑談をいくつかした後、慶彦はふとあることを思い出し、ポケットから懐中時計を取り出し時刻を確認する。

 時刻 3時15分

 なかなかに現実的な時刻だった。

「そろそろ俺は帰るぞ」

 カチッと懐中時計の蓋をし、ポケットにしまう。

「もう帰っちゃうの? まだ明るくないよ?」

「寝ないと朝起きれなくなる」

 慶彦は告げる。

「そっか。人間は寝ないといけないんだったね」

 深淵がくるっとその場で一回転し、慶彦を見つめる。

「でもどう帰るの?」

「あっ……」

 そうである。元々深淵と雑談するに至った原因は懐中電灯が点かなくなったところから始まったのである。

 そこから深淵と雑談する内に時間を忘れ、今があるのだ。

「どうしよう」

 慶彦は必死に頭をフル回転させ、帰る方法を模索する。

 つい1時間前くらいもこんなことやったな、と頭の隅で思いながら必死に考える。真っ暗な山を帰る方法。明かりもなしに帰る方法。

 それは………何も思いつかなかった。

 はぁとため息をつき、慶彦は諦めることにした。そう、日が昇るまでこの山にいるのだ。

 しかも立入禁止の山に無断で入った為、この山にいたということがバレないようにしないといけない。そう考えると、慶彦は自然と気分が下がるのを感じた。

「…………契約しようよ」

「……えっ?」

 途端に発せられた深淵の言葉を、慶彦は聞き返す。

「だから、契約しようよ。け、い、や、く」

 深淵は言い返す。

 慶彦は不審に思った。契約。それは意見が合致した際にする約束以上のもの。

「な、なんで?」

 率直な疑問。慶彦にはこの深淵という少女がなぜ契約をしようと思ったのか、理由が何も分からなかったのだ。

「久々に人間と話してみて、楽しいって思ったの。だからしよ、契約」

「んな安直な……」

 と、言った慶彦本人も勢いで買い物をしたことがある為、強くは言えなかった。

「ほら、手出して」

「いや早すぎだって。俺らまだ出会ってまだ1時間だぞ」

 右手を差し出してきた深淵。けれど俺は拒否の意を示す言葉を返す。正直怖かったのだ。深淵という存在が。

「う〜ん……あっ! じゃあお試し期間ってことで!」

「……は!?」

 深淵は言うやいなや、慶彦の左手を手に取る。

「お前俺の話聞いて……っ」

 深淵が慶彦の手を握った瞬間、手を中心に光が生じる。

 それは眩しい白い光ではなく、全く逆の暗黒を表す黒色に輝く。

 紫にも近い色が2人を包み、各々の指にある物を生成する。

 粘土のようなものがうねり、それが指につく。

 それがゆっくりと具体的な形になり、それのうねりがなくなった途端、光がバッと消滅する。

「……うっ」

 眩しさに負け、慶彦は目を瞑る。

 そして目を開け、自分の指を眺める。

 その指には、黒色に輝く指輪がはまっていた。左手の中指にしっかりとはまり、よく見れば見とれるほど美しい指輪だった。

 深淵は右手の小指に指輪がはまっており、月光が反射して怪しく輝いていた。

「俺、一言も良いとは……」

「いいから行こう! 帰るんでしょ!」

 深淵がバッと背中から黒色の翼を生やす。それはまるで鳥のように、一本一本が羽根で形成されている翼だった。

「まじかよ」

 次々にこの少女が非人間技を見せる為に、慶彦は言葉を失う。

「ほいっ」

 深淵は慶彦の両手を握り、山の崖へと導いていく。

 それが分かり、慶彦は絶叫する。

「おい待て! 落ちるって! このままじゃ落ちるって!」

 それでも深淵は止まらない。

「まじでヤバいって!」

 その声と同時に深淵がジャンプし、翼を羽ばたかせる。

「うわっ! 嘘だろ…!」

 3年前に創った柵を飛び越え、深淵は空を飛ぶ。慶彦は深淵に掴まり、ぶら下がるような状態だ。

「飛んでる……」

 あり得ないの連続で慶彦は脳がパンク寸前だ。いつ爆発してもおかしくない地雷。そんな感じである。

「慶彦、家ってどこ?」

 風の音に混じり、深淵の声が聞こえてくる。

 その言葉を聞いてはっとなり、返答する。

「あそこのアパート。ほら、あの白いやつ」

「あぱーと……それってどれ?」

「あの白い長方形みたいなやつ、あの結構先にある白い」

「白い家いっぱいあるよ!」

「う〜んとほら! あの屋根が灰色の……」

「灰色もたくさん!」

 家を特定するのに手間取り、最後には慶彦が右へ左へとナビゲートをして家まで行くことになった。



 慶彦の住む部屋、315号室。

 慶彦は鍵をはめ、ガチャと解錠する。

 その時に蛍光灯の光で指輪が反射し、今日が幻ではないことを証明する。

 興味深けにアパートの廊下を観察している深淵を見ても、それが真なのだと証明してくる。

 これから大変な日々になりそうだと内心で呟き、ドアを開ける。

「今日はありがとな。じゃあ、また今度」

 そう言って別れを告げ、部屋の中へと入る。

 そしてドアを閉めようとしたその時、深淵の手がそれを止める。

「今日から私もここに住むよ」

 予想していた結果になり、慶彦はだろうなと内心で思い、深淵を部屋に入れる。

 これまた興味深けに部屋を観察する深淵に、慶彦は声をかける。

「ちゃんと手は洗えよ」

「はいはい。潔癖症ね」

「違うわ」

 

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