深淵と出会い、恋をした

おいしいキャベツ(甘藍)

深夜1時、あの山で

 深夜1時。

 人々は皆眠り、静まり返っている頃、1人の少年が走っていた。

 見た目から見るに、おそらく16、7歳ほどの高校生。身長は160cmほど。おおよそ高校生の平均身長。

 そんな彼は、街灯で所々小さく照らされている道を全速力で駆け抜け、ある場所へと向かう。

 彼の向かう先、それは山であった。

 裏山のような大きさに、手軽な登りやすいさ。

 だが、その山は近年行われた調査によって危険と判断され、一般市民は揃って立ち入れなくなっている。

 では何故、彼はその山に向かっているのだろうか。

 それは単純かつ明快なたった1つの理由があるからだった。

 そう、その山は彼にとって思い出の場所なのだ。

 幾度も登り、穴を掘り、景色を楽しみ、友情を深めた、そんな思い出がたくさん詰まった、大切な山。そしてあの時の言葉。

『3年後、またこの場所で、この景色を見よ』

 いつも一緒に遊んでいたグループの1人が言ったセリフ。

 彼の好きな、想いを寄せる少女が言ったセリフ。

 あの時も、こんな真夜中に家を抜け出した遊んだな。

 彼はそんなことをおもむろに思い、胸が熱くなるのを感じる。

 中学生になり、好きだった少女と残酷にも別れることをなった彼。

 他にいたグループのメンバーも、気がつけば皆新たな友人と共に彼の元を去っていった。

 時が流れ、人が増え、感情豊かになったことによる過去の記憶の忘却。

 きっと皆、忘れてるんだろうな。

 何気ない一言だったのだ。あの言葉は、あのセリフは。

 そう思った時、彼の脳裏に1つの可能性がよぎる。

 あの子も、もう忘れているのかもしれない。

 3年の月日は言葉で表すとすぐだが、実際には非常に長い。

 その間に3度も年越しをするし、多くの経験だって積むだろう。

 人は必要な記憶しか脳に残

さない。その理由は単純で、いらない記憶に価値などないからだ。

 もし、あの少女があの時をセリフに価値を感じていないのならば、きっと山に行っても誰もいないだろう。ましてや、立入禁止になってしまった山である。覚えていたとしても、そこまでの危険を背負ってまで行くことはないと判断するかもしれない。

 そうすれば、彼の努力は台無しだ。全て無に帰る。

 一瞬、彼は葦を止めようとする。

 じんじんと足裏に来る痛みも、感覚が麻痺したのか、もう来ない。息も絶え絶えで、走るだけでももうつらい状態だ。

 彼は逡巡した。ここで家に引き返そうかと。

 けれど、その足が止まることはなかった。

 彼は迷いを捨て、走り続ける。

 あの子が、あの少女がいることを願って、あの時の仲間が、皆揃って自分を待ってくれていることを願って。

 コンクリートで舗装された道を彼は全速力で走り抜ける。

 街灯の数がだんだんも減り、それに比例して山が近くなってくる。

 喜びもつかの間、山が近づいたと認識した瞬間、一気に疲労が全身を襲う。

 足を前に出し、地面に接地するたびに脳が危険信号を発光させる。

 激しい痛み。けれど、それでも彼は根気で足を前に出し続ける。

 そして、ようやく着いた山のふもと。つまり山への入口である。

 そこにはしっかりと立入禁止の看板と共に黄色と黒色の配色をしたトラテープにより入口が塞がれていた。

「ここまで来て、帰るわけないだろっ」

 トラテープの隙間をくぐり、山の中へと入っていく。

 ポケットに入れていた懐中電灯を取り出し、電源をONにする。

 パッと白い光が真っ暗だった森の中を照らし、明るくしてくれる。

 荒い息を整えながら、彼はゆっくりと山を登っていく。

 じんじんと痛む足。例えるならば、マラソンを走った後のあの感覚である。まるで足の感覚がなくなったような、痺れているのに動ける不思議な感覚のような。

 確か、あの場所は……。

 彼は辺りを見渡しながら、ある場所を探す。

 それはあの子があの言葉を言った場所。景色が綺麗に見えるあの場所。

 3年前まではいつも通っていた道も気づけば獣道に成り下がっていた。

 靴で草を踏んでいき、あの時の感覚と直感を頼りにあの場所へと向かう。

 ………。

 行っても行っても見えるのは木ばかり。あの場所に近づけているのかすら分からずに、また一歩、また一歩と歩を進めていく。

 ガサガサッとどこかで音がする。

「っ!」

 危機感で瞬時に音のした方を懐中電灯で照らす。

 だがそこには何も無く、ただ茫々と生えた草がそよ風で揺れているのみだった。

 死ぬかと思いバクバクと高鳴る心臓を押さえ、彼はまた歩を進め始める。

 木々の間から微かに覗く月光が彼を照らし、真夜中だと言う事をしっかりと伝えてくる。

 なんか草を踏んだような跡がある、怖っ。

 歩いているとふいに見つけた跡。きっと獣道だろうと彼は思い、そこを通らないようにして先へと進んでいった。



 草をかき分け進むこと数十分。

「どこだ……ここ」

 彼は道に迷っていた。

 右を見ても木、左を見ても木。同じ景色が続き、彼は完全に進むべき道も戻る為の道も分からなくなってしまっていた。

「どうすれば……」

 辺りを見渡し、彼は考える。

 もうダメなのではないかと。

 先程確認したところ、時刻は2時14分。

 もう完全に手遅れだったのだ。

 そもそもの問題として、彼はもとから遅刻しているような状況だった。

 3年前の記憶を呼び起こすと、あの時の時刻はおおよそ1時00分ぴったし。体内時計がほぼ正確で定評のある彼なのだ。いくら3年前の記憶だとしても、彼の場合はほぼ正確に覚えている。

 だからこそ、彼は思ってしまったのだ。もうダメなのではないかと。

 現在時刻とあの時の時刻で、彼はもう1時間14分遅刻している計算になる。

 もしも今の時間帯が朝や昼だったのなら小一時間ほど待ってくれていたかもしれないが、あいにく今は真夜中。本来ならば皆、寝静まっている時間帯である。眠気を我慢し、無理をしてまで待つほどの約束ではない。あの時の友人達も、きっとそう思っているであろう。

 彼はふと後ろを見る。前方とほぼ同じ景色がそこには広がっていた。

「いや、諦めるものか」

 そう呟き、彼は前を向き歩き始める。

 現時点で迷子になってしまっているのだ。帰り道も分からなければ、あの場所への道も分からない。ならば、ここへ来た理由を追いかけようと彼は思ったのだ。

 もう行き当たりばったりだ。何が来ても怖くないぞ。

 彼はそう意気込み、やる気を出す。

「カーッ!」

「うおっ」

 突然カラスが鳴き声を上げ、バサバサと空を飛んでいく。

 危機感が全身にこみ上げ、彼は懐中電灯で音のした方を瞬時に照らす。

 しかしそこには他の場所と同様に木が生えているのみだった。

「怖っ、とっとと先行こう」

 恐怖で高鳴る心臓を押さえながら彼は思う。やはり家にいた方がよかったかもしれないと。結局、怖いものは怖かったのだ。



 時が経ち数十分。

 登っても登っても見つからないあの場所。そして頂上。

 もしあの場所を発見する前に頂上に着いてしまってしまったとしても、上から見ればあの場所も簡単に見つかると思っていたが、そもそも頂上にすら着けない。

 昔よりこの山、大きくなったのか?

 疲労が蓄積し、腰をまげて歩く彼。気づけば懐中電灯の光も山に入った時に比べ幾分も弱くなっていた。

 変わらぬ景色に嫌気が差し、そろそろあの場所に着きたいと思ったその時、なにやら前方がやけに明るくなっているのに気付いた。

 見れば、あんなにあった木々が少なくなり、闇夜を照らす月光がそこを明るくしていたのだ。

「………あそこだ」

 彼はあの場所だと一瞬で気付き、走っていく。

 ガサガサッと草を豪快に踏みながら、飛び出すようにあの場所へ行く。

 そして、彼は明るく開けた場所に出た。

 もう少し早い時間帯なら綺麗な街並みを一望出来たが、時間が時間なため少々魅力的な風景には足りなかったが、それでも綺麗であることに変わりはなかった。

 下方を見れば家々が所々明かりを点け、空には月が怪しくも美しく輝いていた。

 自分達で昔作った床板は腐ってボロボロになっていたが、そこにしっかりと未だ置いてあった。

 自分達で作った柵。それもしっかりと残っていた。あの時はまだ柵の作り方なぞ何も知らなかった為、たくさんの枝をそれっぽく紐で結んだだけの簡素な作りだ。

 この3年間で1度、通常よりも確実に強い豪雨がこの街を襲ったが、柵は流されなかったようだ。

 地面に深く刺したもんな、と彼は懐かしく思い、肝心なことを思い出す。

「みん………」

 右、左と確かめるように左右を確認する。

 そこには、彼以外1人もいなかった。

「そう……だよな」

 元々期待をしてここに来たが、本当に皆がいるとは彼自身、思っていなかった。

 3年前の約束である。やはり覚えている友人などおらず、唯一覚えているのは彼だけだったのかもしれない。

 それに時間的に見ても約2時間半の遅刻である。皆が集まっていたとしても、もう解散していてもおかしくない時間だった。

 懐かしい景色を眺めながら、彼は感傷的になる。

 上手く言葉に出来ない感情が渦巻き、彼の心を複雑にする。

 だが、それでも明確に彼が思っていたことは、悔しい、その3文字だった。

 あれほど自分にとって大切に思っていた口約束。それは3年の月日が経ち、見事に皆忘れていたのだ。立入禁止になってしまった山に勇気を持って入り、2時間もかけてようやくこの場所に着いたというのに、この結果はあまりにも悔しかった。

 けれど、だからといってあの時の皆を責めるようなことは出来なかった。

 彼らには彼らの生活がある。変化がある。経験がある。こんな約束に時間を割く者など、きっと自分だけだったのだ。

 そんな思いが彼の中に点在し、帰ろうと思い振り返ったその時。

「あれ? 人なんて珍しいね」

 どこからともなく声が聞こえてくる。

 若い少女の声。だが彼の知っている声ではない。おそらく別人だろう。

 途端に声が聞こえたので彼は硬直したが、すぐさま正気に戻り、ある可能性を払拭する。

 可能性、それは今聞こえた声が幽霊などの人とは違うだという可能性。

 だが、幽霊なぞ存在するはずはないし、逆に神様だって存在はしない。

 彼はそう思い、声の主を探す。

 懐中電灯で辺りを照らすが、声を発したらしき人物は見つからない。

 あれ、おかしいな。

 この森を通るには絶対に草を踏んでいかないといけないはずだから、逃げたとしたら絶対に草の音が……。

 と、そこで彼はあることに気付く。

 草のある道を通らなければ行けないということはつまり、この近くに来る際には必ずガサガサと草をかき分ける音がするはずだ。だが今回はその音がしなかった。

「………」

 まさかと思い、彼は動機が激しくなるのを上手くコントロールするために自分に言い聞かせる。

 きっと景色に見とれてて気付かなかったんだ。だからこんなことだってあるさ、と。

 ならば何故声の主を見つけられないのか、彼はより焦る。

 一体どうなって……。

 その時、運悪く懐中電灯の光が失われる。電池が切れたのだ。

 だがそんな単純なことだというのに彼はこの現象が生じ、より恐怖する。

「どこなんだよ! いるなら出てこいよ!」

 自分と同じ人間であることをいち早く確認したくなり、彼は声を上げる。

 するとほどなくして、返事が来る。

「近くにいるよ。ほら君の近く」

 近く、だが右を見ても左を見てもやはり人の気配はない。木が生えているだけだ。

「見つからないぞ!」

 再び彼は声を上げる。

 するとそれに反応して、こちらも再び返事が来る。

「見つからない? しょうがないなぁ」

 可愛らしい声が辺りに響き、そよ風が優しく彼の頬を撫でる。

 遂に会える。安心出来ると思い、彼は少しばかり余裕を取り戻す。

 そして

「こっちだよ。後ろ」

「……は?」

 後ろには柵がある。だからそこから考えて後ろにいることは絶対にあり得ない。だが先程の声が後ろから聞こえてきたということもまたただならぬ事実だった。

 嘘だと言ってくれ、と彼は一周回って余裕を取り戻した心持ちで思い、後ろに振り返る。

 そこにはあり得ない光景が広がっていた。

 夜空を背景に、少女が宙に浮いていたのだ。しっかりと足は宙にあり、柵に乗せていない。

「はあっ!?」

 彼は腰を抜かし、尻もちをつく。

 懐中電灯が地面を転がり、木に衝突する。

 ショートカットの髪に、黒色のまるでお嬢様が着るような少々フリルのあるオシャレな服。

 少女はいたずらに微笑み、彼に声をかける。

「はじめまして、人間さん」

 これが、深淵を覗いてしまった彼の新たな始まりだった。

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