第5話 書道姉妹の誠意
「煤咲君。放課後、職員室に来い――って、煤咲先生から伝言を預かりましたよ」
滅多に僕の名前なんて呼ばない担任教師からの伝言を受け、僕――煤咲貫之は、書道部顧問を務める親父が僕を呼び出した理由を、瞬時に悟った。
この時間帯に伝言を伝えられては、「忘れてた」という言い訳は使えない。別にこのまま無視しても構わないが、帰宅後に話が長くなるのは面倒である。
言われた通り、僕は渋々職員室に出向く事にした。どうせ言われるのは「あの事」だろうと、おおよその推測を頭に浮かべながら。
「部活に出なさいよ、そろそろ」
案の定な事を言われ、やっぱりその事か……と、僕はあくびする。
「おい……一応学校なんだから、今は親子じゃなくて先生生徒の立場だろう! 少しは気を張れ、職員室でくらい!」
「他の教師と話す時は、もっとかしこまるっての。……けど、相手が相手だしねぇ」
「な、何だとぉ!?」
そっぽを向きニヤニヤと笑うと、デスク周辺にいた先生方もつられて笑みを溢す。
「……てか、本題に戻れよ。話の軸をブラさずさ」
「あー、うん。そうだな」
周囲の視線に親父は「あはは」と気まずそうな笑顔で返し、ゴホンと咳き込む。
「貫之……お前が引きずる気持ちも分かる。けど人間、切り替えが大事なんだ」
書道界の天才中学生――神門明音が、僕の家に訪れた日。そこで彼女は、僕が初めて受け持った生徒、金城瑠奈と即興で競書をした。
数年前に僕が惨敗した相手に、つい先日から本格的に書道を学び始めた素人が敵うはずもなく、結果――打ちのめされた。
自分が神門から過去に与えられた屈辱を、僕のせいで生徒までもが味わった。
その日から僕は部活に顔を出していない。無論、筆も握っていない。
文化祭シーズン真っ只中で、本来なら部の出し物である書道パフォーマンスの練習に精を出さなければならない時期――そんな状況でも僕は書道と関わる気になれず、うじうじと一人、部活をサボって夜まで家にも帰らず、無気力な日々を過ごしていた。
こうして親父から呼び出されてでもいなければ、今頃僕は金もないくせにゲームセンターにでも足を運んでいた事だろう。
「乗り越えるべきハードルは、誰の人生にでも現れる。過去に敗北を味わったお前が、その雪辱を乗り越えるタイミングこそ、まさに今なんじゃないか?」
僕は無言で、親父の顔を見つめるだけだった。
「それに嘉穂ちゃん……金城嘉穂の気持ちも考えろ。心配していたぞ、彼女」
嘉穂とは土曜日以降、顔を合わせていない。だが、クラスで企画している模擬店の装飾作りに参加している姿を、僕は何度か遠目に見ていた。
どうしてあいつは、平然としていられるのだろうか? 嘉穂は妹が――瑠奈ちゃんが神門に大差で負け、呻くように泣いた姿を目の当たりにしている。
それなのに、嘉穂は普段通り――無口無表情な女の子が、感情をあらわにするほどの一大事の後だというのに……理解できなかった。
「あと少しで文化祭当日だ。……お前がいなければ、部活動にも支障が出る。お前はうちの書道部の、大切な一員だ。だから、今日にでも早いとこ復帰して――」
「――うるせぇよ」
親父の言葉を、怒気のこもった一言で断ち切った。
「元はと言えば、親父のせいだろうが……っ!」
分かっていた。これがどれだけみっともないセリフなのか。
高校生にもなって駄々をこね、親に責任を押し付けようとするなんて。
「あんたが……あんたが、神門と連絡なんか取って、のこのこと僕に会わせようとなんてしたから……ッ!」
ただそれでも、この怒りと悔しさの吐き出し口が見当たらず、僕の心情は揺れに揺れていた。どうしようもない情けなさで、圧し殺されそうだった。
「文化祭のパフォーマンスにも、一応は出る気でいたよ! 渋々だけど、久しぶりに書道と向き合おうと……ちょっとくらいなら、楽しんでみようとも思ってたよ……ッ!」
職員室の中という事も忘れ、親父の両肩を掴んで揺すりながら哀訴する。
「なのに……なのに! 余計なお世話で、あのガキと僕を会わせたりなんか――――」
ぐにゃりと視界が歪み、思考が掻き乱される。
幼少期からの教育で、義務として行ってきた書道という芸術。
特に好きにもなれないまま生半可に実力だけが付き、書道はある意味で一つの自信であり特技となっていた。
手厳しい祖父の指導に嫌気が差しながらも逆らう事なく続け、苦労の末に手に入れた実力――それでも、そんな苦労を踏み躙るように軽々と越えてきた天才。
敗北を繰り返す度に惨めさを味わい、より粘着的に僕の心中を圧迫した。
悔しかったし、勝ちたかった――いつの間にか、書道に熱がこもっていた。が、それでも勝てない。次第に闘志は尽き、虚しさだけが残る。
敗北が身に染み込み、僕は傍観者側に回った――筆を置き、逃げに走った。
トラウマがフラッシュバックし、脳を激しく叩き付ける。蓄積された記憶の分、痛みが増していく。立ち眩み、思わずその場でよろけた。
周りの教師達が何事かと騒ぎ立てたが、すぐに静寂が訪れる。
親父は取り乱した僕の腰を支え、「落ち着いて呼吸を整えろ」と囁いた。
普段の腑抜けた口調ではなく、真摯に物事に取り組んでいる時の――書道をしている時の、親父の声だった。
この親父は何も嫌味で、僕と神門明音を再会させたわけじゃない。
このタイミングで神門と会わせたのは、僕を再起させるため。
文化祭での作品制作――二度と作品を完成させないと決意した僕が、渋々「共同作ならば」と了承を出した書道パフォーマンス。
これを機に、親父は僕を奮い立たせようとしたのだ。
真剣に書道に向き合っていた、あの頃の感覚を――――
「……圧倒的なセンスの差は、単なる努力じゃ埋められない」
悟ったように、僕は続ける。
「親父は僕に、また書道に取り組んでほしいんだと思う。けど、もうたくさんだ。これ以上は、余計な事をしないでくれ」
瑠奈ちゃんには、僕と同じ経験をさせたくないんだ。
僕は身を起こして、無気力な足取りで歩き出す。
背後で親父が「違う、俺はただ――」なんて、言い訳の常套句を言い出そうとしていたが、よくは聞き取れなかった。……聞き取ろうとすらしなかった。
☆
「普段は一歩引いたとこから冷静に喋ってるのに、今日は珍しく感情をあらわにして話してたねぇ……貫之?」
職員室から退室すると、聞き覚えのある声が耳に入った。
おそらく、外から僕と親父の会話に聞き耳でも立てていたのだろう。もしかすると、自分で想像してた以上に声が出ていたのかもしれない。
書道部の証とも言える黄色の部活動Tシャツを着た金城嘉穂が、そこにはいた。
墨滴がふんだんに入ったバケツを両腕に抱え、脇にはパフォーマンスで使う特大筆、通称「筆モップ」を挟んでいる。
「部活のお出迎えか?」
「ご名答ーっ。早速、部室に行こうよ! 文化祭はすぐそこだよっ!」
「生憎そんな気分じゃねぇんだよ、嘉穂。職員室での話を聞いてたなら、もう知ってるだろ。誘うだけ無駄だぞ」
僕は嘉穂の横を通り、職員室を曲がってすぐの下駄箱に足を進める。
「おっと、ちょっと待ってよ!」
バケツを抱えたまま器用に筆モップを横に突き出し、僕の進路を塞ぐ。
「貫之はまた、そうやって逃げるの?」
「だから何だよ。文句あるのかよ?」
「貫之が作品を作らなくなったきっかけ……話を聞いた時、同情はできなかったけど納得はできたよ。アタシはまだ書道下手っぴだから、貫之の苦労は分からない。けど、きっと貫之には、才能があるからこその悩みとか……色々あったんだと思う……」
「……そんな話を、わざわざしに来たのか? だとしたら、飛び抜けたアホだ。お前が僕の気持ちを多少理解したところで、何の解決にも繋がらない」
「ううん。今までは貫之が作品を書かない理由が、よく分かってなかった。……けど、それが明確になった今だからこそ、改めて思うの。貫之にはまた、書道をしてほしい。良い作品を作って、妹に……瑠奈の憧れの存在で、ずっとあってほしいって!」
「僕なんかに憧れてくれた瑠奈ちゃんを、僕の二の舞にさせたんだぞ……? 圧倒的な才能を前に……瑠奈ちゃんに、涙を流させたんだぞ?」
段々と、僕の言葉に熱がこもっていく。
「僕は瑠奈ちゃんの指導者として……相応しくない。これであの子が僕のように、今後の人生に残る敗北のトラウマが心にできたら……どうするっていうんだ? 僕に関わらなければ、そんな辛い思いはせずに済んだのに……ッ!」
「瑠奈が貫之に憧れなかったら――書道そのものと、本当の意味で出会えてなかった。だから、そんな事を貫之が気に病む必要ない! また先生として、瑠奈に教えてあげてほしい。……瑠奈のためにも、先生として作品を作る貫之の姿を、見せてあげてよ……っ」
だから文化祭で、瑠奈ちゃんのためにも作品を作れ――ってか?
「しつこいんだよ、どいつもこいつも、本当に……ッ!」
筆モップの穂をわし掴み、嘉穂から奪い取って床に放る。
「これ以上、僕の邪魔をすんなよ……っ!」
僕は再び、前方に歩き出した。
だが、嘉穂はしぶとく僕の正面に立ち塞がる。
「……おい、嘉穂。いい加減にし――ッッ!?」
瞬間、僕の額に激痛が走った。
「ウジウジウジウジ……ほんと、女々しすぎっ!」
バケツに入っていた墨滴が、波を打つ。
ポタポタと廊下に溢れ落ち、嘉穂の服にはびっしょりと墨が付着した。
「いつまでもそうやって逃げて……それじゃあ、小学生の頃とおんなじ! 駄々をこねる子供と変わらないよ!」
「書道は義務じゃない……やるもやらないも、選ぶのは僕だろうが!」
「少しは、現実を見てよ!」
嘉穂はバケツを床に置き、僕との距離を一気に詰める。そして僕の頬を両手でパシッと挟み、顔を近付けた。
「瑠奈もアタシも……貫之の家族だって、貫之にまた作品を書いてもらいたいって思ってる! みんなに求められてるの……だから、絶対に書いた方がいいの!」
「そんなの、お前の身勝手な言い分だろ!」
「瑠奈の先生を貫之が受け持った時、瑠奈は勿論、アタシも嬉しかった! 瑠奈に、夢を見させてあげてほしいの。憧れた人の格好良い姿を、瑠奈に見せてあげたいのっ!」
「だから……っ! その僕が、瑠奈ちゃんの夢を――現実を、知らしめるきっかけを与えたんだ! 違う形で書道に……僕とは縁のないところで出会っていたら、瑠奈ちゃんはこんな早い時期から、才能なんて現実を見ずに済んだんだ!」
嘉穂の手を振りほどき、一歩下がる。
「本当に、ずっとそう思ってるの……?」
どこか寂しそうな表情を浮かべ、嘉穂は呟く。彼女は心境を切り替えるように、パシンッ――と、自身の両の頬を両手で挟むように軽く叩いた。
「……決めた。取り乱してごめんね、貫之。帰りたいなら、帰っていいよ」
「どういう風の吹き回しだよ」
「見てもらった方が早いって、思い直してね」
そう言うと嘉穂はモップ筆を拾い、僕に無理矢理押し付ける。
「今日の文化祭練習は、中止にするっ! 貫之も片付け手伝って! 溢れた墨を拭かないとだから、部室から雑巾取ってくるね!」
そうして、嘉穂は足早に書道部部室の方へと駆け出した。
「あっ、そうだ……」
何かを思い出したように足を止め、彼女は振り返る。
「片付けが終わったら、貫之の家に遊びに行くからっ!」
☆
「……ただいま」
「お邪魔しまーす!」
特にこれといった会話もないまま嘉穂と下校をし、僕の家に辿り着く。
玄関の扉を開けると、女の子用の靴が一つ置かれていた。
「あー、よかった。やっぱり来てたかー」
ニコニコと嬉しそうに笑みを浮かべながら、嘉穂は家に上がる。
僕は彼女の後について、教室の前まで進んでいった。
「やっほー! 迎えに来たよっ!」
「あらあらー。いらっしゃい、嘉穂ちゃん」
教室に入ると母さんが座っていた。
「……おかえりなさい、せんせー」
「瑠奈……ちゃん……」
母さんの座席の正面で、長机を挟んで座る一人の生徒。
そこにいたのは、瑠奈ちゃん――僕の受け持った初めての生徒であった。落ち着いたカジュアルコーデに身を包み、様子はいつも通り無表情のままである。
「どうして、瑠奈ちゃんがここに……?」
「土曜日の競書で書いた作品の添削を、教室長にお願いしてた……」
机の上を立ったまま覗くと、赤ペンで訂正箇所を書き加えられた瑠奈ちゃんの作品が置かれていた。
その他にも彼女が書いたと思われる作品――それも、神門明音戦で提示された二種のお題を書いた半紙が、山積みにされている。
「この作品の山……一体、どうしたんだ……?」
「あの日、帰った後から……書き溜めてた」
「……そんなに、悔しかったのか? 神門に負けた事が」
瑠奈ちゃんは俯いて、コクリと小さく頷いた。
「その悔しさから、こんなにたくさん練習を……」
正直、驚いた。瑠奈ちゃんの書道に対する熱量に。
同時に、一つ昔の事を思い出した。
僕自身も瑠奈ちゃんと同様に、初めて神門に大敗した時――涙を必死に堪えながら、死に物狂いで書道と向き合っていた事を。
「瑠奈ちゃんは辛くなかったのか……? 神門の……自分より上手い相手と戦って、手も足も出ないで……負けた事が」
「……辛かった。せんせーから折角教わった事が、何一つ……通じなかったから。実力不足って、はっきり分かったから」
「逃げ出したいとは……思わなかったのか……?」
「……ちょっと。けど、負けたままじゃ教えてくれたせんせーに、申し訳なくて」
「って事は僕なんかのために、瑠奈ちゃんはこんなに練習をして……」
「ううん、違う。それもあるけど、それだけじゃない」
「……?」
それじゃあどうして……どうして、瑠奈ちゃんは――――
「だったら何でそんなに、悔しくて、辛くて、逃げ出したいのに、それでも書道を……頑張って練習できるんだ……?」
水晶のように透き通った青い瞳を、僕はじっと見つめた。
そんな僕に応えるように、瑠奈ちゃんは僕の目を見つめ返す。
そして――ゆっくりと口を開き、
「せんせーみたく、私も、もっと上達したかった……」
そう答えた。
さらに少しの間を空けて、
「それに……書道は楽しいから……楽しくて、好きだから……自分の好きなもので、負けたくなかった……」
少し照れ臭かったのか、ほんの少し彼女の頬は薄ピンクに色付いていた。
その答えを聞いて、僕は重要な事を思い出す。
当たり前すぎて、見失っていたのだ。
いつの間にか僕は、勝利に囚われていた。
練習は面倒臭い。それでも努力して勝負に挑み、負けたら悔しい。
負けに負けを重ねた末の、戦意喪失――芸術の世界から身を引いた。
この頃にはすでに、忘れてしまっていたのだ。
親父が伝えたかったのは、きっとこの事だったのだろう。あの日、神門と僕を再会させたのも、書道への意欲取り戻す「きっかけ作り」だけではなかったのだ。
大切な事を――瑠奈ちゃんが、僕に気付かせてくれた。
当たり前の事なのに、僕は見向きもしていなかった。
書道そのものの面白さを、思い出させてくれた。
「ありがとう、瑠奈ちゃん。……それと、嘉穂も」
面倒臭い。辛い。悔しい。
卑屈になればなるほど、溢れ出すのは数々の負の言葉。
けど確かに、僕は過去に経験していた。
上達を感じた時、作品を完成させた時、賞を与えられた時。
味わっていたのだ、上達する事の嬉しさを。
勝ち取った誇りや、微かなに生まれた自信の中に――書道に対する、楽しさを。
「やっと、吹っ切れた気がするよ」
書けば書くほどに希薄になっていった、書道の魅力。
技術や技能、与えられた名誉、勝ち負けにこだわる事も、時には大切だ。
しかし、それが全てじゃない。
本当に大切なのは、高みを目指す志と――物事を楽しむ意思なのだ。
それさえ思い出せれば、後は簡単だ。
僕は僕がやりたいように、楽しむに限る。
「やっぱり、練習や後片付けが面倒な事には変わりないけど……」
今の僕ならそれにすら魅力を……「楽しさ」を、見出せるような気がした。
「も、もしかして貫之……やっと、やる気になってくれたの?」
僕の言葉になぜだか感極まり、嘉穂は瞳を潤す。
しかし、そんな嘉穂の質問にいちいち応答などせず、
「嘉穂。確かうちの高校の文化祭に、神門も来るって言ってたよな?」
「え……あ、うんうん! 言ってた!」
「よし……だったら、今から僕の部屋に来い。パフォーマンスの動作確認と、魅せ方の計画を練るぞ」
「え……ちょっと待ってよ、貫之! 必要な道具、全部学校だよ!?」
「動きの確認くらいならできるだろ。……それと、筆モップは使った事があるけど人に魅せるとなれば、話が少し変わってくる。サイトで全国レベルの動きを確認してから、参考にできる部分は取り入れよう。……あくまで軸は、オリジナルでな」
「ちょっとちょっと、やる気を出してくれるのは嬉しいし、大歓迎なんだけど……そんな打って変わって、どうしちゃったの!?」
どうしちゃったの……か。違うんだよ、嘉穂。そうじゃないんだ。
どうかしていたのは――今までなんだよ。
「……嘉穂と瑠奈ちゃんのおかげだ。これでようやく、書く意味を思い出せた」
だから僕は、過去と決別する。
勝てない事、自分の弱さ、失ったプライドに嘆き、自ら逃げに走った挙げ句、書道をする意義――大切な事すら忘れていた自分から、生まれ変わる。
書道は売れない芸術――そんなの言い訳だ。
書道は楽しい芸術であり、それだけでやる意味がある。
書道を――作品作りを、めいっぱい楽しむ。
「書道パフォーマンスは、ただ書き上げた作品を魅せるだけじゃない。書いてる姿も、作品の一部に含まれる」
その姿を神門に魅せ付ける事で――きっと僕の心境は、大きく変化する。
「今まで色々と迷惑かけたな、嘉穂。このパフォーマンスに関して、もうゴチャゴチャと御託は並べない。……けど、覚悟しろよ――」
僕は彼女に不敵な笑みを浮かべ、
「筆を持つまで長いけど、筆を持ってからも――僕は相当長いぞ」
そう宣言した。
最高傑作を、嘉穂と作る。
神門に、今の僕の気持ちを魅せ付ける。
そして瑠奈ちゃんに、思い出させてくれた感謝を伝えよう。
彼女の「せんせー」として、いつまでも憧れの存在でいられるように。
この共同作品に、全ての感情や想いを――誠心誠意、素直に投影しよう。
僕がこれから再起するために――書道を心から、楽しむために。
☆
さて、これが最後のイメージトレーニングだ。
静閑とした書道部部室にて、僕は椅子の上で一人正座する。
本気で「書」に向き合う際に行う、小学生の頃からのルーティーン。
邪念が徐々に薄れ、頭が冴え渡っていく。
集中力が極限まで高まり、全身の動作、軸の使い方、筆の進むべき道筋……ここ数日で学習したパフォーマンスの「魅せ方」を、漏れなく脳内再生していった。
次いで、自身の身を奮い立たせるように、目的を確認する。
文化祭は今日と明日で、両日一般参加あり――つまり、書道パフォーマンスを披露する機会は今日を含めて二回。だが、僕からしたら本番は「今日のみ」である。
神門明音が和澄高の文化祭に訪れるのは、今日この日だけ。
勿論、どうせやるなら多くの人にパフォーマンスを観覧してもらいたい。
しかし、神門――そして、僕の生徒である金城瑠奈だけは、特別だ。
僕が本気で書道をする姿を、神門に見てもらう――逃げに走っていた今までの情けない自分を、打破してみせる。書道に必要な気持ちを取り戻す。
そして、とても単純な事を――書道を「楽しむ」という大切な事を思い出させてくれた瑠奈ちゃんに、感謝を伝える。……先生として、書道の真髄を教える。
このパフォーマンスを通して、僕は生まれ変わる。
いや、ある意味で……回帰するのだ。
あの頃のように「書」を楽しむ、一人の書道少年へと――――
「……よし、気合い入った」
練習する時間は残されていない。
現在時刻――九時二十分。文化祭の一般入場は、九時半から開始される。
模擬店やイベント運営をするクラスや部活動、個人でエントリー可能な野外ステージに申し込んだ生徒は、それまでに各自調整を行う。
書道パフォーマンスは第二体育館で、十一時からのスタート。
それまでは軽音部のライブや和太鼓部の演奏が行われるそうで、パフォーマンスの下準備は直前までできない。
部室で行う出し物の準備は終えているし、後は時間になるのを待つのみだ。
「あと済んでいない……というか、足りないのは人員くらいか」
正座を崩し、微かに痺れた脚をピンと伸ばした。
「おっまたーっ!」
勢い良くドアがスライドされると共に、金城嘉穂の軽快な声が部室に響く。
「おっ、早いね貫之! 気合いバッチリじゃん!」
「そりゃあ一応、この部の部長……だしな。にしても、今日は遅かったな」
「いやぁー、ごめんごめんっ。クラスで出す模擬店の最終準備をしてたら、うっかり遅くなっちゃったよ。……あ、これうちのクラスで作ったからあげ! 食べて食べてっ」
「ああ、ありがたく貰うよ。……けど、休んでる暇はないぞ? さっさと書道部Tシャツに着替えろ。文化祭はもう始まるんだから」
「分かってるって!」
からあげが入った紙コップを僕に渡すと、嘉穂はカバンからTシャツを取り出して、制服を脱ごうとブレザーのボタンを指で摘まむ。
「おい、ここで着替えようとするなよ!? せめて僕がいない所で着替えろ!」
「えー、いいじゃん別に。全部脱ぐわけじゃないんだしさ?」
「だからって……僕も一応、思春期の男子高校生なんだぞ……?」
「そんなに気になるなら、あっち向いてればいいじゃん」
「何で僕が向かなくちゃいけないんだ……」
嘉穂が視界に入らない方へと向いて、受け取ったからあげを口に放る。
「他の男子に見られるのは嫌だけど、貫之なら別に構わないんだけどなぁー」
「いや、僕に見られるのも躊躇しろよ……」
制服の布の掠れる音が、背後から聞こえてくる。
「よっし……着替え終わったよ、貫之」
「早かったな、随分と」
「そりゃー、着替えると言っても上だけだしね」
振り返ると、嘉穂は脱いだ制服を畳んでいる最中だった。
上は書道部Tシャツで、下はたくしあげた制服のスカート。
なぜだかスカートが、いつもよりも短くなっている気がするな……。
「うっわー、すっごい物欲しそうな目で太もも凝視してるじゃーん」
「誰が物欲しそうに見るかよ……。けど、そんなにスカート短くしてたら、パフォーマンスの時に本当に中身が見えちまうぞ?」
「へーきーへーきっ! だって……ほらっ!」
嘉穂はスカートを手でたくしあげ、中身を僕に見せ付ける。
「……ブルマ?」
「そ! 対策バッチリ!」
だからってブルマとは、また古典的な……。
「分かったから早く隠せ。第三者に見られたら、物凄く嫌な誤解をされるから」
「パンチラ防止のためのブルマなんだし、見られてもよくない?」
「僕が懸念しているのは、お前のブルマが見られる事じゃない……。嘉穂が僕の正面でスカートをたくしあげている今の状況を、第三者に見られたくないんだよ」
「もぉ、仕方ないなぁー。貫之がアタシの太ももに欲情して書道に支障を来したら、元も子もないしねっ」
「お前の体に欲情なんて、今更しねぇよ……」
「え? 今なんか、失礼は事言った?」
地獄耳が……。
「まぁ、でも安心してよ。仮に今の状況を誰かに見られたとして、貫之がお望みとあらば、その人の頭を蹴って一部の記憶を飛ばしちゃうからっ!」
「お前は一体、どこの達人だよ!?」
その第三者からしてみれば、よっぽどのとばっちりである。
――ガラララ。
その時、不意に部室の扉が開いた。
「賑やかだねぇ、二人共。お父さんも混ぜてくれないかい?」
「あっ、親父先生!」
「ちっ……何で来たんだよ、クソ親父」
「いきなり舌打ち!? 顧問なんだし、来るのは当たり前じゃない!?」
命拾いしたな、親父。あと数十秒誤差があったら、あんたはしばらく保健室のベッドの上に伏せる事になっていたぞ。
「それで、貫之。最終調整は済んでいるのか?」
「……ああ、勿論」
親父の問いかけに、冷静に頷く。
「というか、神門には連絡を入れたのか?」
「ああ、当然だよ。お前からやる気になってくれたってのに、そんな機会をやすやす逃すほど、俺は愚かじゃないさ」
「あぁ、よかった。てっきり本物の愚者かと思っていたから」
「実のパパなのに、扱い酷すぎない!?」
僕は気持ちを入れ替えたあの日、親父に頼んで神門明音に連絡をしてもらった。
「文化祭に絶対来てくれ」という、招待状代わりのメッセージ――それに対し、返信は秒で返ってきた。無論、「分かった」の一言だ。
「貫之、朝からずっと練習してたみたいだよね。今も頬に墨くっ付いてるし」
「はぁ!? そういう事は先に言えよ、嘉穂!」
「いやいや嘉穂ちゃん。貫之はね、昨日も夜遅くまでずっと部屋にこもって、書道に明け暮れていたんだぞ? 半紙に何度も、パフォーマンスのイメージを書いてさ」
「えっ、そうだったの?」
「……言っただろうが。僕は筆を持つまでは長いけど、持ってからも長いって」
「まったくぅ、格好付けちゃってー」
冷やかすように、嘉穂が笑った。
それにつられて親父も笑みを浮かべ、
「よぉし! それじゃあ、気合い入れのために円陣を組もう!」
「はぁ……? いいよ、運動部じゃああるまいし」
「運動部じゃなくても、円陣は組むもんだろ?」
「そうだよ貫之、組も組も!」
「ったく、分かったよ……」
渋々了承し、僕は二人と肩を組んで小さな円を作る。
「貫之部長、掛け声!」
「掛け声も僕なのかよ……」
まぁいいや……気合いを入れなければいけないのは確かだし。
「とりあえず、今まで散々足を引っ張って悪かった。――けど、もう平気だ」
文化祭開始まで、あと数秒。
「絶対に、パフォーマンスを成功させる。最高の作品を完成させよう。……見てくれた人達に感謝を伝えて、感動を与えるんだ。そのためにも、そうだな……」
簡潔に、素直に、瑠奈ちゃんの言葉をふと思い返して、
「……まずは僕達が――書道を、楽しもうぜ」
初心に戻った率直な思いを、口にした。
「……よし。時間だ――始めよう」
円陣を解き、僕は扉の方へと進む。
扉の前で「まだか、まだか」と、書道部の活動を待ちわびている客達に向け、
「ただ今より、書道部内を解放します! 書道体験は先着順で三名ずつ、展示品の鑑賞は自由となりますので――っ! ……って、あれ?」
「ちょっと舞い上がりすぎだよ、貫之。校内入場が始まったばかりなのに、人が来てるわけないじゃん。生徒だってほとんどがクラスか部活の出し物で忙しいんだし」
「はしゃぎすぎだぞぉ、貫之ー? パパは嬉しいぞぉ、ここまで貫之のメンタルが完治してくれてなぁー?」
「うるせぇうるせぇうるせぇ!」
クスクスと嘲笑う嘉穂と親父の言葉を、勢い任せに掻き消した。
青春譚っぽい感じで決意を固めても、現実はこんなもんかよ……。
一瞬で酔いが覚めた気分だ。
「……一人目は、ボクですか……?」
が、扉の隙間からひっそりと聞こえた少女の声に、悪寒を感じる。
それと同時に、僕は瞬時に気を立て直した。
「神門……」
初の客人は、神門明音――天才中学生。
「随分と早い到着だな」
「はい……折角だから長い時間をかけて、ゆっくりとお兄さんの学校を探索してみたかったんです。それで、早めに文化祭に来ました……」
神門はそわそわと扉の隙間から部室を眺め、「おぉ……」と感嘆の声を漏らす。
「こ、ここが……お兄さんのアトリエ……ですか……んっ、はぁはぁ……墨の香りとお兄さんの口の香り……どこか油っぽいお肉の匂いを感じます……」
僕の口、そんなに臭いか!? 唐揚げのニオイ強すぎるだろ!
「……ひとまず、そんな遠くから見てないで中に入れよ」
「え、いいんですか……? お兄さんの大切なアトリエなのに……」
「アトリエじゃなくて部室だ。それに、今日は部外者でも入っていいんだよ。そういう出し物をやってるんだから、うちは」
「そう……ですか。では、お言葉に甘えて、失礼します……」
神門はペタペタとスリッパの音を立てながら、壁際に展示された書道作品を一つ一つ舐め回すように眺め始めた。
「お兄さんの作品が……見当たらない……」
「悪いけど、僕は作品を展示してないぞ」
「……やっぱり、ですか」
肩を落とし、彼女は分かりやすく落ち込んだ。
文化祭でなら僕の作品を見られると、少し期待していたのかもしれない。
「残念ながら書く気がないし、間に合わせる気もなかった。――数日前までは」
「……?」
「ま……結局間に合わなかったんだけどな。いくら書いても、満足のいく作品が書けなかったんだ」
神門には、しっかりと見届けてほしい――そう想いを込めて、
「だから今日……完成させようと思う」
身の程知らずにも圧倒的強者を好敵手として見ながら、僕は頭を下げた。
「余興として、うちの書道パフォーマンスを見ていってくれ。そこで一度、僕は本気で書く。……数年ぶりに、自分の想いを書道で表現してみたくなったんだ」
「……あ、頭を、上げてください……」
心底驚いたらしく、神門は声を震わせた。
「どうして……そんないきなり、心変わりを……?」
「一人で踏み出すのが怖かった。また負けるんじゃないか、って……けど、これからは逃げずに、自分がやりたい事をやろうと思えたんだ」
困ったように笑顔を繕いながら、僕は「やっぱり、まだ怖いけどな」と付け足した。
「……だから、あえて今日から始めるよ。一人で一歩を踏み出すのは怖いけど、支えがあれば、僕は進める気がする。そこから一人で歩いていく勇気が、貰える気がする」
そして、それが終わったら――と、僕は神妙な面持ちを浮かべ、
「よければ、僕と一戦交えてくれないか?」
神門に、そう伝えた。
「「――――!?」」
僕の言葉を背後で聞いていた嘉穂と親父は、これが夢か何かとでも思ったらしく、頬をペタペタと触ったり、捻ったりし始めた。
無理もない。普段から書道を嫌い、勝負から逃げてきた僕が突然、人が変わったようにそんな事を言い出したのだから。
対して神門は表情を引き締めて、いつになく真剣な眼差しを僕に向ける。
「……本気、ですか? ボク、ブランクがあるからって、手は抜けませんよ……?」
「そうでないと、復帰試合にならないだろ」
僕は自身の未来を掴むために、過去に引退まで追い詰められた神門と競書する。
それに何の価値があるのか、その先に何が待っているのか、はっきりとは分からない。
だが――必ず意味がある。そんな気がする。
「……じゃあ、お兄さん。ただの競書じゃつまらないから、賭けをしませんか?」
「別にいいけど、金ならねぇぞ」
「お金なんて必要ないです。ボクが欲しいのは、お兄さん――ボクが勝ったら、ボクもお兄さんの生徒にしてください」
「僕から教えてもらいたいって言うなら、今日の文化祭の出し物の項目に『書道体験』があるから、そこでならいくらでも教えるぞ?」
「そんな一時の教えで満足できるほど、ボクの想いは小さくないです……」
ムッと不服そうに下から睨んでくる神門に、思わず笑ってしまった。
「負かした相手の生徒にしろだなんて、よく分からない賭けだな」
☆
第二体育館――様々な場所で書道を披露した事はあるが、この規模は初めてだ。
僕達が今いるのは、パフォーマンス出演者が控える第二体育館の小部屋。
扉に付いた小窓から体育館内を見渡し、どんなものかと会場の様子を伺う。
「三百人くらいいるんじゃないか? この客の人数……」
それは在校生の家族だったり、他校から来た誰かの友人だったり、はたまた名前も知らない親父のファンらしき人だったり……二階は満員状態である。
体育館の中心に目をやると、用意された書道パフォーマンス用のドデカイ紙を取り囲むようにして椅子が設置され、そこにも多くの人が座っていた。
あまりに人が多くて、神門はおろか瑠奈ちゃんの姿も見当たらない。
「準備はいい、貫之?」
「ああ、多分」
「おいおい。あと一分もせず始まるってのに、ここに来てビビったかぁ?」
「うっせぇな、親父……。今は集中力を高めてるんだよ」
「あ……司会の人がマイク持った! 始まるよ、ついにっ!!」
『続いて、和澄高等学校書道部です。……書道部は当校の中で最も歴史のある文化部ですが、現在は部員数が少なく、生徒二名で活動をしています。顧問の煤咲先生は現役の人気書道家でもあり、本日は煤咲先生のファンの来場者様も多くお越しになられ――』
司会を務める文化祭実行委員の生徒が、淡々とメモ書きを読み上げる。心拍数が段々上昇し、緊張感が高まった。
『――長らくお待たせいたしました。これより書道部部員と顧問の三名による、書道パフォーマンスを始めます!』
そして、ようやくその時が来た。
壁に付いたスピーカーから、軽快な前奏が流れ始める。
音ノリが良く客達にも馴染み深い有名な邦楽に、関心が一気に高まった。
僕が苦手意識を持つ一部のウェイ系生徒達が「うぇーい!」と場を盛り上げる。今日ばかりはその声が、何よりもありがたかった。
書道部の所有時間はわずか十分――文化祭実行委員に書類を提出し、部活規模とパフォーマンス内容を審議された結果、設けられた時間がこれだった。
「まずは初手……派手に盛り上げてくれよ、嘉穂ちゃん? 書道には運動能力向上の効果もあると証明してくれ! 来年度の新入部員を増やすためにも、頼んだよ!」
アプローチ方法が姑息だ。嘉穂の運動能力に頼るなよ。
親父の馬鹿げた発言に嘉穂は愛想笑いを浮かべ、扉に触れる。
「それじゃ! 行ってくるね、貫之!」
「ああ、行ってこい」
とんっと背中を押して、僕は彼女を送り出した。
嘉穂が登場した瞬間、ドッと会場は大いに沸き上がる。
それもそのはず――校内での人望はトップクラスであり、ルックスが良い事も加味すると、在学生に留まらず他校の生徒も大盛り上がりだ。
嘉穂は紙の前に立つまで会場全体に手を振り、笑顔を振り撒く。
あと数十歩で半紙前というタイミングで前宙やらバク転などのアクロバティックな技を繰り広げ、会場をさらに熱気で溢れ返させた。
「もはやここまでは、書道部のパフォーマンスとは思えないな……」
従来の書道部なら、こんな体育会系な登場はしないだろう。
「にしても客全員、嘉穂の動きに釘付けだな」
「うむ……男は全員、揺れるスカートの中に興味津々さ」
「いくら覗いてもブルマしか見えないんだけどな」
けど、役目は十二分に果たしてくれた。
客の興味、関心を引く……書道の技能がまだ高くはない嘉穂が取れる、「違う技能」を取り入れた彼女なりの魅せ方。
嘉穂はスムーズな動作で紙に接近し、床に置かれている筆モップを手に取った。筆モップをバトントワリングのように、豪快に振り回す。
余興を終えると、本題の書道パフォーマンスに移る――バケツに入った墨をどっぷりと穂に浸し、豪快に筆モップを扱いながら制作に当たった。
軽快な音楽に合わせて飛び回る嘉穂の斬新な書道スタイルに、客のテンションが上がっていく。だが、その様子を覗いていた僕と親父はというと――――
「これ……俺らの場違い感、すごくないか?」
「……同意だよ、親父」
上がりに上がる期待に、モチベーションは下がる一方だった。……とはいえ、やらなければならない。ここまで嘉穂が盛り上げてくれたのだ、無駄にはできない。
彼女の作り上げた会場の雰囲気――拙いながらも、豪快な筆捌き。だったら僕も、自分のやり方で勝負する。豪快な筆捌きに、繊細さを付け加える。
「親父、そろそろ行くよ。もう、僕の番だ」
「ああ、細かい事は言わんよ。好きなように、存分に、書道に打ち込んでこい」
「……ああ」
親父の言葉に頷き、緊張で震える膝に渇を入れる。
「またな、親父――あんたも期待を裏切るよ。シメは、有名書道家の役目だからな」
そうして僕は、小部屋の扉を開いた。
会場は暑苦しい。
新たに現れた書道部員に、ギャラリーも注目している。
こいつはどんなパフォーマンスをするのだろうと、期待の眼差しを向けていた。
「……生憎、僕は期待に応えるのが目的じゃない。楽しむのが目的なんだ」
そう呟いて、特に目立つ動きもしないまま一気に直進する。
現在嘉穂がパフォーマンスをしている中央部に立ち、僕は筆を手に取った。
嘉穂が扱う筆モップより、もう一回り小さなサイズ。
筆モップは大きな見た目通り、細かい字を書くのは長けていない。
紙の中央付近は嘉穂の領域――そしてその隣に、僕が繊細な字を添える。
紙の上で中腰になり、穂に墨を付けて先端を紙に向ける。
使い慣れていない筆――武者震いにも似た意欲が、身の内側から込み上がった。
意識を落ち着かせろ。穂先の標準を定めろ。筆の重みに耐えろ。腕の震えを鎮めろ。緊迫感を熱意に変えろ。――存分に、楽しめ。
自分に言い聞かせるように、脳に刷り込まれた「手順」を思い返す。
筆を、紙に触れさせた。
決して腕を止めず、スムーズに、自分にできる最大限で字のまとまりを作る。
聞こえていた歓声が、不思議な事にピタリと止まった。ただ、これは単に「歓声が消えた」わけではない事くらい、理解できていた。
雑念の遮断――余計な事は頭の隅に追いやられ、今必要な情報だけが流れてくる。
しかし僕の中には、一つだけ雑念が残っていた。
いや……これを雑念扱いするのは、少しばかり違うか。
楽しむ事――「楽しい」という感情は、作品を仕上げる上で最も大切なのだ。
決して、雑念などではない。
僕のパフォーマンスが終盤に差しかかると、視界には一瞬親父が映った。
嘉穂のパフォーマンスはより激しさを増し、親父は紙の上に膝をついて、僕よりも細かな字で仕上げに入った。
それに感化された僕は、これまで以上に作品制作に集中する。そして――ラスト一文字。
残りの集中力を根こそぎ振り絞り――書き上げる事に、成功した。
耳に付けていた栓が抜けたかのように、会場内の声援が鼓膜を震わせた。
拍手と歓声で包まれた体育館――閑静な環境で取り組む書道とは違う体験に、僕はどこか不思議な感情を抱く。
客席に向かって、自然と一礼した。
僕の動き――書道部部長の挨拶を確認し、嘉穂と親父も頭を下げる。
左側に、僕の書いた文章。
右側には、親父の文章。
中央に、嘉穂が大きく書き上げた二字。
そして紙の隙間を埋める、掠れた墨の花弁。
「血も泥も涙も啜り」
「望」
「希」
「色をまた紡ぎ綴る」
三人の字で、一つの作品が完成した。
この作品は以前、親父が書道のイベントで書いた色紙作品を手本としている。
今の僕にピッタリの作品だと、つくづく思う。
だけど、まだ終わっていない。
僕は頭を上げて観客席を見渡し、一人の女子中学生を探した。文化祭実行委員を手招きし、マイクを持ってくるよう要求する。
『あーあー、皆さん……本日は最後までパフォーマンスをご覧いただき、ありがとうございました。書道部部長の、煤咲貫之です』
マイクを通して改めて挨拶をし、僕は語り出す。
『私事ですが……僕は、書道が嫌いでした』
僕の言葉に、会場が騒めき出す。
『自分で言うのも嫌味な話ですが、僕は小学生の頃に「若葉の天才」と持てはやされ、書道の業界で多少の注目を受けていました。……でも、当時の僕は作品の優劣をつける「競書」で、年下の女の子にずっと負け続けていたんです。そこから徐々に書道が嫌いになっていって、書道をやる意味が分からなくなって、大切な事を……忘れていきました』
けれど――と、僕はマイクを握りしめる。
『今日、また実感できた気がします。……書道を楽しむ事の、大切さを』
そう言い切ると、客席から温かな拍手が送られてきた。
『……それと書道部から、いくつか宣伝があります。現在書道部部室で、作品展示をしています。書道体験も行っているので、お気軽にお越しください――あと、最後に一つ』
客席の一点を、僕は指を差した。
僕らのパフォーマンスを見に来ている――神門明音に向かって。
『先ほど、僕は年下に競書で負け続けたと述べました――その相手が今日はこの場に、ゲストとして来てくれています』
周囲の視線は一瞬で神門に集まり、またしても会場がどよめく。
『彼女はSNSのフォロワー数が五万人を超え、テレビやネット番組への出演も経験している、ちょっとした有名人です。もしかすると、知っている方もこの中にはいるかもしれません。「精細な天才」――神門明音、雅号「包光」の名前を』
体育館の中央から客席を窺うと、彼女を知っている人がこの場にだけでもそれなりにいる事が分かった。
『そこで、突然ですが……今日だけのスペシャルイベントを用意しました』
その言葉だけで、神門は察し付いたらしい。
『本日十五時、書道部部室にて……部長の僕と神門明音の、エキシビション即興競書を行います! 審査方法は投票制、観戦する皆さんが勝者を決めてください――――』
神門は目を大きくを見開き、驚きをあらわにする。
しかし、僕の話を遮る事はしなかった。
ただ、彼女は少し呆れたように――だが心底嬉しそうに、僕を見つめる。
口をパクパクと動かして何かを言っているようだが、生憎、体育館中央と客席には距離があり、聞き取れはしなかった。――しかし、大体は伝わってくる。
「まさかこんな展開になるなんて、思いもしませんでしたよ」
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