第4話 愛に飢えた天才

「絶対ダメだからね、歌余さんが作った紹介記事を使い回すなんてっ!」

「あーもう、分かったっての! 書くよ、新規で書けばいいんだろ!?」

「あーもうって言いたいのはアタシだよ! どちらかと言えば『あーほう』って罵りたいくらいだよっ!」

「上手い事言ったような顔を分かりやすくするな!」

 和澄高等学校、昇降口。

 三時限分の土曜授業も終わり、放課後は生徒の大半が各々の所属する部活動に足早に直行する。主に運動部が盛んである和澄高校では、放課後は校庭や体育館で活気溢れる選手達の雄叫びにも似た騒々しい声があちこちから響いていた。

 文化祭シーズン――あと数日にまで迫った学校一の盛り上がりが期待されるイベントを目前として、部活動に所属していない生徒達を含め、学校全体が和気藹々としている。

 今日もほとんどの教室で人が残り、文化祭の装飾作りに勤しんでいた。その大半がクラスの中心人物のウェイ系学生なので、日陰にいる生徒に入り込む余地はない。

 そういう輩のお陰で面倒極まりない文化祭の装飾作りに参加する必要が自然と消えてくれるわけだし、ありがたいと言えばありがたいのだが……。

 そんなこんなで行事ごとに順応できない僕――煤咲貫之は、クラスでの準備に参加しない代わりに、自身が所属する書道部の文化祭準備を今さっきまでやらされていた。

 今さっきまで――というのも、準備に当たっていたのはつい数十分前までの事である。

 時刻、午後二時半。

 部活動での文化祭出展準備を共に進めた、部活メイトであり幼馴染み。

 ハツラツとした太陽のように輝かしい性格の持ち主、金城嘉穂。

 彼女と二人、昇降口にて文化祭の出し物についての会話を繰り広げながら、シューズロッカーを空けてローファーを取り出し、帰宅支度を済ませていた。

「チッ。姉貴の奴、余計な告げ口しやがって……」

 折角、姉貴が作った文化祭用の「有名書道家の紹介」を再利用して、少しでも自分のやるべき仕事を少なくしようと思っていたのに。

「冗談なしに、記事作りは自分でやらなきゃダメだからね?」

「はいはい……」

「何ならアタシが手伝ってあげてもいいよ?」

「僕を手伝う前に、自分のを作り終えろよ」

「ふふふっ……。それがもう、完成してるも同然なんだよ。昨日の夜からコツコツと構想を練って、今日の授業中にペン入れまでしたんだっ。……あ、授業中とは言っても、自習だったからだよ? 今日、数学の色坂先生がインフルエンザで休んじゃってさ」

「もうインフルが流行り出す時期なのか……。まぁここ最近は寒暖差も激しかったし、体調面も気を付けなくちゃだな。お前も風邪には気を付けろよ」

「おっ、貫之ったら優男だねっ! アタシの体調を気にかけてくれるなんて」

 お前がこのタイミングで欠席したら、文化祭での書道パフォーマンスが「書道部メンバーの」ではなく「煤咲親子の」ステージになってしまうだろう。

「ちなみに、嘉穂は有名書道家……誰について記事を作ったんだ?」

「勿論、貫之だよっ!」

「冷やかしにしては度が過ぎるな……」

 掲示される記事の中に僕の顔写真が紛れ込んでるとか、恥晒しもいいところだ。

「ま、さすがに冗談だよ。……有名な書道家、っていうのは嘘じゃないけど」

「それを冷やかしって言うんだ。いい加減、過去の栄光にもならない事実を掘り返すのはやめろよ。第一、有名じゃないし。……で、実際は誰を書いたんだ?」

「相田みつをさんっ!」

「あー、なるほどなぁ」

 相田みつを――雅号、貪不安。

 書家であり詩人でもある彼は、共感性の高い詩と、見る者を魅了する独創性の高い書体に定評があり、死して尚、老若男女問わず多くのファンに愛されている。

「あー。それにしても、今日は話し合いがすっごい進んだね! 書道パフォーマンスで流す曲も、ダンスの内容も決まったしっ」

「親父先生がやたら張り切ってたからな」

 親父先生こと煤咲望行――僕の父にして、書道部顧問。

 廃部警告を言い渡されてしまった事もあってか、今日の親父は妙に張り切って部内ミーティングを進めていた。普段はほとんど部活にも顔を出さないくせして、こういう時には立派に危機感を抱いている。もっと普段から顔もやる気を出せばいいのに。

「あ、そうそう。貫行はこの後どうする?」

「どうするって、何がだ?」

 ローファーの爪先を床のタイルに当てリズミカルに音を鳴らしながら、嘉穂は言う。僕は屈んでローファーを履き、彼女の質問に問い返した。

「忘れたとは言わないだろうけど、この後の予定だよ。一度帰ってから、瑠奈と合流して小学校に行くでしょ? 時間とか、待ち合わせ場所とか決めなくちゃ」

「忘れてないよ。仮にも僕が任されている、たった一人の生徒との約束だし」

 金城瑠奈――嘉穂の妹であり、無口無表情な小学六年生の書道少女。

 今日は放課後、彼女の通う小学校で催されている「学内書き初め展覧会」――通称「学書展」に参加する予定が組まれている。

 このイベント自体は小規模であるが、それでも、教え子の作品を見に行くというのは指導者の端くれとしても、何気に楽しみだ。……まぁ、指導を始めたのはつい数日前だから、「学書展」の作品は、僕とは一切関係ないのだけれど。

 僕と嘉穂はほぼ同時に昇降口を後にして、中庭を歩き出す。

「家に着いたら、すぐ嘉穂の家に向かうよ。家を出る時に一度連絡する。遅くとも三時半までには、金城家に着くはずだ」

「おっけー。それじゃ、帰ったら瑠奈にも待っとくように伝えるね。あの子、今日をすっごく楽しみにしてたみたいだからさ」

 ご自慢の妹について語りながら、嘉穂は笑みを溢した。

「だったら、僕らも少し急がないとな。待たせるのも悪いし」

 僕もつられてふと笑みを浮かべ、ほんの少しだけ歩くスピードを速めた。そこまで楽しみにしてもらえているのなら、少しでも早く帰宅するべきだろう。

 中庭を抜け、駐輪所を横目に校門へと足を進める。校舎を出てすぐに左折して、家路に向かって直進した――が、僕は唐突に一時停止して、背後を振り返る。

 校門を出てすぐの右側――僕らが進んだ道とは逆側。僕の瞳は一人ひっそりと路地で佇んでいた少女の姿を、瞬間的に捉えていた。

「……る、瑠奈ちゃん……っ!」

 僕の真横を歩行していた嘉穂は突然の事に少々動揺を見せたが、僕の発した名前を聞くと、状況を一瞬で理解する。

「え、る……瑠奈!? どうしてここにいるの!?」

 僕より先に、嘉穂は瑠奈ちゃんのもとへと駆け寄っていった。

 思いもよらない場所で遭遇した金城瑠奈に対し、嘉穂は驚きをあらわにする。

 小柄な体格と黒髪ボブヘアーに、白のパーカーとデニムのショートパンツ。熊耳付きのフードを被るその姿は、まさに愛らしい白熊の子供だった。

 瑠奈ちゃんも僕と嘉穂に気が付いたようで、表情は変えないままこちら側を向き、太ももに両手を這わせて会釈する。

 そんな彼女に手をひらひらと横に振りながら、嘉穂の後ろを追うように瑠奈ちゃんのもとへと歩み寄った。

「瑠奈ちゃんがここにいる理由は……まぁ、一つしかないよな」

 僕達が校舎から出てくるのを待っていた――それ以外に、理由があるはずもない。

「一体、何時からここで待っていたんだ?」

 時間の約束もしていなかったため、きっと待ちくたびれてわざわざ高校までお迎えに来てくれたのだろう。――と、僕は軽率に考えていたのだが、

「十二時」

 彼女の口から飛び出た時刻に、僕は思わず口をぽっかりと開いた。

 十二時……って、今の時刻はおおよそ二時半だぞ? て事は彼女はこの寒空の下、約二時間半も待たせてしまったというのか!?

「午後からって、約束したから……」

 瑠奈ちゃんは僕の瞳を見つめながら、相変わらずの無表情でそう告げた。

 ……忘れていた。この機械仕掛けじみた少女は、物事を伝える時は懇切丁寧に説明しなくては、盛大な勘違いを引き起こしてしまう危険性があるのだった。

 とりあえず今僕にできる事は、せめてもの償いとして瑠奈ちゃんに頭を下げる事くらいだ。何時間も待たせてしまった事に対する謝罪を、誠心誠意。

「……ごめんなさい。私も、一度連絡すればよかった」

 瑠奈ちゃんもつられて頭を下げる。この場合、瑠奈ちゃんに非はほぼないと言ってもいいくらいなのだが――やはり、良くできた小学生である。

「……後で僕の電話番号を教えるよ。携帯電話は持ってる? ……そっか、だったら家電だな。今度から何か約束をする時は。連絡を逐一取るようにしよう」

 僕も後で、嘉穂から金城家の家電番号を教えてもらわなくては。やっぱ、先生生徒の関係性で連絡が取れないというのは、いささか不便ではあるし。

「……ま。瑠奈ちゃんがここに来てくれたわけだし、このまま小学校に直行するか」

 僕は嘉穂とアイコンタクトを取り、進路変更を決定する。

「よし、それじゃあ行こう。二人共」

 瑠奈ちゃんの通う小学校――基、僕と嘉穂の母校に向かって前進する――その直前。

 ぐぅぅうううう……。

 怪しげな唸り声が、すぐ隣から聞こえてきた。最初は肝を冷やしたが、実際はそんな声ではない。僕は辺りを見渡し、その不気味な音の発信源を探す。

「……」

 お腹を両手で押さえた瑠奈ちゃん――そこで、僕は納得する。さっきの音は空腹により鳴った瑠奈ちゃんだった。そりゃ十二時から待っていればそうもなるだろう。

「瑠奈ちゃん、昼飯は食べた?」

「……ううん」

 無表情で――いや、ほんの少し頬をピンク色に染めて、首を横に振る。

「……小学校に向かう前に、何か食うか」

「けど、お金ない」

「待たせたお詫びに、今日は奢るよ」

「貫之ぃ、アタシもお腹空いたなぁーっ?」

「お前には奢らねぇぞ」

 部室で弁当二箱食べていたくせに、図々しく食料を催促するな。


          ☆

「……あふい」

「いやあの……本当、ごめん」

 口いっぱいに肉まんを含んで頬を膨らませ、モゴモゴと口を動かす瑠奈ちゃんに、僕は申し訳なさのあまり謝罪の言葉を口にした。

「どうして謝るの?」

「『今日は奢る』とか言ったくせしてコンビニの肉まんくらいしか買えず、不甲斐ない姿を晒してしまったから……かな」

 自己嫌悪の真っ只中、隣の瑠奈ちゃんはたった一つの肉まんを大切に両手で持ち、食べ歩きながら小学校への路地を歩いていた。ちなみに嘉穂は僕達の後を追いながら、口回りにべったりと食べカスを付けたままピザまんを頬張っている。僕は手ぶらだ。

 ろくにバイトもしていない僕の財布の中身はほぼ空で、コンビニで売っている安いホットメニューくらいしか奢る事ができなかったのである。

「……買ってくれて、ありがとう」

 肉まんをごくんと飲み込み、瑠奈ちゃんは上目遣いで感謝を伝えてくる。

「でも……腹減ってたんだろ? 一個じゃ物足りないだろ」

「平気、少食だから。それに、買ってもらえた事に意味がある」

 こんな安値の品物でも喜んでもらえるとは……なんて慎ましく良い子なのだろう。

「ほんと、貫之はいつも金欠だよねっ。アタシ、あんまんも食べたかったなぁ」

 妹に比べ、この姉は図々しい事この上ない。

 嘉穂のしつこさに負けて結局は奢ってしまったが、あのピザまんも瑠奈ちゃんにあげるべきだったな。それか、僕が食べるべきだった。

「……やっと見えたな」

 雑談をしながら歩いていると、気付いた時には小学校の校門まで辿り着いていた。

 錆のある滑り台やブランコなどの遊具に、サッカーとバスケのゴール、遠目に見えるプールに壁が白い本校舎と古びた外装の多目的校舎、その奥には体育館――些細な変化はあるもののほぼほぼ思い出の形のまま変わらない、懐かしい景色が広がっている。

「駐車場、結構埋まってるな」

 校門を抜けてすぐ横の駐車場には、数多くの乗用車が置いてあった。

 職員用の駐車場は裏門側にあるため、ここにある車のほとんどが「学書展」の観覧目的で訪れた親御さん達の物だろう。

 今日は土曜日だし、勤め先が休みという親御さんも多いはずだ。必然的に人は集まりやすいし、丁度今も低学年くらいの女の子が両親と手を繋いで談笑していた。

 すれ違った女の子は銀賞を受賞したらしく、両親が「頑張ったね」「惜しかったね」と優しく声をかけている。はにかんだ女の子の笑顔が、とても印象的だった。


 瑠奈ちゃんに先導され、僕と嘉穂は体育館の玄関にまで案内された。

 体育館の扉は二重で、玄関と体育館内に出入り口がある。

 今日は両方の扉が開放されていて、玄関の隅に設置された収納力の低い昔ながらの木製下駄箱は、親御さんと生徒の靴でほぼほぼ埋まっていた。

 下駄箱の隣に置かれた段ボール箱には、来場者用スリッパが山積みにされている。僕と嘉穂はローファーからスリッパに、瑠奈ちゃんは学校指定の上履きに履き替えた。

 体育館に入るための本扉を通過すると、多くの来場者と壁一面に展示された作品の数々が一気に視界に映る。

「なんだか……あの頃に戻ったみたいだ」

 同窓会に出席したおっさんみたいなセリフを、つい漏らしてしまう。

 僕はふらふらとした足取りで、吸い込まれるように体育館の中央へと歩いた。

「……せんせー」

 突然、瑠奈ちゃんに腕を掴まれる。

「受け付けしてから」

「……うっかりしていました」

 机を二つ並べて作られた即席の受け付けカウンターには、中年の男性教師と大学卒業してすぐくらいの若い女性教師が座っていた。

「こちら、ご記入お願いしますー」

 女性教師はにこやかな笑顔で、僕達に声をかける。机の上に置いてあったボールペンを借り、僕は渡された記入用紙と向き合った。

「『氏名』は煤咲貫之で、『生徒名』は……これ、金城瑠奈って書けばいいのか? 『職業』は学生で、『お住まい』は……学区内、っと」

 あとの記入は……生徒との関係? 僕と瑠奈ちゃんの関係って、先生と生徒? それとも友人……? これ、何て書くのが正解なんだ……?

「嘉穂。僕と瑠奈ちゃんの関係って、どう書けばいいと思う?」

「家族でいいんじゃない?」

「バカなのか……?」

「家族に見えるから大丈夫っ。アタシがママで、貫之がパパっ! 見えますよね?」

「受け付けの先生に同意を求めるな。そもそも『職業欄』に学生って記したんだし、話が色々とややこしくなるだろ」

 それに、僕と嘉穂が夫婦だと……? ありえない、想像つかないぞ。

「あ。それなら、『生徒名』は斜線で消してください。そうしていただければ、『生徒との関係』の欄は空白で平気ですよー」

 女性教師に言われた通りに書き上げ、ようやく受け付けが完了した。少し手間取ってしまったが、これで無事「学書展」会場へと入場できる。

 改めて体育館の中央に進み、僕は会場全体を見渡した。

「わぁ、久々ーっ! けど、体育館ってこんなに小さかったっけ?」

 嘉穂も受け付けを済ませ、僕のもとへと寄ってくる。

「あ……これ! このバスケットゴール、すっごい懐かしいっ!」

 声を弾ませて、嘉穂はピョンピョンと跳ねながらはしゃぎ出す。そして「アタシがバスケを始めたきっかけ」について、一人語りをし始めた。

「相当浮かれてるな……。嘉穂はほっといて、瑠奈ちゃんは僕と体育館を回ろうか」

「……うん」

「ちょっとーっ! フル無視って酷くない!?」

 壁際へと進んだ僕と瑠奈ちゃんの背後を、嘉穂は慌てて追ってくる。

 壁に飾られた全校生徒分の書箱作品、約三百点――学年によって課題が異なり、一年生から六年生まで進級するにつれて難易度が増していく。

 この「学書展」では学年と組ごとに展示されるスペースが設けられ、一枚一枚が質の良い黒の画用紙に丁寧に糊付けされた状態で壁に貼り付けられる。

 僕と瑠奈ちゃん、そして背後の嘉穂の三人は、体育館入り口側の左端――基、下級生のエリアから順に観覧していった。

「小一だと、歳は六歳か七歳……どの作品も字が生き生きしてるな」

「どう、貫之? 将来有望そうな子はいる?」

「有望かまでは分からないけど、才能の片鱗が垣間見れる字はそこそこあるな。……ほら、この子の字なんて型がよく取れてる」

「上手いもんだねぇー。……あ、見てよ貫之。あの子の作品、字が大きすぎて半紙に収まってないや」

「長半紙は普通の半紙に比べると、やっぱり文字のサイズ調整が難しいのかもな。推奨されてる筆も太筆じゃなくてダルマ筆だし、扱い慣れてないとバランスを取るのさえ素人には大変だろ。……小学一年でここまで書ければ、上出来だ」

 この場にある作品は全て、書き初めの縦二六○×七八五㎡の長半紙で書かれている。

 使用される筆は書き初め展覧会の主催側が推奨する、ダルマ筆――軸が細く、穂と持ち手軸の間にダルマ軸と呼ばれる膨らみがあるのが特徴的な筆だ。

 毛量が一般の筆より多く墨をたくさん含めるため、このように書き初めのような大きいサイズの作品を制作する際に用いられる事が多い。

 ちなみに作品の課題にはどれもダルマ筆が用いられているが、左端に記入された学年とクラスと生徒名は、太筆で細々と書かれている。

「ほらほら見て見てっ! この金賞の子、すっごく上手いよ!」

「ああ、本当だな。線のブレも少ないし、良い字だ」

「きっと器用なんだろうなぁ。金賞と銀賞の張り紙が付いてる作品は、アタシからしたらみんな、将来有望な金の卵に見えちゃうよ」

 嘉穂は顔も知らない小学一年生の作品を見て、素直に感心していた。

「けど……やっぱり特賞の作品と見比べたら、差は歴然としてるのかもね」

「そりゃ学校代表だしな。学校代表に選ばれるような作品ともなれば、他の作品よりどこかしら秀でてる部分があるのは確かだろ」

 学校内の賞は銀賞、金賞、特賞の三つ――単純な話、特賞の生徒が学校代表となり、一つの学年で二人、つまり学校全体だと小一から小六までで合計十二人が選出される。

 ……書道に興味がない人からしたら、代表入りは名誉でも何でもなく、ただのペナルティとしてしか感じられないだろうが。

「まぁ……そろそろ一気に進もう。他の生徒の作品は後でじっくり見るとして、まずは瑠奈ちゃんの作品を拝みたいしな」

「……うん」

 瑠奈ちゃんはこくりと頷いて、自身の作品が展示されているスペースへと僕と嘉穂を連れていってくれた。

「体育館の中でここが一番、人が密集してるな」

 特賞を受賞した作品は学年やクラスは関係なく、ステージ手前に設置された掲示板に並べて展示されていた。

 スペースの前まで来たものの、人集りで遠目からでは作品を見る事ができない。

 その様子を少し離れた位置から窺っていると、十数人の大人子供がある一つの作品をじっくりと見物している事に気が付く。

「……よし、そろそろ行くか」

 人集りが三分の二程度まで落ち着いたタイミングを見計らい、僕達は前進してスペースの真ん前を陣取った。

 瑠奈ちゃんの作品は、十二の特賞作品の中央に展示されていた。

「……」

 僕はじっくりと、瑠奈ちゃんの作品を鑑賞した。

「…………」

「……せんせー、どう?」

 いつになく口数の少ない僕を、瑠奈ちゃんは心配そうな様子で斜め下から覗き込み、評価を求める。表情は相変わらずだが、掌で腰回りをさわさわと触れていた。

「うん……悪くないと思う」

「……そう」

 安心してか、それとも悔しさからか、あるいはその両方か――瑠奈ちゃんは淡白な声音を漏らすと同時に、正面を向き直した。

 本当なら素直に一言、「良かった」と返事してもいい場面だっただろう。だが、僕はあえてそれを言葉にはしなかった。

 「学書展」の展示作品はあくまで学校内での予選であり、本選は「市内展」に提出する作品――今の作品を安易に良好と評価してしまうのは、少し違う。

 高みを目指すならまだ褒める場面ではないし、足りていない部分もまだ多い。

 小学生とは思えない手本に忠実な作品ではあるが、書道に――芸術に完璧はない。

 極論、手本すらも完璧とは言えないのだ。どれだけ人気のある音楽でも万人受けしないように、大勢が絶賛するスポーツ選手のプレイにもケチを付ける人がいるように、たとえプロが書いた書道作品であっても、人が手がけている時点で完璧とは言い切れない。

 瑠奈ちゃんの作品は第三者から見れば、「完璧」と評価しても問題ない出来映えだ。が、手本を完全再現するそのスタイルこそが、彼女の書道に足りない節だと僕は思う。

「……ただ、一つ挙げるとすれば……生気が足りないな」

 機械のように緻密に書き上げられた作品――褒め言葉とも捉えられるが、言い換えればそれは作品から作者の魂を感じられないという事。

 無論、瑠奈ちゃんは誠心誠意作品と向き合っていただろう。しかし、それはあくまで模倣――瑠奈ちゃんの性格、癖の片鱗が、良くも悪くも包み隠されている。

 やはり、瑠奈ちゃんに欠落しているのは「オリジナリティ」。

 このレベルの作品を「市内展」に提出すれば、間違いなく好評価を得られる。だが、それ以上の評価を望むのであれば――――

「何度も練習して……『市内展』、頑張ろうな」

「……うん」

 練習に尽きる。

 反復練習を繰り返し、手本以上の精度を模索する。

 手本に忠実でいて、瑠奈ちゃんのオリジナリティを含んだ作品――そのスタイルが確立されれば、瑠奈ちゃんにとってとんでもない武器となる。

 弟子は師匠を踏み台にして、高みを目指すべきなのだ。彼女なら遅かれ早かれ……いや、そう遠くない未来、僕レベルの技術なら軽く飛び越えてくれるだろう。

「いやぁ……こんなに上手い作品が並んでると、壮観だねっ!」

 僕と瑠奈ちゃんの会話がひと段落した頃、特賞の作品を一通り鑑賞し終えた嘉穂が、伸びをしながらそう言った。

「けど、やっぱり瑠奈の字が一番っ! これなら『市内展』も余裕のよっちゃんだね」

「周囲に人がいるんだから、少し自重しろ。身内贔屓のバカ姉に見られるぞ」

 並べられた作品の中では一番達筆だと僕も思うが、さすがに大々的に評価しすぎだ。

「ほんと、バカですよね……たかだか小学校の展覧会ごときで浮かれてるなんて」

「全くだ。少しは場を弁えろよ、嘉穂。仮にも書道の展示会場なんだから、騒ぐなんて言語道断だろうが……」

 ……? ――⁇ ――――!?

「――ッッ!?」

 瞬間的な動揺が、全身を駆け巡った。

 まるで最初からこの和の中にいたかのように、会話に紛れ込んできた「少女」。

 人目見た途端、悪夢じみた記憶が流れるように脳内を蝕んで、動悸にまで到る。

 体育館というこの小さな空間で、僕だけが明らかに異様な症状をあらわにしていた。

「……ど、どうして……」

 高まった心拍数を抑え込むように前屈みになり、胸に手を当てて、

「どうして……お前がここにいるんだよ……ッ!?」

 振り絞るように、その少女を問いただした。

 すると彼女は口角を上げて、目尻をとろんと下げる。

 そして、さながら悪魔のように不吉な笑みを浮かべながら、

「……お久しぶりです――お兄さん」

 白い頬を真っ赤に染めて、僕を「お兄さん」と呼んだ。

「ね……ねぇ、貫之? この子、知り合いなの……?」

「……ああ、よく知ってる相手だよ」

 できる事なら、もう思い出したくもなかった。

 どうにかして忘れようと試みた事は一度や二度ではないし、それでもふとした瞬間に彼女の存在が頭に過り、忘れようにも忘れられない。

 忘れる事なんて、一生できそうにない。

 なぜなら、彼女は僕が出会ってきた人の中で――最も恐ろしい人物なのだから。


 ――神門明音。


 その才能により、僕の精神を書道引退にまで追い込んだ若き奇才。

「女の子二人と談笑……楽しそうで何よりです、お兄さん」

「……君にそんな風に呼ばれる筋合い、僕にはないんだけど」

「? 小学生の頃からお兄さんを『お兄さん』と呼んでいたのに……まさか、その思い出も全部、全部全部……忘れちゃったんですか……?」

「……忘れるわけないだろ」

「本当ですか……? なら、よかったです……」

 こんな小学生……いや、もう中学三年生か。

 赤いリボンが装飾された黒主体の長袖セーラー服に、腰まで垂らされた黒髪ツインテールと赤と黄の左右で色の違うコンタクト。

 主張の少ない胸に、最後に会った日と変わらない背丈――身長は瑠奈ちゃんより少し高いが、彼女も小学六年の平均身長と比べると小柄なため、神門はかなり華奢のようだ。

「ずっとこうして再会できる日を……んっ……はぁ、楽しみにしてたんです……っ」

 僕からすれば、こいつとの再会なんて願い下げである。

「はぁ……本当に懐かしい……はぁ、はぁ……っ」

 神門の息遣いが、徐々に荒々しく変貌する。

「相変わらず変わらないな。……変態的だ」

「そんな事、ないですよ……?」

 甘ったるい声質に、僕の背筋は凍り付いた。

 頬をより濃く赤らめ、体がひらひらと左右に揺れ動く。

 スカートの内側に左手を入れ、局部周辺の内股をさすった。

「変わらないですね、ずっと。……変わってなくて、本当によかった。ボクが小学生の時から、ずっとずっと……おんなじ反応……っ」

 舌先を下唇に這わせ、右手の五指を一本ずつ艶かしく舐め回す。

 股に当てた左手の動きは徐々に激しさを増し、ミニスカートも淫らに乱れる。

「おい、ここでその癖を出すんじゃねぇよ……っ!」

「っ、は……ぁっ」

 天上を見上げながら体をビクビクと疼かせ、喜悦の声を漏らす。

 スカートとニーソックスの間の太ももに、ツーッと汁が滴り落ちた。

 同時、彼女はゆらりと体を前方に――僕の上半身へと倒れかかる。

僕は咄嗟に神門の肩を掴み、バランスを取った。

「……ええっ!?」

「…………っっ!」

 その光景を前に、嘉穂と瑠奈ちゃんも思わず目を見開く。

「はぁ……んんっ。久しぶりの、お兄さんの匂い……」

「……何のつもりだよ、お前……?」

「はぁはぁ……心臓の音が、ドクンドクンって、波打つように聞こえてくる……っ」

「いや……何のつもりもないか、本能に従ってるだけで」

 腹部に顔を埋め、神門は僕の服の両脇をくしゃりと強く握った。

「……はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」

 呼吸を落ち着かせるように、僕にしがみつきながら何度も深呼吸を繰り返し、徐々に呼吸は和らげていく。――が、彼女が平静を取り戻した瞬間。

「……んっ……んぐっ」

 なぜだか数秒の間、神門は唐突に咽び泣いて、

「……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい…………」

 消え入りそうな声で、謝罪の言葉を連呼した。

「っ……」

 前例のない神門の様子に、僕は驚き――というより、恐怖心に近い感情が込み上がる。

 以前から感情の起伏が激しい子ではあったが、今日はこれまでで一番激しい。

 改めて確信する――やはりこいつはイカれている、と。

 そんな僕の動揺に気付く由もなく、神門は上目遣いで僕を見上げた。

 目頭が真っ赤に染まり、潤んだ瞳から大粒の涙が溢れる。

 心配する気持ちはある。だがそれ以上に、おぞましい。

「どうして……お前が泣いてるんだよ……?」

「だって……ボクのせいでお兄さんが書道を引退したって、お父様に聞いたから」

「お父様……?」

「……ん」

 神門は僕に密着したまま、指先だけを出した袖口で涙を拭う。

「お父様……煤咲望行師範から、色々と聞いています」

「親父と、面識があるのか……?」

「お父様はネ友です。SNSで繋がっていて、時々ダイレクトメッセージで連絡を取り合っています」

 そういえば親父、ネット上ではちょっとした有名人だったな……。

神門も将来を期待される若手書道家だし、現役女子中学生となれば華もある。

 おそらく、フォロワー数もなかなかのものなのだろう。名の知れた書道家同士、SNSで親父と知り合っていても何ら不思議じゃない。

「来週行われる文化祭の話や、今日この小学校で開かれる展覧会にお兄さんが訪れる事も、お父様から伺いました。……ああ、それと――」

 ギロリと、神門は眼孔を鋭くし、

「お兄さんが生徒を作った……という話も、すでに聞いています」

「……っ」

 突き刺すような視線で、瑠奈ちゃんを睨み付けた。

 親父の奴、一体どういうつもりなんだ?

 息子の因縁の相手と話をしているのは……まぁ、ギリギリ許容範囲内ではあるが、なぜに息子の近況まで報告をしているのだ。

 トラウマを呼び覚ます発端となった親父に、ジリジリと怒りが溢れ出す。

「……でも、今日は来てよかった」

 眉間に皺を寄せ、神門はまるで鬼のような形相を浮かべる。

「生徒さん……それに彼女さんにまで運悪く遭遇できるなんて。嬉しくない誤算に、虫酸が走る。今日顔を確認できた事が、本当に奇跡的……っ」

「ちょ、ちょっと待って神門ちゃん……? 彼女さんって、一体誰の事……っ!?」

 神門の一言に、嘉穂が慌てた様子で聞き返す。

「……え。あなた、お兄さんの彼女さんじゃないんですか?」

「えええええええっ! いやいやいや、ちょっと待って!? それ、勘違いっ! 貫之の幼馴染みで同じ部活に所属してるけど、断じて彼氏ではないからっ!」

 必死に首を横に振り、嘉穂は神門の言葉を否定する。

 まぁ誰だって何をしてくるか分からないような奴に目なんか付けられたくないし、否定するのも当然だが……ここまで必死こかれると、若干複雑な気持ちになるな……。

「そっか……そっかそっか、そうですかっ。という事は、お兄さんはまだフリーって事ですね? 童貞という事ですよね?」

「どう……っ!」

 瑠奈ちゃんがいる前で、こいつは何を言ってやがる!? 教育に悪い発言をする奴らばっかりだな、僕の周囲の環境は……。

「その反応……図星ですよね。安心してください、貰い手はボクが務めますから」

 神門は漏れ出る笑みを隠すように、口元を掌で覆う。

 続いて彼女は僕からすっと距離を取り、ゆらゆらとおぼつかない足取りで、瑠奈ちゃんに近付いていった。

「あなたが、お兄さんの生徒さんですか……」

「……そう」

 平常通り、瑠奈ちゃんは一度頷いた。

「改めて、自己紹介させてもらいます。……ボクは神門明音。過去にお兄さん――煤咲貫之に弟子入りを試みて、断られた者です」

「……金城瑠奈。よろしく」

 お互いに向き合って、名乗り合う。

「あ……っ。やっと見つけた! 『神門明音』……雅号『包光(ほうこう)』。SNSのアカウントって、これだよねっ!?」

 その時、嘉穂がいきなり声を上げ、スマホの画面を僕に向けてきた。

「ああ、間違いなくこれだ」

「アタシ、思い出したよ。神門明音……前に何度かネットニュースで見た事ある。まさか、こんな有名人だったなんて……」

 アカウントのアイコンには塩らしい顔で自身の作品を手に持つ、神門本人の写真が起用されていた。

 嘉穂からスマホを受け取り、投稿画像……作品の数々を見ていく。

「……上手いな、やっぱり」

 精細に書き起こされた文字は、当然の事ながら達筆だ。同年代で彼女の実力に匹敵する人を探し出す方が、難しいほどの実力である。

 しかし、僕はその投稿以外に、神門のアカウントで気になるモノを一つ見つけた。

 それは――彼女のSNSのプロフィール覧。

 年齢、出身、誕生日、所属書道団体の記載の中に紛れ、横に「閲覧注意」と記された別アカウントのリンクが載っていたのだ。

 恐る恐る、僕はその別アカウントのリンクをタップした。

「――――ッッ!?」

 一瞬、僕はパニックを起こしてしまう。

 別のアカウント……所謂「裏アカ」には、承諾したユーザー以外が閲覧できないよう鍵がかけられていた。

 投稿内容までは見られない――それでも、僕は思わず唾を飲んだ。

 アイコンとして起用されていたのは、一枚の半紙。

 黒く濁った赤色で書かれた文字――それは明らかに、墨やインクではなかった。

 その淀んだ色が何によるものなのか、僕は瞬時に理解する。

 神門の腕を……長袖のセーラー服に隠された彼女の腕を見て、僕は冷や汗を垂らした。

「……メンヘラって、本当に実在するんだな」

 途端、瑠奈ちゃんに近付いていった神門への警戒心が、一気に跳ね上がる。

 僕は履歴の一部を消去して、嘉穂にスマホを返却した。

「ねぇ、金城瑠奈さん」

「……何?」

 そんな僕の心配など知る由もなく、二人は会話を再開する。

「あなたの字……『学書展』での作品を見る限り、才能を感じました」

「……ありがとう」

「褒めてはいないですけど……一つ、お願いを聞いてもらえないですか? あなたの実力を多少は認めたからこそ、手合わせしたい」

「手合わせ……?」

「ボクと一戦、交えませんか?」

 ……ッ!?

 神門の提案に真っ先に驚いたのは、瑠奈ちゃんではなく僕だった。

「神門……お前、本当にどういうつもりだよ!?」

「言葉通りです。お兄さんが認めた彼女の実力を、この目で見ておきたいという」

 神門の瞳には、静かな闘志が宿っていた。

「……つまりお前、瑠奈ちゃんに競書を挑んでいる……って事だよな」

「その通りです」

「やめろ、まだ瑠奈ちゃんは僕から指導を二日しか受けてない! そもそもキャリアが違うんだ……相手になるわけないだろ!?」

「……けど、お兄さんが生徒として認めた実力者……ですよね? なら、良い勝負ができるはずです」

 いや、まだだ。……まだ、瑠奈ちゃんは神門と競い合うべきではない。

 結果次第では最悪、彼女も同じように……筆を自ら置いた僕のように――――


「そういう事なら、俺の家に遊びに来なよ」


 僕の思考を遮るように、背後から声が届いた。

「お、親父先生……!?」

「……お久しぶりです、煤咲師範」

 嘉穂と神門が、それぞれ反応する。

 親父――煤咲望行の姿が、そこにあった。

「……何でこんな所にいるんだよ?」

「あー、それはあれだ。神門君から数時間前に連絡を貰ってね。折角だから、ここら辺の観光地をドライブでもして連れてってあげようかなーって。観光地ないけど」

「わざわざボクのために、ありがとうございます」

「いーよいーよ、頭を上げて神門君。わざわざ隣の県から来てくれたんだから、それくらいさせてよ。……それより、親御さんから許可は得た? 下手すると、誘拐犯扱いされちゃうからね。ほら、俺って一応教師だし、間違いがあったら大変じゃん?」

 ケラケラと笑みを浮かべ、親父は気の抜けたような言葉をつらつらと続ける。

「んじゃ、みんなも来なよ。俺の車なら全員乗れるから」

 颯爽と現れた親父は、また颯爽と体育館の出入り口へと歩いていく。

 僕は親父の背中を小走りで追いかけ、横に並ぶ。

「……何を考えてやがんだ、親父」

「そう怖い顔するなって、貫之。女の子もたくさんいるんだからさ」

「ふざけんな。何でよりによって、僕と神門を再会させるような状況を……」

「ああ、その事かぁー」

 親父は正面を向いたまま、それっぽい事を――

「過去を乗り越える転機になれば……なんて思ってさ」

 余計なお世話を口にした。


          ☆

「何々? 今から何が始まるの?」

「あの子、神門明音に激似じゃない?」

「『精細な天才』って異名がある子だよね、あれって」

「これから即興競書するらしいよ」

「裏アカ見てる人達には『鮮血の天災』って呼ばれてるんだってさ」

「墨代わりに血で作品を書いてるって噂聞いたけど、本当なの?」

 土曜日の夕方、生徒達――否、観戦者の話し声が飛び交う。

 僕――煤咲貫之と金城姉妹、そして体育館で再会を果たした神門明音は、煤咲望行の車に乗って、勝負をするのに適した環境へと移動した。

 その勝負場所というのが、僕の自宅――この書道教室である。

 休日の午後という事もあって大人達だけでなく、今日は小中学生の生徒もたくさん訪れていた。

 親父はその生徒達に観客――基、審査員になってもらうため、この教室を対決の場所として選んだようだ。

 僕や嘉穂の審査だけでは瑠奈ちゃんに肩入れする可能性があり、公平さに欠ける。だからこそ、審査員には第三者が必要だった。

 金城瑠奈と神門明音――教室の真ん中の長机を挟んで座り、各々が机上に書道道具を広げる。そんな二人の周りを生徒達は囲んで、興味深そうに二人の様子を窺っていた。

「それじゃあ今から、今回行う『即興競書』のルールを説明しまーす」

 教室長であり僕の母――煤咲舞姫が、ゆるやかな声で仕切り出す。

 僕と嘉穂を含めたギャラリー、この場にいる全員が母さんの声に耳を傾けた。

 競書とは、書道作品に優劣を付ける事――端的に言えば、上手さの競い合いだ。

 通常の競書大会の場合なら、審査員が作品を吟味して優劣を付ける。

 しかし、即興競書は少し特殊だ。

 状況により審査方法は変わり、今回は審査員役がギャラリーの生徒達となる。

 お互いが観客の前で書道作品の制作に当たり、完成した作品に優劣を付け、自身の良いと思った方にジャッジの瞬間手を上げる――所謂「挙手制」だ。

 これを二本――引き分けの場合は三本勝負とし、勝敗を決める。……これが、今回の即興競書のルールとなる。

「……って感じだけど、二人共、何か質問はある?」

「……ない」

「明音ちゃんは?」

「ん、んっふぅ……。はぁ、これがお兄さんの……くふっ、お兄さんのおうち……っ。畳に染み付いた墨の薫り……お兄さんの薫り……っ。鼻腔が充たされるぅ……」

「ふふっ、貫之は愛されてるのねぇ」

「いや、そういう雰囲気じゃないだろ」

 とろんとした虚ろな瞳で天井を見上げ、神門はスンスンと鼻から空気を吸い込む。

 正座した脚をさっきから落ち着きなく動かしていて、その様子は下半身を悶えさせているかのような、どことなく卑猥なものに感じられた。

 大人しくルールを聞いていると思ったら……ブレないな、こいつの変態性は。

 そんな本能の赴くままの佇まいでいる神門とは対照的に、瑠奈ちゃんは生真面目な態度をしていた。……とはいえ、いくら書道に向き合う姿勢がいくら瑠奈ちゃんの方が上であったとしても、神門の実力には現状遠く及ばない。

 ギャラリーの大半は、瑠奈ちゃんと相対するこの少女が誰なのか勘付いている。

 書道界の若手としての認知度は、業界一。

 神門は書道家としてのプロップスを、若くして勝ち得ている。

 知名度や人気が書道の上手い下手とイコールになるわけでは決してない。が、それでも有名になったという事は、相応の実力を備えているからこそである。

 才能はあるがキャリアの浅い金城瑠奈と、実力と実績の両方を兼ね揃えた天才中学生の神門明音――肩書きだけでも差は歴然だし、誰が考えても勝てるはずがない。

「瑠奈ちゃん、思い詰めないように……あくまで普段通りに、頑張ってくれ」

 彼女にそっとと耳打ちし、僕は瑠奈ちゃんの後ろに腰を下ろした。嘉穂は僕の隣に座ると、黙って妹の勝負を見届けようとしている。

「ん……ふぅ。ねぇ、金城瑠奈ちゃん」

「……何?」

 ふらふらと上半身を揺らし、右手で左手首を擦りながら、神門はゆったりと落ち着いた声で瑠奈ちゃんに問いかける。

「お兄さん……煤咲貫之先生の事、好きですか?」

「……好き」

「それは、先生として? それとも異性として?」

「……分からない。だけど、好きな事に違いはない」

「それは、なぜですか?」

「せんせーは……私のせんせーだから」

「そうです……か。うん、うんうん。そっか、そっかぁ……っ!」

 瑠奈ちゃんのセリフの意味を脳内で噛み砕き、じっくりと理解し納得した上で、神門はにへぇっと口を横広く開き、不気味な笑みを浮かべ出す。

「ボクもね、お兄さんの事がだぁいすき……っ! だからね、気持ちは分かるよ? お兄さんに近付きたい一心で、心技体全てを近付けたい気持ちでいっぱいで、まずは一人称を『ボク』に変えたりなんかしちゃってね? んふふっ……すっごく、すっごくお兄さんの書道を模写してね……近付こうと、瓜二つになろうって、頑張ったの……っ」

 笑顔を崩さないまま、ブツブツと呪文のように神門は語り、

「そのお兄さんと重なる過程の中で、ボクもあなたみたいに一度……ううん、違う。何度も何度も、『お兄さんの弟子にして欲しい』って頼んだの」

 そして、唐突に、

「お兄さんはボクを避けて――挙げ句、筆を置きました」

 ピタリと笑顔を崩して、表情を圧し殺し、

「ボクのせいでお兄さんが書道を辞めたんだと、何度も後悔しました。けど、ある日いきなり、お兄さんが書道を本格的に再開するかもしれないとお父様から伺いました。嬉しかった、本当に嬉しかったんです。……けど」

 眉間に皺を寄せ、ギロリと瑠奈ちゃんを睨み付ける。

「同時に生徒を一人作ったと聞いて、吐き気と憎悪で胸が苦しくなった。――だから、ボクが直接品定めしてあげます。あなたが、何でお兄さんの生徒になれたのか。あなたのどこに、お兄さんが魅力を感じたのか。一体ボクに、何が足りなかったのか……」

 神門は瑠奈ちゃんをじっと見つめ、彼女の闘志を掻き立てる。

「先行、あなたが書く字を選んでください」

 にっこりと、しかし悪意を剥き出しに、神門は言葉に威圧を織り込んだ。

 先行を譲られたとはいえ、瑠奈ちゃんの勝機は限りなく少ない――が、打つ手がないわけではない。必勝法はなくても通用する策なら、僕の思い付く限り二つはある。

 その一つは――過去に書いた字の復元。

 瑠奈ちゃんの模写の才能は、人並み外れている。

 初見での再現度だけなら、神門の才能を上回れる可能性が微かにある。

 だが今回の勝負はオリジナルで、手本がない。

 となれば、最初のお題として最適なのは――――

「――『四字熟語』。私が先行で選択する題目は、この四字」

 これが唯一、神門に一泡吹かせられる選択だ。

 昨夜に練習した「金城瑠奈」という名前を題にするのも手ではあるが、今回のルール上、使用する筆が太筆に限定されている。

 彼女は昨夜の練習で、小筆を使用し名前の練習をしていた。つまり太筆では感覚が変わり、字の精度が落ちる可能性が生じる。

 そのため一昨日に太筆で練習をし、まだ手本が頭に残っているであろう『四字熟語』が選択する題目としては最適正。この四字以外ありえない。

「ん……どうやら、何か策があるようですね」

 互いに筆を手に取り、硯に注がれた墨液を穂先に含む。

「左利きなんですね。書道をする者としては珍しい」

「……左手は、せんせーのお墨付き」

「羨ましい限りです、本当に。全てにおいて」

 感情の起伏を落ち着かせ、神門は丁寧な口調を続ける。だが、憎悪にも近い妬みの感情が、彼女の声音から剥き出しとなっていた。

「両者、準備はいい? それでは――始めてください」

 母さんの合図が入った直後、真っ先に行動に移したのは瑠奈ちゃんだった。

 下敷きの上にシワなく広げ、文鎮で上両端を固定した半紙。

 半紙の左下を右手で軽く押さえ、筆を持つ左手を半紙の上に構えた。筆の発進地、進行方向を入念に確認し、ほどなくして穂先を落とした。

「…………」

 周囲の空気さえも呑み込む、天性の集中モード。

 筆と半紙の擦れる音のみが微かに聞こえる、閑静な教室。

 まっすぐな視線で真摯に筆を動かす瑠奈ちゃんの姿に、老若男女問わず、観戦者達は食い入るようにして制作行程を眺めた。

「……」

 神門も黙って、瑠奈ちゃんの筆の動きを見つめる。

「…………あぅ、ん……はっ」

 が、ものの数秒で神門の黙視は途絶えた。

 息苦しそうに首元を激しく擦り、ガタガタと小刻みに体を震わせる。

「なるほど……なるほど、お兄さんの字によく似てる……それも『癖』までほぼ合致。へぇ、本当にお兄さんの生徒なんだ。……ここまでおんなじ筆法を、再現してるんだ」

 親指の爪をカリッと噛み、作品ではなく瑠奈ちゃん本人を凝視し出す。

「……お兄さんの生徒という事自体、にわかに信じ切れずにいた。心の隅ではどこか信じられていなかった。――けど、今になって、ようやく信じられた」

 疑心が確信に変わり、怒りが沸々と込み上がる。

「ここまで再現度が高いなら、信じざるを得ない。……ならもう、やる事は一つ。ボクのお兄さんに対する愛敬を全て君にぶつけて、失意のどん底に叩き落とす……。お兄さんには悪いけど――二度と筆を握れないように、トラウマを植え付ける……っ」

 改めて、神門は筆を強く握りしめ、

「才能が違うと――ボクの方がお兄さんの隣に相応しいと、思い知らせます……っ!」

 嫉妬心を筆先に収縮し、半紙と向き合った。

 ――闇を包む、神の光明。

 神門明音――雅号「包光」。

 中学三年生という若さでありながらベテランの書道家達から一目置かれ、次世代の書道界を牽引するに十分な実力と実績を兼ね揃えた天才少女。

 特に線の細い字を書く才能に長け、世間では「精細な天才」と称される。

 階級は僕と競い合っていた頃から順調に上がり、今では中学三年生にして《日進書道》で二番目に高い《研級師範》に位置していた。

 表舞台での彼女は輝かしいプロップスを持ち主――が、裏での神門は、歪な感情に心を蝕まれた危うい一面も持ち合わせている。

 ネット上の神門ファンは、彼女の事を「鮮血の天災」と語る。

 《煤咲教室》に移動した際、彼女の現状についてスマホで調べてみたが、どうやら彼女が「鮮血の天災」と謳われるようになる経緯には、僕の存在が絡んでいるらしい。

 現役時代、僕は自分にしか書けない表現を模索し、模写よりも「自分らしさ」を追求した書道を心がけていた。

 神門は元々、模写を主軸として精密な字を書く事に長けていたのだが、僕の考え方に感化され、僕が引退したと同時期に彼女は自身のスタイルと向き合った。

 そして、書きたいように書いた結果――「血」で半紙を色付けたのだ。

 大会や表向きのSNSでは王道的な字でフォロワーを魅了する一方、承認された者しか見る事の許されない裏アカでは、彼女本来の危うさを感じられる。

 最愛の人を引退にまで追い込んでしまった後悔と、ついに見出だした「自分らしい」書道のスタイル――自己嫌悪と自己顕示欲の狭間を、体内を駆け巡る自身の「血」を用いて表現した。……と、神門自身が過去のインタビューで語っている。

「……書き終えた」

 瑠奈ちゃんが硯に穂先を乗せ、そっと両手を膝に置く。

 そんな中、数秒遅れてスタートした神門は、未だ半紙の上で筆を進める。

 過半数以上が神門の書く字をまじまじと見物していたが、他数名の瑠奈ちゃんに向けられていた視線までもが、いっぺんに神門の方へと集まった。

 有名な書道家が生で文字を形作っていく姿に、誰もが関心を寄せている。

 今の神門は、僕が知る神門ではない。

 実績もさる事ながら、実力も数年前とは比べ物にならない。

 形は歪だが模写ではなく、自分自身の書風を持つようになった神門の字は、過去の「型に縛られた文字」とは根本から変わっていた。

 たとえ今書いている字が基礎に則った変哲のない「普通」の字であったとしても、研ぎ澄まされたオリジナリティは、熱として作品に染み込んでいく。

「完成しました」

 顔を左右に振ると、黒髪のツインテールが跳ねるように舞う。

 集中が完全に途切れない程度に緊張を緩め、神門は右手の筆をそっと置いた。

 パチパチ、パチパチパチパチ――と、自然と拍手が沸く。

 瑠奈ちゃんの才能を目の当たりにした観戦者達は、神門明音と対等に競い合った彼女を称賛する。書道という芸術に真摯に取り組む瑠奈ちゃんが、評価されたのだ。

 と――そんな甘い話があったら、どれほど幸せな事であろうか。

 教室中を埋め尽くす、いつまで経っても鳴り止まないようなクラップ音は――瑠奈ちゃんに対してではなく、神門明音へと送られたものだった。

 瑠奈ちゃんに向けられた拍手があるとすれば、それは憐れみの音である。

 彼女の書き上げた完璧に近い「四字熟語」を――瑠奈ちゃんの得意とする楷書を自ら選択し、同じ舞台に立って神門は実力で捩じ伏せた。

 瑠奈ちゃんが失敗したのではない。むしろ昨日より、字の精度は上がっている。間違いなく、今の瑠奈ちゃんのベスト――だが、出し切ってさえも神門には勝らない。

「それじゃあ、一戦目の勝敗をつけまーす。顔を俯せて、『良かった』と思う方の名前が呼ばれたら、手を上げてくださーい」

 甘ったるい声で、母さんが場を仕切る。

「まず、金城瑠奈ちゃんが良かったと思う人ー? ……はい。次、神門明音ちゃんが良かったと思う人ー? ……うん、それじゃあ、手を下ろして顔を上げていいですよー」

 僕、嘉穂、親父の三人と書き手の二人、仕切りである母さんは公平性を保つためにどちらに投票する事もできない。

 そうとなれば、結果は火を見るよりも明らかだった。

「票数は二対十三……一戦目は、神門明音ちゃんの勝利でーす」

 瑠奈ちゃんの大敗――実に呆気なく、彼女の健闘は圧倒的な障壁を前に苛まれる。

「……だめ、違う……ここは……」

 聞き取れないほどに小さな声量で、瑠奈ちゃんは長々と独り言を呟く。打開策を練るように、神門の書き上げた「四字熟語」を注視していた。

「……まだ、戦うつもりですか?」

 大差をつけて勝利した神門は、冷たい視線で瑠奈ちゃんに問う。

「まだ私は、一度しか負けてない。次で勝てば、三戦目にもつれ込める」

「あれだけの差をつけられたのに……まだ、身の程を理解できないんですか?」

「ううん……私の実力があなたに負けてる事は、重々承知。……けど、決着がついていない限り、結果は変えられる」

「度が過ぎた真面目なのか、単なる夢見がちな妄想族か……。試合中に実力が急上昇するなんてフィクションじみた成長、現実では望めないです。……練習でできない事が本番で急にできるなんてありえない。それこそ、奇跡でも起こらない限り」

「なら、奇跡にすがる」

「……そうですか」

 神門は「二戦目を始めてください」と母さんに促し、瑠奈ちゃんに視線を戻す。

「だったら――次で、仕留めます」

 再び、筆を手に取った。

「次はあなたの番。……書く字を、選ぶ権利」

「それじゃあ――『貫之』で。お兄さんの漢字は分かりますよね?」

「分かった。ルールはさっきと同じでいい?」

「構わないです」

 どうやら、次のお題は『貫之』になったらしい。まさか僕の名前を選ぶとは思わなかったが……考えてみれば、神門らしいチョイスとも言える。

 互いが下敷きに半紙をセッティングすると、合図と共に二戦目の競書が開始した。

 真っ先に筆に墨を含め、神門は穂先を投下する場所を慎重に選ぶ。だが、瑠奈ちゃんはまだ筆を持たない。

 一戦目と立場逆転――今回は瑠奈ちゃんが、書き始めるまでの間を置いている。

 ひらひらと宙を揺れる神門の筆の動きを観察し、その瞬間を待つ。

 寸分の狂いもなく脳に刷り込ませ、瑠奈ちゃんは極限まで緊張状態を高めていた。

 ああ、そうだ……今できる最善は、間違いなく「それ」だけだ。

 瑠奈ちゃんはこれまでに、僕の前で「貫之」という字を練習した事がなかった。

 現状、彼女は「模写」か「的確な指導を受けるか」の対策を取らなければ、クオリティの高い字を書く事ができない。

 正直なところ、練習の行き届いていない瑠奈ちゃんの字は壊滅的と言っていい。だとすれば――今やるべき対処は、一つだけ。

 瑠奈ちゃんも、僕と同じ戦略を企てたようだ。


 完全即興での、神門明音の作品模写。


 これが瑠奈ちゃんに残された、たった一つの戦い方となる。

 この模写が成功すれば、付け焼き刃ではあるものの神門の字と同等のクオリティを形にできる。勝利とまではいかずとも、神門の戦績に傷を残せる。

 素人の悪足掻きとはいえ、それだけできれば上出来だ。

「……まぁ、そうするしかないですよね」

 しかし、神門は瑠奈ちゃんの……僕達の策略を見透かしたように、

「良い小細工を思い付いたみたいですけど――愚策でしたね」

 そう断言した瞬間。

 瑠奈ちゃんの視線を振り切るように、神門は行動に出た。

「「――ッ!!」」

 素早いながらも洗練された筆の動き――筆先から伝わる熱に、僕と瑠奈ちゃんは思わず身震いしてしまう。

「あなたのスタイルはよく分かりました。作品の模写――書道ではなく、書道ごっこ。芸術からは程遠い、学校の授業レベル」

 神門は筆先を自在に操りながら、瑠奈ちゃんを厳しく批難する。

 そんな神門の鬼気迫る演説に彼女はたじろぎながらも、筆の動きからは目を逸らさずに、模写の構成を頭に叩き込む。

「数百年前の偉大な芸術家が書き上げた作品は、見る人を虜にします」

 瑠奈ちゃんは筆を強く握り、目の前で書き上げられていく文字の模写に移る。

「その作品に魅了され、感化された人々の中から、オマージュ、パクリ、見本として『似た』作品を制作する人達が少なからず現れます」

 神門のスピーディーな筆遣いから生じる掠れや線の繊細さまでをも再現しようと、瑠奈ちゃんの手も自然と早まっていった。

「たとえその模写作品が長い年月を経て発見されても、価値はほぼ付かない」

 筆先に全神経を注ぎ、必死に神門の字を後追いする瑠奈ちゃん――だが、彼女の筆の動きは、次第に減速していく。

「だとしたら理由はどうして? 達者な模倣作品でも、評価されない理由は?」

 ここに来て、僕は俯いた。

 瑠奈ちゃんの姿に、唇を噛んで悔やむ事しかできなかった。

「理由は単純――コピー作品だから。模写は、オリジナルを越えられない」

 神門のスタイルは、過去のものとは大きく異なる。

 基本に忠実な模写スタイルから一皮も二皮も剥け、正しく『自由』となっている。

「ボクの書いた『本物』を君がいくら上手く真似ても、付加価値は一切望めない。……結局、『偽物』では勝らないんです」

「――――っ」

 基礎を踏まえた上での変幻自在――半紙の上を跳ねるような、軽やかな書体。

 一角一角のタッチに過剰なまでの緩急が付けられ、見る者を惹き寄せる。

 字の原型を露骨には崩さず、あくまで自然体のまま字を躍動させる魅せ方。

 僕に考えられる限り、最も理想的なバランス――僕の書道に影響を受けた彼女は、僕から学び得た技法を自分に合うよう改良し、我が物として伸ばした。

 天才が磨き上げて熟れさせたスキルを相手に、付け焼き刃で太刀打ちができるほど、現実は甘くない。特に楷書以外の練習経験がない瑠奈ちゃんには、荷が重すぎた。

 いくら模写が得意であろうと、神門の変幻自在な書体を即興で真似るほどの実力は、今の瑠奈ちゃんにはお世辞にもない。

 後ろを追跡する事すら許されず、瑠奈ちゃんの筆は書き始めからわずか四角目で、振るい落とされていた。

 極限まで高めた集中力も、圧倒的な実力差の前では疲弊するのみで無力に等しい。

 手元は狂い、瞳も霞んでまともに神門の字も頭に刻めない。

「…………は、ぁ。……く……っ!」

 それでも瑠奈ちゃんは、集中力と体力の底を掘り起こし、神門のフィニッシュから三分ロスして、筆を置いた。

 腕と胴体の震えを抑えるように、拳を固く握って膝に乗せる。

「三つ目のお題をこなす前に、勝負がつきましたね」

 言わずもがな、結果は神門明音の圧勝。

「……分かりません。どうしてお兄さんが、この子を生徒として認めたのか」

 だが、神門は勝利を収めても喜びを微塵と感じない。むしろ冷静さを欠いていた。

「いくら頼まれたから、友人の妹だから……そういった理由を前提においても、理解できない……。どうして、どうして……どうしてどうして……っ!」

 瑠奈ちゃんは悔しさのあまり、言葉を失っている。

 微動だにせず、ただただ俯き続けていた。

 正座した彼女の脚には、大粒の涙が溢れている。

 そんな自身の受け持つ生徒を前に、僕は申し訳なさと責任の重さに堪え切れず、神門に対しての反論も、瑠奈ちゃんに対しての慰めの言葉すらも投げかけられない。

 顔を少しだけ上げて、瑠奈ちゃんの作品を視界に入れる。

 半紙に書き上げられた「貫之」という二文字。

 散り際の線香花火のように、まるで覇気が感じ取れない。

 型さえも歪で見るも無惨なこの二文字は、腐敗者の僕を表現するには、十分すぎるくらいに良い出来映えだった。

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