第3話 捻くれた秀才

 今日もまた、いつも通りの日常が始まった。

 朝六時半に目を覚まし、朝食にパンとコーヒーで腹を膨らまし、学校に足を運ぶ。授業を受けて、休み時間は友人と喋って、ちょっと暇潰しに本を読む。昼は購買部で焼きそばパンと缶コーヒーを購入し、昼休み後に残る五限と六限のため腹拵えをした。

 そして高校生の最低義務である授業参加の過程を乗り越えた後、書道部部室に重い足取りで赴くのが、僕——煤咲貫之の日課だ。

 淡泊で平和な、変わらない日常。

「ふふふっ……おはよっ、貫之。昨日はご苦労だったねっ!」

 まぁ――ある一人の人物の表情は、いつにも増して笑顔に溢れていたのだが。

 和澄高等学校、書道部部室。

 扉を開けた先に仁王立ちで僕を待ち構え、目が合うと同時に労いの言葉をかけてきた女子高生——金城嘉穂の姿が、そこにはあった。

 太陽の擬人化かと思えるくらいに、相変わらず燦々としている。

「わざわざ出迎え、ご苦労さん」

 戸を閉めた僕は部室の中へと直進し、彼女の肩をぽんっと優しく叩く。さながら部活動で失敗した後輩を慰める、厳しくぶっきらぼうで実は優しい後輩想いの先輩のように。

「何、その態度!? 顔も見ずに挨拶も無視とか、ぶっちゃけありえないっ!」

 聴き覚えのあるアニソンの歌詞を内心懐かしみながら、騒々しい嘉穂の声を無視して部室中央の座席に腰掛ける。学校指定の鞄を部室の隅に放り、制服の襟を正した。

「書道家だったら、せめてもの礼儀作法は大事にしなよっ!」

いや僕、書道家じゃないし。

 高度な技術も深い教養もなく、唯一持ち合わせているのは自慢にすらならない自身が経験した浅すぎる経験談くらいである。

「これだけ言っても無視続行とか、どんだけ神経図太い!?」

 逆に訊きたい。ここまで無視しても喋りかけてくる、その不屈の精神の鍛え方を。

「はぁ……そんなカッカッすんなよ。発情期、もしくは生理中か? 僕じゃ良い助言はできないから、ヤフ知恵に頼る事をオススメするよ」

「さっ、さいってーっ! 貫之のデリカシーなし男! もう知らない!」

 うん、知ってる。だからせめて、今日のうちは大人しくしておいてくれ。僕は一日の疲れを癒すべく、すぐにでも惰眠に興じたいのだ。

「ほんっと、貫之ってさいてーっ!」

 まだ言うか。こいつの「知らない」の効力は三秒と持たないらしいな。それと、その発言はついさっき言っていたぞ。侮蔑ワードのレパートリーが少なすぎやしないか?

「そんな怒るなよ、皺が目立つぞ」

「失礼すぎっ!」

「失言だ。気にするな」

「そこは弁解してよ! 失言じゃ本当に老けてるみたいじゃん!」

「はいはい、スマソ」

「目を見てないし!」

 よく吠えるな、今日は格別に……。やけにテンションも高いし、僕に何か言いたい事でもあったのか? ……仕方ない、寝る前に少しくらいは聞いてやるとしよう。

「僕に何か用でもあったのか?」

「知らないっ! 貫之には教えないしっ!」

「あー、悪いな。今日のお前がいつにも増して眩しかったから、顔すらまともに見られなかったんだ。許してくれよ」

 太陽の擬人化を直で見ていたら、瞳が焼かれそうだしな。

 けど、なんだか自分らしくない事を言ってしまった気がする。聞きようによってはキザでイタイタしいチャラ男だ。……さすがにふざけすぎたか?

「ま、まー。そういう事なら仕方ない……かなっ?」

 満更でもない照れ顔だった。歯痒そうに頬を小指で掻いている。

「で、改めて用件は?」

「え……あ、うんうんっ、用件ね。大した用じゃないけど、妹の件でねっ!」

 やはり妹絡みか……昨日の事もあるし、想像通りの話題だ。

 嘉穂の実妹——金城瑠奈。

 昨夕、僕の母が教室長を務める書道教室に体験でやって来た、無口無表情の少女。

 書道のセンスはかなり高く、将来が期待できる逸材である。

「昨日の夜、貫之が瑠奈を家まで送ってきてくれたじゃん? アタシはお風呂に入ってたから、お礼も顔見せもできなかったけど……」

「別にいいよ、それくらい」

 小学生と日が沈んだ道を二人きりで歩くというのは、なかなかに犯罪臭漂う光景だったと思うけれど……。誘拐犯に間違われて通報されてもおかしくない。

「瑠奈ったら、帰ってきてからずっとご満悦だったんだよ? 珍しくテンションも物凄く高くってさ!」

「テンション高いって……どんなもんだよ?」

「もうグアァーッ、とだよっ!」

 あの無口無表情っ子のテンション高い姿とか、想像つかないぞ?

「盛ってるだろ、その話。九割大袈裟に言ってるだろ」

「それなりにフィクション」

「嘘を吐く意味がまるで分からない!」

 だろうな、って感じだ。

「けど、瑠奈がいつもより感情を表に出していた、っていうのは本当だよ?」

「表に出して、って……それもあんまりイメージ湧かないな」

「ちょっと口角が上がってたし、口数も多かったし。どちらも二割増し」

「それ、ほとんど普段と変わってないだろ……。でも、よくそんな微妙な変化から感情を正確に汲み取れるな……。常人じゃ判別できないぞ」

「いやいやっ、いつも無表情で口数が少ないから、些細な変化が際立つんだよ。きっと貫之でも気付くよっ! ……あ、でも。貫之の前じゃあ照れて萎縮しちゃうから、なかなか素は見せてくれないかもね。可愛いんだよ、笑った時の顔っ」

 笑ったら可愛いとは思うけれど、あの子が笑顔を見せる事なんてあるのか? その顔だって、どうせほんの少ししか通常時の表情と変わらないんだろ?

 たとえ目の前で笑顔を向けられたとしても、僕は気付く事ができるか分からない。どちらかと言えば気付けない寄りだ。

「それにしても瑠奈、本当に昨日は楽しそうにしてたなぁ……。やっぱり、小一の頃からの念願が叶ったからかなぁ……」

「念願?」

「そっ! 瑠奈ね、貫之に書道を教えてもらうのが昔からの夢だったんだよっ!」

「なんだ、そりゃ……」

 僕に書道を教えてもらうのが夢? どういう経緯で当時小一の女の子が、僕のようなプロでもない人間に「書道を教えてもらいたい」なんて想いを抱くようになるんだよ?

「瑠奈ちゃんが小一って事は、僕が小六年の頃だよな?」

「そうなるね」

「それが本当の話なら、瑠奈ちゃんは相当な物好きだ。こんな地味な芸術に興味を持った挙げ句、僕なんかを指導者として希望するなんて」

「それだけ貫之の書道作品が、瑠奈の目には鮮烈に映っていたって事だよっ! 実際、あの頃の貫之はすごかったしね!」

「昔の話をいちいち掘り返すなよ……。僕はすごくないし、センスもない」

「それ、アタシからしたらかなりの嫌味だからね?」

 ケラケラとした屈託のない笑みを、嘉穂は浮かべた。

「そんな書道に興味を持っていたなら、もっと早く教室に通えばよかったのにな」

「それはアタシも提案したけど、瑠奈が『まだ早い』って断ってたんだよ」

「早いって、どういう意味だ?」

「市内の小中学生を対象にした、毎年恒例の『市内小中学生書き初め展覧会』ってあるでしょ?」

 市内小中学生書き初め展覧会――毎年一月末に開催される市内行事。

 対象者は僕達が住む市の全小中学生で、各小中学校から選抜された代表者の作品が二日間、市内の総合体育館にて展示される。

 学校によって代表の選考方法に細かい違いはあるだろうが、僕の通っていた学校では十月の国語の時間、または習字の時間に「市内展」用の作品作りをする時間が設けられ、期間内に清書を一人一枚提出させられていた。

 そこから各クラス一名ずつ代表を選出し、選ばれた者は「市内展」に向けて放課後練習に強制参加となり、学校代表として厳しく作品制作の指導を受ける。

 そして「市内展」の提出期限ギリギリまでみっちりと練習を重ね、それまでに仕上げた作品の中で最も出来の良い作品を一枚、市に提出。そうして集められた作品が総合体育館に展示され、中でも評価された作品は「銀」「金」「特金」と賞を与えられる。

「あったのは覚えてるけど、あんな市が開催してる小さなイベントと瑠奈ちゃんの『まだ早い』って発言に、何の関係があるんだ?」

「校内選考で六年間連続して代表に選ばれたら、《日進書道》に入会して《煤咲教室》に通う……って、瑠奈本人はずっとずっと前から決めてたみたい。恥ずかしかったんだろうね、初歩的な事もできずに、下手なまま教えてもらうのは」

「今の瑠奈ちゃんの学年が六年……という事は、今年無事に六冠して、学校代表に見事選ばれた……と。それで昨日、長年の念願を叶えるべく僕の所に来た、ってわけか」

「そうそう。十二月から放課後残って、『市内展』に向けての作品作りに当たるんだってさ。冬休みにも練習があるみたいだし、大変だよね」

「まぁ、面倒ではあるよな。僕もそう思ってたし」

 事実、僕も小中の計九年間は「市内小中学生書き初め展覧会」の学校代表として作品を毎年度出展していた。冬休みの登校は面倒だと思っていたが、その頃はまだ僕が真摯に書道に向き合っていた時期だったから、練習自体は苦ではなかったけれど。

 中学生の時には書道の意欲が消えていたため、テキトーに作品を仕上げて校内選考に提出したが、それでも代表に選ばれた時は校内のレベルの低さにある意味驚いたものだ。

 放課後の「市内展」に向けた練習会には全て無断欠席し、こっぴどく担任教師からお叱りを受けたのは苦い思い出である。

 書道に大して興味もないのに選考に選ばれてしまった可哀想な奴を数人見た事があったが、それはもうどうしようもないくらいに苦痛の表情を練習期間中ずっと浮かべていた。

 夏と比べて休みが少ない貴重な冬休みの数日間を、学校の見栄のために献上したのだから無理もない。大いに同情してやる。

「瑠奈ったら『市内展』関連がない期間でも、日課としてここ数年間は夜に部屋で黙々と半紙に字を書いてたの。相当、陰で頑張ってたみたいだよ」

 なるほど。と、僕は納得した。

 瑠奈ちゃんが作成した「試し書き」――最初は手元がおぼつかず、決して上手いと言えるものではなかったが、それでも基礎的な事は大方こなせていたのだ。

 少なからず、小慣れていた。センスも悪くなく、呑み込みの早さも尋常ではない。あれは自主練習で鍛えてきた、努力の賜物だったのだろう。

「瑠奈から練習に付き合ってほしいって頼まれる事もあったけど、断るのに毎度必死だったよ……。アタシより上手なんだもん。姉としての威厳が失せるとこだったよ」

「お前に姉としての威厳なんて、元々備わってないだろ」

「え、何それ酷くない!?」

 小学生の妹より落ち着きのない高校生の姉に、相応の威厳があるとは到底思えない。

「あぁー……けど……」

 嘉穂の高揚していた声音が、ふと落ち着く。

 明るい笑顔に影が入り、感情を誤魔化すように微笑を取り繕った。

「瑠奈のテンションがいつもより高かったのは事実だけど、ちょっと残念がってたなぁ」

「僕の教え方が思っていたよりも下手で、ガッカリだったとか?」

「違う違う。教え方はこれ以上ないくらいよかった、って言ってたよ」

 光栄極まりない褒め言葉だ。できれば本人から直接言ってもらいたかったが。

「じゃあ、一体何を残念がってたっていうんだよ?」

「貫之が書いている姿を、間近で見れなかった事だよ」

「……なんだ、そんな事か」

「そんな事って……」

 嘉穂は不満げに、僕の目をジッと見つめた。

「貫之は今後一生、自分で作品を書く気がないの?」

「ああ、作品はな。どうしてもと頼まれれば、テキトーには書くさ。僕はただ自分の作品を公の場に持ち出したくない、ってだけだし」

 人の作品と比べられる辛さ。差別感。劣等感。――二度と味わいたくない感覚だ。

「勿論、瑠奈ちゃんに頼まれれば、筆は握る。あくまで担当の先生として。……まぁ、筆を置いてから何年も経つし、技術面も精神面も全盛期より劣っているけど。小学生に指導する上での参考くらいにはなるだろ」

 嘉穂に「帰ったら瑠奈ちゃんに伝えてくれ」と続けたが、その表情は曇ったままだ。

「《日進書道》に瑠奈ちゃんが今後入会しても、別に僕が書く必要はないだろ? 月毎に《日進》から、課題の手本が送られてくる。そこには文字の書き方とか、役立つコラムが色々と記載されてる。僕は彼女の字を見てズレの指摘をする。それだけでも十分だ」

 それに、彼女には素晴らしい書道の才能がある。さらに、書道に対する想いと意欲も備えている。……ただの凡人。良くて秀才レベルの僕が教えたところで、あっさり僕を抜かして次のステップに移行できるであろう。――それならそれで、構わない。

 僕の拙い技能を全て吸収し、瑠奈ちゃんの技能の足しにしてもらえるなら文句ない。

「どうして貫之は、そこまで頑なに自分で作品を作り上げる事を、拒み続けるの?」

「別に、人に言うべき事じゃないよ。聞いたとこで何一つとして面白味のない、くだらなすぎる思い出話だしな」

 しれっとした態度で、嘉穂の質問を受け流す。

 僕は机上で腕を伸ばし、机に顔を伏せた。

 この空気の悪くなった部室から、夢の中への逃亡を試みる。思えば、元々僕の眠気はピーク過ぎていたのだ。

 目を瞑ってから夢の世界に誘われるまで、そう時間はかからなかった。

 今日の嘉穂は、バツが悪いのか僕の睡眠を阻もうとしてこない。

 ほんの数十秒で僕の意識は、完全に現実から遠退く事に成功していた。


          ☆

 過去の僕は、自分の実力を過大評価していた。

 小さな世界の中で、自身を「天才」だと思い上がってしまっていたのだ。

 大きな勘違いを自分に当てはめていたせいで、それが間違いである事に気付いてしまった時には、反動をもろに喰らってしまった。

 本物の天才に打ちのめされてから、僕の自信は木っ端微塵に踏み潰されたのだ。

 そこから這い上がる意欲も沸かないまま、今もこうして現実逃避を続行中。

 小中学生の頃の僕は、本当に浅はかだった。

 圧倒的敗北を知らないまま、小学五年生で《日進書道》にて初級師範の免許を取得。初級師範昇格後、有名な書道家であった祖父に鍛えられ、小学校時代は《日進書道》内での競書展覧会で、同世代トップを常に独走していた。

 外部の大会でも好成績を収め、年齢制限なしでも大人顔負けの結果を残した。

 書道界に現れた新星――短い期間で業界内にその名前を広げた僕は、「若葉の天才」と異名を付けられ、一部でもて囃されていた。

 その頃からだ……僕が盛大な勘違いを起こしていたのは。

 何度か新聞やネット、テレビニュースでも紹介され、ちょっとした有名人になった。僕も両親や祖父のように、名のある書道家になる事を期待されていた。

 僕自身はさほど書道に思い入れはなく、家系的に流されて始めただけ。

 練習は退屈だったが、それでもそれなりの実力と才能が中途半端にもあったせいで、作品を仕上げて大会に出展する事だけは楽しかった。

 だが――その程度の気持ちで勝ち続けられるほど、芸術の世界は甘くない。


 僕に現実を突き付けたのは――たった一人の少女。それも、僕の二歳下。


 競書大会に突如現れたその少女は、僕に向けられていた賞賛と期待を全て奪い去った。

 一時期は「『若葉の天才』にライバル出現!」と業界内で注目されたが、その実力差は歴然で、ライバルと言われた年下の少女に無惨にも敗北が続く。

 僕が「優秀賞」で、彼女が「最優秀賞」……大会では常に、僕の一つ上をいく。

 同世代に負けなしだった僕には、耐えがたい衝撃と苦痛だった。

 最初のうちは負けずと書道に打ち込み、祖父の指導のもと実力を磨いた。――が、元々僕は書道に執念がない。続く敗北に、嫌気が差した。

 練習をサボる日が増え、大会に作品を提出する機会は次第に減っていった。そして丁度その頃――転機とも言える、災いが起きた。

 幼少期から僕に書道を教え続けてきた祖父が、脳梗塞で亡くなったのだ。

 指導者を失い、僕は自ら筆を置く事を決めた。

 中学一年生の冬——《日進書道》脱会。

 残ったのは《初級師範》として小学生までに書道を指導できる資格と、数多の大会で勝ち得た記録と、一人の少女に敗北を重ねた歴史。

 本物の天才に与えられたトラウマと、書道作品を作り比べられる事の恐怖心だけが、数年経った今でも心の内にずっと潜み続けていた。

 自分の実力を悟った時、人は他者との開き切った埋まらない空白に、絶望を余儀なくされる。僕がそれを知るには、少し時間がかかりすぎていた。

 自分の立ち位置を長く勘違いしていた人間は、本来の立場を知った時、その勘違いした時間に比例するように過度なショックを受ける。

 僕は自分の実力を思い違いする期間が長かった――だからこそ、今、再起不能になってしまったのだ。もて囃されていた実力を、あっさりと抜かされてしまったから。

 ……思い出したくもない過去に、こうして魘される事がたまにある。

 寝る直前まで、嘉穂がこの話題について話していたからだろう。

 夢の中でまで回想させるとは、何とも忌々しい執着を含んだ記憶だ。

 忘れたい記憶――だが、そう簡単に忘れられるほど、現実も夢も甘くはなかった。


          ☆

「貫之……なぁ、貫之。早く起きろ、起きるんだ」

 机に伏せて眠りについていた僕を、誰かが呼んだ。

 夢の中にまで浸透してきた声によって、僕の意識は現実世界に引き戻される。

「おお、やっと起きたか」

 寝起きで視界が霞み、まともに声も聞き取れない。

 ただこの声……嘉穂ではないようだ。辺りを見渡すと、流し台の方で筆を洗っている彼女の姿がぼんやりと映った。

「おはよう、貫之。良い夢は見れたか?」

「……悪夢だったよ」

 ゴシゴシと目蓋を擦り、僕の寝顔を覗き込んでいる人物を確認するや否や、

「うわ……部室に不審者かよ。まだ悪夢の中か……」

 再び机に突っ伏した。

「おいおいおいおい! 何だ、その雑な反応は!」

 と、不審者は机をバシバシと激しく叩く。

 僕は不満をあらわにした表情で上半身を起こし、その人物を睨み付けた。

「顧問であり父親でもある目上の人を前に、悪夢と認識する子がどこにいる!」

「うるさいな、クソ親父。立派に教師面してるなよ……」

「クソ……くっ、クソとは何だ!?  俺がクソって事はあれだぞ、俺の子であるお前は、ウンコの子って事になるぞ! ウンコから生まれた子供だから、ウンコのウンコだぞ!?」

「小学生の口喧嘩かよ……」

 学校内だというのに私服に限りなく近い年期の入った純白のオーバオールを着こなす三十代後半男性。服の正面には自分が芸術家……いや、書道家である事を誇張でもするかのように、墨の跳ね跡をベッタリと染み込ませていた。

 煤咲望行――和澄高校の書道教師で、書道部顧問。また、僕の父親でもある。

 温厚な性格も相まって、財布の紐と股間の竿を妻に握られっぱなしの情けない親父だ。

 そんな親父は意外な事に、書道業界では名が知れた人物である。

 世に出した作品の中には一枚数万円の値が付くものもあり、SNSを利用して自身の作品や作業風景を随時更新、ファンとの交流も怠らない。

 僕と同じくすでに脱会しているが、高校に就職するまでは《日進書道》に所属して、その腕を日々磨いていた。

 元々の段数は《八段》で、《総統師範》の階級を得た逸材――最高段位である《伝承師範》の一つ手前に属する実力である。

 それに《八段》という段数は、《日進書道》の段数制度では最高峰だ。

 僕の階級が《初級》で、姉貴が《高級》、母さんの階級でさえもが《研究師範》……いずれも正直、親父の階級とは比べ物にならない。

 ゲームのキャラはレベルが上がるごとに、次のレベルに上がるのに必要な経験値量が増していく。それに似て、《研究》から《総統》に昇格するのは容易な事ではないのだ。

 とはいえ、きっと今の親父の手腕なら《総統師範》から《伝承師範》に昇格する事はさほど難しくないだろう。

 親父は《伝承師範》に昇格するのに十分な実力を、以前から備えていた。が、彼は特別認定試験を受ける一歩手前で、《日進書道》を脱会のだ。

 何とも勿体ない話である。《伝承》は生涯書道に励んだとしても、達成できる人がほとんどいない。三十代後半という歳でここまで到れたのは、並大抵の事ではないのだ。

 こんな廃部寸前の書道部の顧問を務めているなんて、親父の素性を知る者からしたら違和感しかない。当の本人は今の生活に満足しているらしいけれど……かなりの変人だ。

 まぁ、その話は一旦置いておいて――――

「一線で活躍できる一流の書道家なんだから、そういう汚らわしい単語を連呼するのはよせよ。箔が落ちるぞ」

「た、確かにそうだな……」

 親父はあっさり、僕の発言に納得した。

「いやぁまさか、今でも貫之が俺を一流と思っていたとはなぁ……。嬉しいもんだ!」

 あからさまな皮肉を理解できず、ニマニマと満足そうに笑う親父につい溜め息が出る。

「んで。一体何の用だよ、親父」

「学校では先生、だろ?」

「……親父先生」

「親父先生って……頼むから変なアダ名を付けないでくれよ……。最近その呼び名、俺の持ってるクラスの生徒達もマネするようになってきたんだぞ?」

「え……僕、友達やクラスメイトの前で『親父先生』なんて呼び方をした覚えはないんだけど。……そもそも、これが僕の父親だなんて周囲に知られたくないし」

「おいおいおい! それはどういう意味だ!?」

「あ、親父先生。そのアダ名広めたの、多分アタシ……。友達とかの前でも、結構その呼び方しちゃってたから……」

「元凶は嘉穂ちゃんかい? ……生徒からは親しみを込めて呼んでもらえてるから、別にいいけどさ……」

 親父は「影で悪口を言われてる先生にはなりたくないし」と、笑ってみせた。

 まぁ、クラスで人気者の嘉穂が「親父先生」だなんて呼び方をしていたら、それが浸透するのは時間の問題だよな。

 嘉穂とクラスは違うが、僕の周りでも彼女は男女問わず多くの生徒から好印象を抱かれている。それだけ、彼女の影響力は凄まじいという事だ。

「……本題に戻るぞ、親父先生」

「その呼び名は固定なのか……」

「どうして今日、部室に来たんだ? 普段、滅多に顔を出さないくせに」

「言われてみれば、確かにこの部室に来るのも久しぶりか……。いやいや申し訳ない。山積みになった教員としての仕事が、なかなか消化できなくてね」

「それで、その仕事とやらをやり切れたから、この部室に暇潰しに来たと?」

「暇潰しとは失敬な。仕事の合間を縫って、君達を献身的にサポートするために俺は来たんだよ。ほら、仕事は根詰めすぎてもミスを及ぼすだけだし」

「……て事は、まだ仕事すら終えてないのか」

「そゆこと」

 ケロッと開き直りやがったぞ、この男。

「けど、その仕事よりも今は重視すべき『仕事』があるんだよ。貫之と嘉穂ちゃんにも関わる事だから、こっちを優先したってわけさ」

「アタシ達に関わる事……ですか?」

「うん。迫っているんだよ、あのイベントが」

 親父は俯いて、きまり悪そうにそう呟いた。

「……ああ! 文化祭ですかっ!」

 嘉穂が答えに辿り着いてから、僕は数秒遅れて「あーぁ」と気だるげな声を漏らす。

 和澄高校では毎年十一月の第二土曜と日曜が、文化祭の予定日となっている。

 今日は第一金曜日――八日後が文化祭当日となる。

 おそらく親父の「仕事」とやらも、文化祭関連だろう。

 文化祭まであと数日となった今、どのクラスも自習時間や休み時間、放課後を用いて模擬店の装飾作りに励んでいる。

 その他にも部活動の出し物準備、ステージ発表の練習等、生徒それぞれが自身のすべき事に勤しみ、学校全体が文化祭ムードに覆われていた。

 今頃は僕の教室でも装飾作りが行われているはずだが、参加は任意である。しかも参加者の過半数はクラスで普段から目立っている所謂「陽キャラ」達だ。

 目立つ事を好まず日陰に居続ける僕にとって、教室は居心地最悪の場と化している。

 クラスへの思い入れもないから、準備に参加するつもりはない。文化祭当日は担任や文化祭実行委員の指示に従って、任された仕事を真っ当すれば問題ないだろう。

「ところで嘉穂は、文化祭準備に参加しなくていいのか? 確かそっちのクラスはからあげ屋をやるとか、前に言ってたよな?」

「ああ、いーのいーの! アタシは買い出し班だから、しばらく仕事ないんだっ。あとは当日に客引きするだけだしねっ!」

 学校内での顔も広いし、嘉穂の役職が客引きというのは適任だな。

「んで親父。その文化祭がどうかしたのか?」

 本題に戻し、僕は未だ俯いたままの親父に質問を投げかけた。

「ああ、それが……今さっき校長に呼び出されてしまってだな……」

 親父の口調から、呼び出し内容の深刻さがヒシヒシと伝わってくる。

「ほら……今のこの書道部、二人しか部員がいないだろう? このまま部員が集まらなかったら、お前達が卒業と同時に、書道部は廃部させられてしまうかもしれないんだ」

「ええっ! 大変じゃないですかっ!」

「ああ……超大変さ。部員を集めないと、この書道部の将来はないんだ」

「……で、廃部の件と文化祭とで、何の関係があるんだよ?」

 親父は再び顔を上げ、僕と嘉穂を交互に見つめると、ゴホンと咳払いする。

「そこで――だ。君達二人には、書道部として大々的な宣伝になるパフォーマンスを、文化祭当日にやってもらいたいと思ってる」

 ……は? 何だって?

「そのパフォーマンスって、具体的にはどのような?」

当然の疑問を、嘉穂が口にした。

「そりゃあもう、歌って踊って書いて弾けての、ミュージカルを取り入れた書道だよ」

「全然分かんない……」

 嘉穂はピンと来ていないようだが、僕は親父が何を考えているのか、手に取るように分かった。僕は目を細め、親父に視線を向ける。

「ちょっと待てよ、親父先生。まさか……本気で言ってるのか?」

 親父が考えている事……それは体育館等の広いスペースを使い、流れる音楽に合わせて通常サイズとは比にならない巨大な紙に、これまた大きな筆を大胆に扱って揮毫する、書いている姿をも観客に「魅せる」近代的な書道の形――所謂、書道パフォーマンス。

 高校書道部の日本一を決める「全国高校書道パフォーマンス選手権大会」という公式大会も存在するまでに、この書道パフォーマンスの認知度が高い。

 大会の正式ルールは高校書道部員、合計十二人以内を一チームとして、縦四m、横六m四方の巨大な紙を用いて行われる。

「明らかに間に合うはずない。今から練習したところで」

「いーや、頑張ればできる!」

「精神論やめて、現実的に考えろよ。明日から練習を始めるとして、本番まで数日。そんな短期間で、全てがまとまるとは到底思えない」

 振り付けや書く内容を決める他に、肝心の書道練習――書く環境が違う上、紙も筆も書き方も通常の書道とは異なり、慣れるまでに相当の時間がかかる。

 そもそも僕は、そんな文化祭のような目立つ場で書道などやりたくない。……が、書道部として嘉穂や親父と共に作品を合同制作するなら、渋々協力する。

 とはいえ、課題は山積み。僕と親父は以前から様々な筆を扱っているし、何とか順応はできるだろう。……しかし、嘉穂はどうだ? 筆を握ってまだ二年も経っていない。技術もさほどなければ、お世辞にも突出したセンスがあるとは言いがたい。

 公式大会ではどの学校も、何ヵ月もの練習と調整を重ねて本番に臨む。大会並みに完璧なものを求めていないにしても、付け焼き刃では完璧の半分も満たす事はできない。

 それに今回のパフォーマンスは来年以降の新入生に向けた宣伝目的のものだし、生半可な仕上がりではかえって印象が悪くなる。

 まぁ、書道パフォーマンスに興味を示す物好きな中学生がどれほどいるかは、語るまでもなく少ないだろうけれど……。

「……アタシ、やってみたい……っ!」

 だが、そんな僕の困惑とは裏腹に、嘉穂は前向きにも「文化祭でのパフォーマンスをするかどうか」という問いに、イエスの回答を出した。

「本気かよ、嘉穂……?」

「だってお祭りだよ? 折角なら、とことん楽しみたいじゃん!」

「うんうん、嘉穂ちゃんならそう言ってくれると思ってたよ!」

 楽観的だな、本当に……僕の周りはどいつもこいつも。

「紙や筆、小道具は俺が用意する。うちの倉庫を今日帰ったら探しておくから、明日の部活動の時間に本番で使う曲とダンスの振り付けを話し合おう」

「ダンスと言っても、そんな本格的な事はできないぞ」

「大丈夫、大丈夫。最初から貫之には期待してないよ」

「はぁ!?」

 親父の発言に、僕は思わず怒りの声を上げる。

 心外だ。僕の体育の成績はそこまで悪くない。アクロバティックな動きも……うん、ロンダートとかハンドスプリングぐらいならできるぞ、不恰好だけど。

「任せておいて、親父先生っ。アタシこう見えて、ダンスは得意だからっ!」

 嘉穂に任せておけば大丈夫か……。悔しいが運動能力において、嘉穂は僕の圧倒的上を行く。彼女なら片手倒立やウェブスター、コークスクリュー辺りの高難易度な技であっても、軽々こなしてくれるだろう。体操部やダンス部泣かせだ。

「それじゃあ、今年は書道パフォーマンスだけをやって、去年まで出し物にしていた作品紹介や書道体験とかはやらないのか?」

「いや、勿論やるよ。書道パフォーマンスで観覧者の心をグググッとわし掴んだ後に、我が部に関心を持った中学生を部室に連れ込み、書道体験、有名書道家の作品紹介、部員の手がけた作品達を見てもらう! さらには、即興の競書大会を開催して場を盛り上げる! 部室はアツい闘技場と化し、全員を書道の墨沼にまんまとハメてやるんだ……ッ!」

 競書とは提示課題を参加者が書き上げて、優劣を付ける勝負事――これも毎年文化祭で行われてきた、恒例行事である。

 無論、書き手は親父と嘉穂で、僕はジャッジ役に専念するつもりだ。たかが文化祭ごときのお遊戯会で他人の作品と競い合うなんて、不毛極まりない行為をしたくはない。

「……よし。伝えるべき事は伝えたから、俺は職員室に戻るかな。宿題として明日までに、書道パフォーマンスの詳細について各々考えておくように! アディダス!」

 「それを言うならアディオスだ」という冷静な僕のツッコミには聞く耳も持たず、親父は颯爽と部室を去っていった。

 こうして僕と嘉穂の書道部としての出し物は、「書道体験講座」「即興競書大会」「書道パフォーマンス披露」「有名書道家の紹介展示」「書道部部員の作品展示」に決定。

 必要課題と当日の業務が山積みとなり、今日から数日間、苦痛と隣り合わせの忙しい生活が始まりそうな予感がした。

 僕の求める安息日は、まだまだ先となるらしい。


          ☆

「おっじゃま、しまぁーすっ!」

「近所迷惑だから声を抑えろ」

 嘉穂を連れて家に帰ると、彼女は異様に高いテンションで玄関の扉を勢い良く開いた。

 昨日に続いて、嘉穂が僕の家――改め《日進書道——煤咲教室》にわざわざやって来た理由は、たった一つ。

「あっ、やっぱ来てた!」

「…………姉さん」

 教室の襖の先には、嘉穂を「姉さん」と呼ぶ一人の少女――金城瑠奈。

 太陽のように明るい性格の嘉穂とは反対に、物静かでお淑やかな雰囲気の、縁の細い丸メガネが印象的な黒髪ボブヘアーの女子小学生。

 そんな彼女は教室の隅の席でお行儀良く正座をし、今まで読書に耽っていたらしい。落ち着いた色合いの私服も相まって、小学生とは思えない大人っぽさを感じる。

「……せんせー、どうも」

 本に栞を挟んでから、瑠奈ちゃんは律儀に頭を下げた。

「うん、こんにちは」

 僕は不馴れなりに笑顔を繕い、挨拶を返す。

「……で。瑠奈ちゃん一人を教室に置き去りにして、母さんは一体どこに?」

 眉間に皺を寄せながらも笑顔を保ち、瑠奈ちゃんに問う。

 客人を放ってどこにいるんだ、あの楽観主義の教室長は。

「……教室長は私のママと、外に出かけた」

「え、出かけた……? 瑠奈ちゃんのお母さんと……!?」

 驚いた勢いで横に立っている嘉穂に視線を向けるも、彼女は「何も知らない」と言わんばかりに首を傾けながら大袈裟に肩を竦めた。

「あぁー、ユキ君。帰ってきてたんだぁ」

 襖の向かいにあるもう一枚の襖が、音も立てずにゆっくりと開いた。

「まぁ……さすがに一人にはしてないか」

 そこに現れた声の主――姉、煤咲歌余。

 羊毛筆をモチーフとした柔らかな白髪に、胸元に「煤咲」と刺繍された弟の高校指定ジャージを身に纏った現役の書道専門学生。

 湯気の立っている湯飲みを二つ載せたお盆を持ちながら、彼女はぺこりと会釈する。

「お邪魔しております! あと、妹がお世話になっておりますっ!」

「やぁやぁ、嘉穂ちゃん。こちらこそ、いつも弟がお世話になってるね。それにしても、高校生なのにしっかりしていて本当に偉いなぁ」

 深々と丁寧にお辞儀をする嘉穂に、姉貴は感心を言葉にする。

「これなら、ユキ君の下の世話も安心して任せられそうだよ」

「おい痴女姉貴! いきなり下ネタをぶっ込むなよ!?」

「? えーと、ははは……任せてください……っ?」

「嘉穂も分かってないのに理解したフリをするなよ!」

 僕としてはこの状況に、全く安心できない。すぐ側に小学生がいるのだから、少しは自重してほしいものである。

「……ところで姉貴。母さんはどこに行ったんだ?」

「ありゃー? ママがいないと寂しいんでちゅかぁー?」

「なんだよ、そのアホな小学生の安っぽい煽りみたいなの……」

 この歳になるとムカつくというより、相手が憐れに思えてくるな。

「ママはね、さっきまでこの教室で嘉穂ちゃんと瑠奈ちゃんのママさん……略して『かほるなママ』と、入会手続きの話をしてたの。その後、二人で仲良く買い物に行ったよ。だから代わりに、お姉ちゃんが瑠奈ちゃんの面倒を見ていた……ってわけ」

 なるほど、手続き関連で瑠奈ちゃんは親と一緒にここに来ていたのか。

 それで買い物ついでに、瑠奈ちゃんをここに預けていった――と。

 金城家と煤咲家の家族間での付き合いというのも、母親同士が同級生であった事が元々の始まりだ。偶然にも僕と嘉穂が同じ時期に出産された事もあって付き合いがより親密になり、僕達も親同士の影響で幼少期から長い時間を共に過ごしてきたのだ。

「それにしても『かほるなママ』って……略してはいるけど、すごく言いづらい呼び名だな。文字数多いし」

「えぇ……だったら、嘉穂と瑠奈の頭文字を取って『かるママ』とか? これじゃあ『童貞狩るママ』の略みたいで、下ネタっぽくない?」

「あんたの思考回路はどうなってんだ!?」

「だとしたら、『かほるなママ』から『か』を抜いて『掘るなママ』? それはそれで下ネタだし……。あ、今の『抜いて』は下ネタじゃないよ?」

「瑠奈ちゃん、頼むからこいつみたいにはなっちゃダメだぞ?」

「…………うん」

 瑠奈ちゃんは小さな声で、大きく一度頷いた。

「やぁー、その対応は二人とも酷くないかぁー?」

 酷いのはあんたの脳みそだ。頭が正常か、医者に一度見てもらった方がいい。

「ねぇー、ユキ君? そ、れ、に、し、て、も、さぁーあ?」

 姉貴は手に持ったお盆を瑠奈ちゃんが座る手前の長机の上に置くと、腕をぶらぶらと左右に揺らしながら、僕のもとへと寄ってきた。

 嘉穂は姉貴を避けるようにして、瑠奈ちゃんの座る席へと退く。

 そして、姉貴はまるで思春期真っ只中の女子が友達に、「好きな男子は誰か」と問い詰める時のようなニマニマとした卑しい表情を僕に向け、

「ユキ君は一体、どっちを狙ってるんだい?」

「はぁ……?」

 彼女は左手を口の横に添えて、金城姉妹には聞こえないよう僕の耳元で囁く。さらには僕の腕に自身の右腕を絡め、たわわに実った胸をぐりぐりと押し付けてくる。

「客人の前だぞ、やめてくれ……」

「まぁまぁ、つれない事は言うなってー?」

「目の前に善良な小学生もいるんだから、場を弁えてくれよ……?」

「へーきへーき、これも姉弟のスキンシップの一環でしょ? 家庭によってスキンシップの方法は違うんだからさ」

「そうかもしれないけど……」

「金城姉妹だって、家ではイチャイチャ百合ごっことかして遊んでるかもよ?」

 その情景が頭を一瞬過ったが、あまりに現実と掛け離れたイメージだったので、僕はすぐ正気に戻れた。

「で……さっきの『どちらを狙っているか』っていうのは、どういう意味でだよ?」

「勿論、セフレとして」

「せめて『彼女として』であってほしかったよ……っ」

「ああ、ミスったミスった」

 絶対にわざとだ。

「それで、結局は誰を狙っているのさぁー?」

「いや、誰も狙ってないって」

「瑠奈ちゃん? 嘉穂ちゃん? それともお姉ちゃん?」

「しれっと自分まで含めんな」

 姉のアホさ加減に、大きく溜め息を吐く。

 彼女候補として同級生の嘉穂を狙っているなら、世間的にもまだ納得できるだろう。だが、瑠奈ちゃんと姉貴を選択するのはありえない。小学生を彼女候補にする高校生は、限りなくアウトに近い。犯罪者予備軍のレッテルを貼られるのは御免である。

 姉貴を選択するのは勿論ダメだ、常識的にも。

「姉貴、そろそろ離れてくれ。同級生と自分の生徒にこんな醜態を見られているのは、気分の良いもんじゃない」

「おっ、意外な発言だねぇ。てっきり『先生』っていう役職をユキ君は認めないと思っていたけど。案外、あっさりと受け入れたんだね」

「小学生の……それも、嘉穂の妹からの直々に頼まれちゃな。一応、僕が専属の指導者として面倒を見る事にしたんだ」

 今後、自分で作品を書き上げる意思は毛頭ない。そんな意欲は毛の一本ほども湧いてこない。時間がいくら経っても、それだけは言える。

 姉貴の上半身を引き剥がして、距離を取る。

 天井を見上げて「ちぇー」と唇を尖らし、当て付けのように不貞腐れた仕草をわざとらしく僕に見せ付けながら、襖にまで彼女は足を進め、

「そんじゃ、うちは部屋に戻るよ。友達同士、募る話もあるだろーし」

 と言いながら、空気読めるアピールのウィンクを僕達に送り、ケロッとした表情で廊下に出ていった。閉める間際に「部屋は部屋でも、ユキ君のね」という余計な聞きたくもない情報を一言付け加えたのは、今は無視しておくべきだろう。

とはいえ、この場から去ってくれたのは正直ありがたい。姉貴が近くにいては、いつどんな馬鹿げた事を言い出すか、気が気ではなかった。

胸を撫で下ろし、金城姉妹が集合する隅の長机付近に視線を移す。

「…………っ!?」

 思わず、僕は身震いした。

 凍り付いたように冷ややかな、黒い瞳――半分目蓋を落とし、ジッと僕を見つめている瑠奈ちゃんの姿が、そこにはあった。

 表情自体は通常時と大して変わらないのに、どことなく不機嫌なのが感覚で分かる。それはもう……軽蔑に近い負の感情が、その瞳には宿っていた。

「見苦しいところを見せちゃったね……」

 瑠奈ちゃんから視線を逸らし、僕は肩を落とす。

 小学生女子にこんな視線を向けられるとは……みっともないばかりだ。

 「あの腐れ痴女が……」と、僕は内心で姉貴への恨みを唱えた。

「相変わらずだね、貫之のお姉さんは……」

 深海のように沈み切った空気に耐えかねたのか、嘉穂は「ははは……」と控えめに笑顔を作って、困ったように頬を掻く。

 この気不味い雰囲気を脱するきっかけとなってくれた事に感謝すると同時に、縋るような思いで僕は彼女の言葉に食い付いた。

「かれこれ僕らが小学生の頃から、成長せず何年もあんな調子だよ」

「成長はしてるんじゃない? 下ネタを選ぶ引き出しは」

「先天性のものだと思う、あればっかりは」

「最も役に立たない才能だね」

「姉貴には早く完治してもらいたいもんだ。低俗用語発言症候群から」

「ほんと、教育に悪い光景を瑠奈にはあんまし見せないでね?」

「……善処します」

 笑っている嘉穂を見ているのが、なぜだかとても辛かった。

 大切な妹を預けた書道教室に癖女が紛れているなんて、可哀想にもほどがある。

「―—ところで」

 僕は胸の前でパンッと手を叩き、話題を切り替えた。

「今日はもう、字を書き終えたのか?」

 僕と嘉穂が帰ってくる以前に、今日の練習は終えているのか? ――と、僕は先生として至極当然な質問を瑠奈ちゃんに投げかけた。

「……ううん」

 無言続きだった瑠奈ちゃんが、その重たい口をようやく開く。

「……今から、書道を教えて」

 そして、本日分の書道指導を要求してきた。

 今は買い物に出かけている金城母を待っているだけかと思っていたが、どうやら見当違いだったらしい。

 僕が高校から帰ってくるのを、瑠奈ちゃんは待っていたようだ。僕からの指導を受けるために、わざわざこの教室で。

「僕なんか待ってないで、姉貴から教わってればよかったのに。性格とか発言はあんなだけど、結構上手いんだぞ」

 それにブランクがある僕と違って、現役で書道専門学校に通っている姉貴の方が、おそらく指導力にも長けているはずだ。

 しかし、瑠奈ちゃんはゆっくりと左右に首を振る。

「……あの乳牛に、教わる事はない」

 いつも以上に小さな声だったが、はっきりと悪口が聞き取れた。……まぁ、無理もないか。卑猥な言葉を連呼してる奴からなんて、普通は教わりたくない。

 にしても、姉貴をやたらと敵視した物言いだな……。瑠奈ちゃんは生理的に、姉貴の性格を受け入れられないのかもしれない。

 そもそも、二人の性格は金城姉妹とは違う形で対照的だ。小学生にしてここまで慎ましく育った彼女が、下ネタ怪人の姉貴と親しくしているところなんて想像もつかない。

 警戒は必然――指導者として敬意を払う方が難しいだろう。

「……それに」

 少し間が開いてから、瑠奈ちゃんはぽつりと声を出した。

「私のせんせーは……せんせーだけ、だから」

「……っ。あ、ああ……そうだな……」

 まっすぐ僕の目を見つめてくる彼女に、僕は思わず目を逸らす。

 口元を制服の袖で隠し、緩んだ表情を急いで隠した。

 ……何でか分からないが、妙な嬉しさが込み上がってくる。

 こんなにも先生愛溢れる生徒なんて、日本中探してもなかなか見つからないだろう。

 しかし……嬉しいは嬉しいし、ここまで慕われているのは誇らしくもあるのだが、どのタイミングでこれほどの信頼を彼女から得ていたのかは、未だに謎である。

 嘉穂から聞いた話だと、僕の書道作品を見て感銘を受けた――という事らしいが、にしても最初から信頼度が高すぎる気がする。

 ただ戸惑いはあるものの……人に求められるのは、存外悪い気分じゃなかった。


 煤咲家一階——書道教室。

 煤咲教室では母さんか姉貴のどちらかが教室にいさえすれば、生徒の教室出入りは基本自由。時間という規則をなくす事で、より手軽に書道に励む事ができる。

 生徒達はこのルールに則って、電話やメールで教室長の母さんと連絡を取り、教室での入れ違いを避けるようにして指導を受けに来ている。

 母さんと姉貴の指導は評判も良く、生徒数は合計六十名を越えるほど。老若男女問わず、朝から晩まで多くの生徒が教室を出入りしている。

 しかし、この指導形態もあって教室の空き状況はてんでばらばら。ほとんど席が空いていない日もあれば、指導者と生徒がマンツーマンの時もある。

 そして今日は生徒の瑠奈ちゃん、指導者の僕、ギャラリーの嘉穂の三人だけ。

 都合の良い事に、昨日今日と二日続けて、瑠奈ちゃんを教えるタイミングで他の生徒は訪れていなかった。別にいてもいなくてもやる事は大して変わらないが、静かな空間で指導に当たれるというのは、個人的にはありがたい話だ。

 彼女の才能は、並みではない。

 その才能を磨くためにも、集中力を極力欠かずに済む環境で練習に励んでほしい。

 煤咲教室に通っている生徒には誰であってもより良い環境で制作してほしいと思いはするが、完全に贔屓ではあるものの瑠奈ちゃんに対してはその気持ちが特別強い。

 指導者なら誰だって、教え子には多少の私情を挟んでしまうはずだ。

「…………」

 ……まぁ、それはそうと。

「な、何これ……この字、どういう事……っ!?」

 嘉穂は瑠奈ちゃんの作品を見た事はあっても、おそらく制作の様子を間近で見たのは初めてだったのだろう。

 瑠奈ちゃんの制作に、嘉穂は大きな衝撃を受けているようだった。

 依然、集中モード全開の瑠奈ちゃん。

 僕と嘉穂は長机を隔てて座り、彼女の制作をじっくりと観察していた。

 長机上に置かれた硯、墨汁、半紙。彼女の手前には新聞紙が広がり、その上には黒の下敷き。そこに用意された半紙を文鎮で固定し、筆を走らせる。

 人に見られていても情緒を乱す事なく、瑠奈ちゃんは惜しみなくその才能を僕達に披露した。

 書き上げられていく字は、昨日と同様に「四字熟語」という四字熟語。

 貫禄すら覚える綺麗な正座――姿勢を崩さず、手本も見ず、まっすぐ半紙に視線を落とし、黙々と書き続ける。

 素人に毛が生えたくらいの実力である嘉穂でさえも、瑠奈ちゃんの技術と集中力に思わず唾を飲んでしまう。

 金城瑠奈の書く作品は――まるで機械のように、緻密なものだった。

「こんな字……高校生のアタシでも書けないって……っ」

「そりゃそうだ。……書道は年齢じゃない。経験と努力と――才能だ」

自分に言い聞かせるように、僕は言う。

「けど、『書き初め展覧会』に出てた去年までの瑠奈の作品は、言い方は悪いけど……こんなに上手くは……」

 ああ、自分でも失礼な事は自覚しているんだな。

「上手いには上手いけど、他の出展されてた小学生と比べて、頭二つ抜けて上手いくらいのレベルだったはず……っ」

「……だとしたら、それは瑠奈ちゃんに書き方を教えていた学校の先生の指導方針に問題があった……って事になるな」

 彼女の利き手は左――昨晩の話、その先生は右手での制作を薦めていたという。

 悪気はなくとも瑠奈ちゃんに合わない方法で指導を行っていたがために、彼女が本来持つポテンシャルを害してしまっていた。

 天性的に学習能力の高い、機械じみた模写スキルを持つ小学六年生の少女。

 瑠奈ちゃんは特殊例……学習方法を間違え、無理に合わない書き方を慣れさせてしまえば、それは悪癖と化して抜けなくなる。

 現段階で改善点が見つかったのは、奇跡的だ。――今の状態であれば、彼女のスタイルはまだ修正が効く。

「……できた」

 完成まで、約六分といったところか……。

 瑠奈ちゃんは書き終えた半紙を、僕に手渡した。

 一言で言えば、上出来。並みの小学生なら修正箇所を伝えるのすら野暮なレベルだ。しかし、この子の場合は違った。

「……まだ、足りていないな」

「ちょっと貫之!? これだけ上手なのに、厳しすぎないっ!?」

 妹だからという忖度はなしに、嘉穂は瑠奈ちゃんの字を「上手い」と認識している。

 ああ、確かにそうだ。僕もそう思う。……だが、まだ足りないのだ。

「……具体的には?」

 瑠奈ちゃんは少し長く間を置いて、真剣な眼差しで僕を見つめる。

 自身の文字を否定された事に対しての不服感からではなく――意欲に溢れた、まっすぐとした瞳で。

「嘉穂の言う通り、上手いには上手い。けれど、これじゃあ進歩がない」

 昨日と同じだ――と、僕は言う。

「昨日教えた書き方に、今日の瑠奈ちゃんは頼り切ってる。僕が教えたのはあくまで、一つの提案なんだ。自分なりに『どこをどうすれば、より良くなるか』を思案する必要がある。……それが、書道ってものだ」

 僕の提案した書き方から脱し、自分の作風に消化してこそ「書」には真価が出る。

 指導者はあくまで補助役であり、全ての主導権は書き手本人だ。

「ゆっくりでいいから、自分の書き方……作風を思い浮かべて、練習に励むんだ。僕もできる限り付き合うから」

「……うん」

 瑠奈ちゃんは悔しそうに……というよりかは、附に落ちたという方が的確だろう。落ち着いた声と共に、コクンと頷いた。

 そんな妹を前に嘉穂は、「瑠奈がこんなに感情を出すなんて……」と、どこか感動したように呟く。それほど、瑠奈ちゃんの様子は普段と違っていたのだろう。

「――で、だ。今書いた『四字熟語』は、復習を兼ねたウォーミングアップ……」

 僕は胸の前で手を叩き、

「今日は、名前を書いて貰う」

 と、新たな課題を瑠奈ちゃんに提示した。

「『名前』を、書けばいい?」

「一応補足するけど、僕の言ってる『名前』は、自分の名前……だから瑠奈ちゃんの場合は、『金城瑠奈』って書いてくれ」

 しっかり指示出ししないと、瑠奈ちゃんには伝わらない事があるからな。

 昨日も「好きな四字熟語」を注文したら、好きな書体で『四字熟語』そのものを書いてきたくらいだし。……二日続けて、同じミスをしてたまるか。

「書体は?」

「楷書。基礎踏みは重要だし」

「筆と半紙は?」

「小筆。半紙は縦二マスの横八マスになるよう折ってくれ。やり方は分かるか? ……よし、その折り方でいい。小筆でなら、一枚の半紙で十六回は名前を書けるからな」

 瑠奈ちゃんは僕の指示内容を理解し、半紙を折った。

 半紙の折り目が完成すると、瑠奈ちゃんは小筆を小さな左手で力強く握り、視線を硯に落として墨を染み込ませ、丘で穂先を整える。

「ねぇ、貫之?」

 きょとんとした顔で、嘉穂に呼ばれる。

「何で今になって、名前の練習なの?」

「名前なんて誰でも書けるでしょ?」とでも言いたげだった。

 小学生なら毎日と言っても過言ではないくらい、名前を書く機会は多くある。

 提出するプリントやテスト、新しいノート――日本人にとって最も身近な、切っても切り離せない「字」こそが、自身の名前だ。

 書く機会が多い事もあって字を書くのが苦手だという人でも、自身の名前であれば比較的綺麗に書けるなんて人も少なくない。

「……そう思う人も、まぁ多いよな」

 だからこそ、だ。

 綺麗に書ける人が多い――裏返せば、書道をする上で綺麗に書けないのは論外。

 全く同じ題目の作品を書いたとしても、作品の横隅に記す名前だけは被らない。万が一にも被るとすれば、同姓同名の場合くらいだ。

 それに名前は書く回数が多い分、癖字になりやすい。妙に悪い癖が付いては、作品の質も下がってしまうのだ。

 だから、僕は名前の練習をする意義を全て引っ括め、

「名前には、作品を殺す危険性があるから」

 と、嘉穂に対して簡潔に回答し、僕らの会話を気にも留めずに書道と向き合っている瑠奈ちゃんの方へと、僕はおもむろに視線を移した。

 もう終盤に差しかかる。

 十六マスに分けられた半紙のたった一マスに小筆で「金城瑠奈」という四つの漢字を書くだけの、単純な題材。制作自体は、一分とかからず終了した。

「う、うっそー……」

 書き終えた瞬間、真っ先に声を出したのは嘉穂だった。

 何とも失礼な第一声だが、そんな声を上げてしまうのも無理はないかもしれない。

 嘉穂が今までで見ていたのは、瑠奈ちゃんが学校で書き上げた完成作品と、昨日の復習として書いた「四字熟語」のみ。

 手本を見て書く、人から教わって書く――それらによって彼女の字は改善され、その字の精細さは極度に向上する。

「まるで別人が書いたみたい……」

 なんて本人の前でもズバズバと本音を漏らす嘉穂であるが、それが普通の感想だ。

 なぜなら瑠奈ちゃんの書いた「金城瑠奈」という四字は、さっき書いた「四字熟語」と比べると、はっきり言って粗雑なものであったから。

 筆先が震えてブレた線。てんでバラバラな大きさ。等間隔でない字の配置。

 さすがに自身の名前だからか、昨日初めて書いた「四字熟語」と比べればはるかにマシだが……それでも、彼女が本来書けるべき繊細な字とは、程遠かった。

「瑠奈ちゃんの小学校で、名前の練習はした?」

「……ううん」

 瑠奈ちゃんは首を横に振った。

 表情には出ていないが、嘉穂の率直な感想が悔しかったのか、ほんの少し俯いているように思えた。ただ、僕は彼女の返答を聞いて納得する。

「提示されたお題での作品制作にあたって、大切なのはどこまでいってもその題材。だから教師も、名前は優先して教えてくれなかったのかもな」

 小中学校向けの市内展覧会レベルじゃ、名前の上手さは二の次。どこまでいっても、提示された課題が最優先となる。

 本当かどうか定かではないが、審査に際して題材の上手さが拮抗した場合のみ、次の決め手として名前に目が向けられると聞いた事がある。

「……それじゃあ、そろそろ本格的に指導するぞ」

 僕は席を立ち上がり、瑠奈ちゃんの背後に回った。

「貫之、今度は何をするつもりなの?」

「二人で書く」

 瑠奈ちゃんは何も言わずに、黙って左手の小筆を持ち直した。

 長机に置き、休ませていた左腕を少し持ち上げ、宙に浮かせる。

 昨日同様、瑠奈ちゃんの背後で膝立ちをし、彼女の小さな体を覆うようにして、二人の左手で一つの小筆を固く握る。

「あ、あすなろ抱きぃっ!?」

「うるさい、嘉穂」

 指導中だ。やましい事はしないから、安心してそこで見学していろ。

 あえて口には出さず、僕は行動で証明しようと考えた。

 その時、瑠奈ちゃんが唐突に僕の方へと振り向いて、

「……昨日みたいに、しないの?」

 首を傾げながら、訊いてきた。

「いや、今日は嘉穂がいるから……」

「…………そっか」

 気のせいだろうか? 少し不満があるように見受けられる。

 それでも瑠奈ちゃんは僕の誤魔化しの返答を聞いて、また正面を向き直した。

 心情が掴み切れない。……やっぱり、まだよく分からない子だなぁ。

「……ま、とりあえず」

 授業を始めよう――と、僕は一言瑠奈ちゃんに告げた。

 頭を瞬時に空っぽにして、新たに制作にあたる字の特性を思い浮かべる。

 そして彼女の左手を操作し、「金城瑠奈」の筆書きに取りかかった。

「いいか、瑠奈ちゃん。まずは『金』の一角目……大事なのはバランスだ」

 穂先を半紙にゆっくりと落とし、

「一角目は字を書く上で、最も重要になる。特に『金』を楷書で書く場合は、左右のバランスをよく考えなくちゃダメだ――」

 字の型、線の抑揚、勢いの付け方、字の配置――瑠奈ちゃんの書いた名前を見て、改善すべき点を全て教え込む。彼女の脳と手先に染み込ませ、馴染ませる。

「…………」

 ついさっきまで疑念を抱いていた嘉穂だったが、僕と瑠奈ちゃんが二人で制作を始めてから、声を出す事はなかった。

 僕が口と手で他者に伝えられる、最上限の感覚と技術。瑠奈ちゃんは勿論、嘉穂までもが真剣に僕の指導に耳を傾け、目線をも筆先へと集中させていた。

 数分後――およそ五分で「金城瑠奈」の四文字は書き上がる。

「すご……っ」

 瑠奈ちゃんへの指導——言い換えれば、矯正。

 それを一旦終えると、嘉穂は賛嘆の声を上げた。

「ベテランさながらじゃん、貫之……っ!」

 どうやら僕の指導に感心していたらしい。だが、この段階では――

「まだ、矯正は終わってねぇよ」

 瑠奈ちゃんの書いた字を見た後に、二人で一本の筆を持って箇所の訂正。

 ここまでは、昨日と同じ工程――今日はもう一つ、先に行く。

「瑠奈ちゃん、ちょっと席、譲ってくれるか?」

 場所移動を促すと、彼女はゆっくりと立ち上がる。

 音を立てる事なく畳の上を歩いて、嘉穂の隣に座り直した。

 瑠奈ちゃんが座っていた席——僕の目前にあった座布団が空く。

「瑠奈ちゃん――ついでに嘉穂も、ちょっと見とけ」

 「参考にしろよ」という意を含めた言葉を告げ、僕は空いた座布団に正座した。

 目線を前にすると、僕の動きに視線を注ぐ金城姉妹。

 机上には瑠奈ちゃんが使ったままの書道道具。

「……これ、借りるぞ」

「も、もしかして……貫之が、書くの?」

 嬉しそうに――というよりか、戸惑いの混ざった意外そうな表情で、嘉穂に問われる。

 今まで頑なに作品作りを拒んでいたのに……とでも、思っているのだろう。

「言っただろ? 僕は『作品はもう作らない』……って。けれど、世に出さないっていうだけで、筆自体は扱うよ」

 硯に墨液を補充し、小筆を左手に取る。

 池に溜めた墨液を泡立てないよう穂先でチュクチュクと円を描くように掻き混ぜ、黒色が穂全体に染み込むように、一気に池へと沈めた。

「最後まで飽きずに見ろよ」

 筆を持つまでは長いけれど、筆を持ってからも――僕は相当長いぞ。


「時間たっぷりかけて、最高傑作を一発で生み出してやる」


 何度も同じ字を書くのは好きじゃない。そんなの気だるいだけ。

 二度三度と繰り返すくらいなら、じっくりと書いて一度に終わらせる方がまだマシだ。

 一筆入魂――書く事への面倒臭さすらも魂に変換し、手に持った筆へと流し込む。

「これから始めるのは、『手本』の制作だ――」

 半紙と筆にだけ視野を狭め、

「―—お願いします」

 僕なりの書道に対する忠義を、示してみた。


 筆を持っていない右手首をくるりと捻り、関節を鳴らす。

 書道に取り組む上で行う、煤咲貫之のルーティーン。

 左手で書く時は右手首を、右手で書く時は左手首を捻る。これをしなくては落ち着いて制作にあたれない。その段階を踏んだ後、下準備に移る。

 今日は道具が用意されているから、一部過程は渋々省略。

 背筋をピンと張り、長机と自身の腹部の間を拳一つ分空ける。半紙に顔は近付けず、文字全体が視界に映り込むように調整した。

 半紙を右手で押さえ、固定する。文鎮だけでは半紙がわずかにズレてしまうからだ。

 手を置く位置は、その日の感覚で決める。

 小学校の習字で先生から言い付けられるような規則——何なら小学生向けの教科書に記載されているくらいの「正しい姿勢」を、律儀に作った。

 正しい姿勢は意識を刺激する。本気で書く上で、外せない。

 ――次。十六マス分に折られた半紙の真上で筆を泳がし、着地場所を決める。

 徐々に、徐々にと筆を宙から下落させ、無事に着地――毛先の一本でも荒れれば、書き初めからやる気が削がれる。

 一本一本の毛先をも掌握するように、自分の指のように扱う。

 手慣れた動き。線の強弱と、ブレない手付き。

 基本である「とめ」「はね」「はらい」の三大要素。

 動かしていた筆を突如「とめ」させれば、毛先がバラつきまとまりに欠ける。なら、筆の進行方向を来た道へと一度戻し、整えればいい。

 勢い任せに「はね」てしまうと、筆が不意に割れ、書いた線に求めていない掠れを生んでしまう。なら、文字をはねかす直前に一度筆を止め、じっくりとその場で溜めて力加減を調整し、狙った方向に穂先を弾かせ型を築けばいい。

 思っていた方向に「はらい」が上手くいかない。なら、三折法では起筆で向かう方向を定めた後、送筆ではゆっくりとカーブを描くように心がけ、少しずつ筆を細くしていき収筆させればいい。二折法ならば、勢いの良さと線の長さを意識する。

 基本的な字形である「楷書」では、字の型はほぼほぼ制限される。

 その中で、どれだけ精細に理想とする型を組めるかが上達の鍵。基本に忠実に、それでいて「魅せる」ために調整を怠らない。

 流れるように――ではなく、一文字一文字を、たった一本の線を引く事にすらも、集中力は欠かさない。欠かせてくれる暇は、一切ない。

 半紙と対峙してから、そこ以外には目を離さない。

 一画を書いて、集中力を保つため間を挟む。

 また一画書いて、間を挟む。繰り返し。

 筆を離した短い時間でも、半紙を直視し続けた。

 異質な緊張感が、周囲をピリピリとした空気へと作り替える。他者の視線を自然と奪い、言葉を発させない。どんなに非常識な人間であっても、言動を弁えるくらいに。

 まるでこの場だけが時間が止まったかのように、そんな世界の中で一人黙々と筆を走らせているような錯覚を、自身だけでなく周囲にすら与えてしまうくらいに。

 煤咲貫之は――言わずとも第三者の脳内に刷り込ませていた。

 幼少期からの練習で培った、小手先のセンスをも凌駕する超感覚。

 たった一本の毛でさえも自身の指同然に扱えてしまう、洗練された筆捌き。

 書道と向き合っている瞬間だけは、惜しみなく、自然と他者を圧倒し、その力量を魅せ付け、備わった素質を存分に開放させ――――


 そして今この瞬間、煤咲貫之の――僕の「手本制作」は幕を閉じる。

 制作時間、約十分――瑠奈ちゃんの倍以上の時間を費やしていた。

「ふぅ……やっと終わった」

 小筆を硯の横に掛け、僕は脱力した。

 両腕を張って手を畳に置き、体を反らすようにして斜め上を向く。

「…………」

 だが、僕は違和感に気付いた。

 制作工程を見ていた二人とも、僕が書き終えても声を発さないのだ。

 いつもだったら「お疲れ貫之ーっ!」とか、真っ先に嘉穂が声をかけてきそうなものだが、今回はそれがない。

 僕は体勢をそのままに顎を引いて、二人の座る正面を確認した。

「……? 何だよ、そんな顔して……」

 そこには当然の事ながら、瑠奈ちゃんと嘉穂の二人。書道に打ち込む僕の姿を正面から黙視していた金城姉妹は今も尚、僕をジッと見つめ続けていたのだ。

 嘉穂は目を丸くし、それだけでなくあの無表情キャラでお馴染みの瑠奈ちゃんさえもが、姉と同じように目を見開いていた。

「貫之って……本当に、天才なんだね……」

 やっと口を開いたかと思ったら、嘉穂は突拍子もない事を言い出した。

「……あのなぁ。何度も言うけど僕は凡才、よくて秀才だよ。天才とは程遠い」

「それ、謙遜だとしたら周囲にいじめられるよ!? もし自覚がないんだとしたら、すぐに病院に行って! 処方箋出してもらいなよっ!」

「どんな処方箋だよ……」

「どんなって……自白剤?」

「それ、捜査機関が使う薬物じゃないか……?」

 一体、僕が何の罪を犯したと言うのだ。

「というか、いくら何でもその反応は大袈裟だろ」

「そんな事ないって! どうしてそんなに、自分の字に自信がないのっ!?」

 嘉穂の言葉に、隣で座る瑠奈ちゃんはコクコクと何度も頷く。

 ……自覚、か。

 正直、自分の字が上手いとか下手とか、今となってはよく分からない。

 少なからず分かっているのは、僕が天才ではないという事。「本物」の天才を知っているからこそ、はっきりと言える。

 圧倒的な実力で現実を突き付けられ、僕の心は折れてしまった。

 逆に僕が天才だとしたら、僕を負かしたあの「年下の女」は大天才か何かか? ……いや、生緩いな。神様の生まれ変わりと言っても過言じゃない。

「ま……僕が久々に本気で書いている姿を見て、感極まったばっかりに大袈裟な感想を抱いてしまっているのは一旦置いておいて」

「何……そのあやすような言い方……」

 こいつらも時間が立てば思い直すだろう。

 家に帰宅して風呂に入る頃には「あれ? よくよく考えれば、あそこまでビックリするほどの字ではなかったような?」ってな。

「じゃ、瑠奈ちゃん。僕の書く姿は見ていたよな?」

「うん。すごかった」

「なら、書き始めよう。僕が書いた手本を参考に、ベストを尽くして」

「うん……っ!」

 これまでに聞いた事もない、力強い声だった。

 やはり瑠奈ちゃんも、無表情ながらにテンションが上がっているようだ。

 僕の字が彼女に良い影響を与えた、という事だろうか……? ――いや、違う。自惚れるのも大概にしよう。

 とりあえず僕は瑠奈ちゃんと席を代わり、定位置に戻った。嘉穂と隣り合って、彼女を真正面から見守る。

 瑠奈ちゃんはじっくりと僕が書いた手本を眺め、自分が書いた文字と比べ出す。

 左手の人差し指で手本を何度もなぞり、空白の一マスにはなぞった文字を模写するように指先で型を確認した。

 誰にも見えない透明な線を指先で型取り、頭の中でのみ浮き彫りにする。

 そしてついに、小筆を持った。

 真剣そのもの。無表情で感情が掴みづらい彼女から、気迫が溢れる。

近寄りがたく、容易に喋りかけられないほどの集中状態。

 それも最初に書いていた時とは異なるくらい、異様な空間支配。下準備の工程だけで、他人を圧倒できる才能。彼女が生んだ空間の静けさは、極限まで引き上げられていた。

「……っ」

 そんな妹の姿を目にし、嘉穂は思わず怯む。

 瑠奈ちゃんは小筆の穂に墨を付け、硯で形を整える。

 コト、コト……と、下準備で生じる微かな物音さえも、やたら風流に感じる。閑静な教室では音がより際立ち、心地よく耳に残る。

 目を瞑り、瑠奈ちゃんが書き上げるのを待つ事にした。

 するとすぐ、スーッと半紙の上を小筆で走らせる音が聞こえる。瑠奈ちゃんが腕を動かすたび、半紙が微小な音を立てる。

 研ぎ澄まされた聴覚だけで、彼女が書道と向き合う情景が目蓋の裏に広がり、

「……仕上がった」

 あっという間に、僕の耳を支配した感覚は抜けていった。

 瑠奈ちゃんの声で目を開き、下敷き上の半紙に視線を移す。

 上右端には最初に瑠奈ちゃんが書いた名前、その横に僕の書いた手本、さらにその横に瑠奈ちゃんが今さっき書き上げた二回目の名前。

 並べられた三つの名前を見比べ、僕は感服のあまり吐息を漏らす。

「……いやぁ、すごいな……」

 正直、ここまで似せられるとは思わなかった。

「これ……本当に、手本そっくり」

 嘉穂も嘉穂で驚きのあまり、声が落ち着いていた。人間、本当に驚いた時は大声ではなく、小声になってしまうものなのかもしれない。

「ねぇ……貫之が基本的に使っているのは、右手だよね? 左手もたまに使うけど」

「ああ、そうだな」

「って事は、貫之が本番……ここぞ、という時に使うのも、右手だよね?」

「まぁ、そうなる」

「だったら瑠奈は、貫之が本気じゃない時に書く左手の本気と実力が同等、って事?」

「言い方が相当悪いな……。分かりづらいし」

 僕の本来の利き手は右――だが、瑠奈ちゃんに指導する上で扱うのは左手。

 つまり、普段とは違う手である。嘉穂が言いたいのは、僕の利き手じゃない左手での最高上限と、瑠奈ちゃんの利き手での実力はほぼ等しい――と言いたいのだろう。

「実力はある。……けど、瑠奈ちゃんはまだ根本ができてない」

 瑠奈ちゃんの課題——自分の個性を引き出す事。

 誰かが書いたものの模写ではない、独創性。

 ただの模写は、書道じゃない。習字だ。

 彼女は今後、自分のスタイルを模索し、身に付ける必要がある。書道に取り組む中で求める境地こそが、自分だけの書道の形である。だが――それでも、

「実力があるのは、確かだ」

 繰り返し、そう告げた。

 模写であろうと、素人同然のキャリアでここまで書ける人はなかなかいない。

 忠実に手本を再現した、瑠奈ちゃんの二回目。

 お世辞抜きで一回目よりも数十倍……いや数百倍クオリティは向上していた。

 世間的に見たら、誰がどう審査したとしても確実に高評価を言い渡される。

 それも小学生が書いたとなれば、称賛どころじゃない。絶賛だ。

 大会の小学生部門に応募すれば、入賞はまず間違いない。懸念があるとすれば、「誰かに代筆を頼んだのではないか」と疑いをかけられてしまう事くらいだ。

 それほどまでに、小学生という枠組みからは逸脱した――突飛な才能である。

 ――――が。

 書き上げた当の本人はというと、

「……(ブツブツブツブツブツブツ)…………」

 高速で小さく口の開閉を繰り返し、聞き取れさえしない声で何かを呟いていた。

 親指を上唇に当て、瞳を見開き、何かを計算でもしているようにも窺える。

「……せんせー」

 突然、瑠奈ちゃんは高速早口運動を一旦停止して、僕に声をかけてきた。

「もう一度、書きたい」

 なるほど。どうやら瑠奈ちゃんは、書いた字に納得いっていなかったようだ。

「どこを直せば、『失敗点』が改善されると思う?」

「墨の量と、文字の大きさ。まだ、バランスに誤差がある」

 言うまでもなく、見本とのわずかな差を認知している。

 隣で「そんな事っ!?」と嘉穂が騒いでいたが、まぁ大体の人はそう思うだろう。僕もそのうちの一人だ。……それでも、気になってしまうのだろう。

 より上を目指し、理想とする完璧を求める貪欲さ。

 ここまで出来上がった小学生に教える事があるのか? ――という疑念が大きくなりつつあるが、まだ、僕が直接教えられるべき事はあるかもしれない。

 僕は瑠奈ちゃんの発言を了承した。すると彼女は再び小筆を持ち、穂を整える。

 模倣のために何度も手本を目に焼き付け、書き初めの標準を合わせようと半紙の上に筆を浮かし、自分なりにタイミングを見極め――――


 ――筆入れを始めようとした、その刹那。


「ただいまぁー」

 思わず気が抜けるような甘ったるい声と共に、僕らが座っている近くの引き戸が、ガラガラッと騒々しい音を立てた。

 そこに現れたのは、二人の女性。一人は僕の母であり教室長——煤咲舞姫。そして後から部屋に入ってきた、もう一人の女性はというと――

「ママ!」

「……お母さん」

 嘉穂と瑠奈ちゃんがそう呼ぶ人物――金城晴海が、教室に足を踏み入れた。

「あれ、貫之君。ご無沙汰だね。いつも娘二人がお世話になっています」

「いえ、そんな……」

 柔らかい物腰の喋り方に、上品な笑顔。こんな清純派の女性が、どういった経緯からナチュラル下ネタ女である母さんと学生時代に親しくなったのか、常々疑問に思う。

 だが、当然ながらそんな僕の疑問になど気付く由もなく、晴海さんは、

「そろそろ、帰る準備を始めてね。もう、いい時間だから」

障子を開いて暗くなった窓の外を見せ、姉妹に言う。嘉穂は「ええぇ、もうちょっとー」と子供のように駄々をこねた――が、生徒である瑠奈ちゃんは、

「……仕方ない」

 小筆を置いて、ゆっくりと息を吐いた。

 修正ができない書道では、一本の線を引くのでさえも集中しなくてはならない。集中力が突如途切れた今、状態を立て直すのはなかなかに難しいものだ。

 瑠奈ちゃんは不満一つ見せず、黙々と使用した道具を片付け始めた。

「……あ」

 数秒後、彼女は何かを思い出したように不意に声を漏らす。

「……せんせー。明日か明後日、暇?」

「え? あっ、えーと……ちょっと待ってくれ」

 ポケットに入れていたスマホを取り出し、カレンダーを開く。

 明日と明後日は土日で、小学校は休み。自称進学校の我が校では、土曜午前に毎週三時間の授業が行われる。つまり、週の休日は日曜日だけだ。

「瑠奈ちゃんも嘉穂から聞いてると思うけど、土曜日は午前授業。日曜は休みだけど、部活はあるよ。どっちも午後は暇だけどさ」

 まぁ、部活なんてサボっても問題ないのだが……。

「よければ……ううん。私の小学校、来て」

 瑠奈ちゃんが放ったセリフに、一瞬動揺した。

 何でいきなり、そんな事を? ――と。

 だが、その理由はすぐに理解できた。

「……あー、なるほど。もう『学校展示会』の時期なのか」

 市内の全小中学校が対象の、「市内小中学生書き初め展覧会」。

 ここに出展されるのは、各学校で選ばれた精鋭の作品達――その作品を書く代表生徒決めは、どの学校も基本同じだ。

 生徒全員が課題作品を書き上げて、その中から優秀と判断された生徒が代表となる。落選生徒は特に音沙汰なしで、教室の壁にしばらく飾られる程度だ。

 しかし、瑠奈ちゃんの通う小学校……基、僕と嘉穂の母校は、他とは少し違う。

 選考に選ばれなかった生徒の作品も含め、全学年の全生徒の全作品が、学校の体育館で一堂に展示される。保護者も多く集まる、意外にも小学校が賑わうイベントの一つだ。

 つまり、瑠奈ちゃんは僕を次の土日……つまり、明日と明後日に開かれる「学校展示会」に招待したかったのだろう。―—自分の作品を、僕に見せるためにも。

 一人勝手に納得する僕に、彼女は続けて、

「『市内展覧会』の学校代表に、何日か前に選ばれた」

「ああ、おめでとう。確か、六年連続なんだっけ? すごいじゃんか」

「? どうして、六年連続って……」

 不思議そうに顔を傾けた瑠奈ちゃんに、嘉穂が困ったように笑っていた。

「……いいよ、瑠奈ちゃん。僕を『学校展示会』に誘ってくれているんだろ?」

みなまで言わせず僕が問うと、瑠奈ちゃんは無言で頷いた。

「せんせーは土曜か日曜、どっちがいい?」

「僕はどっちでもいいけど……」

 その時、僕と瑠奈ちゃんの会話を盗み聞きしていた母さんが、

「晴海ー? 確か、日曜日は天気予報雨だったよねー?」

「えぇ、確かね」

 と、晴海さんに確認を取った。

 母コンビはいつの間にか、二人して教室長席で正座していた。手前の長机にはお茶飲みセットが用意され、瑠奈ちゃんが片付けしている間に茶でも飲もうとしていたらしい。

 「帰る準備を始めて」と言っておきながら、談笑する気満々である。

「まぁ日曜が雨なら、土曜の方がいいか。……よし、明日行こう」

「……うん」

 こうして、僕のスケジュール欄が一つ埋まった。

 数年ぶりの母校訪問。少しだけ、明日が楽しみに思えてきた――――が。

 そんな中、一つの事態がこの狭い教室で発生してしまった。

「あわわわっ! ちょっと瑠奈っ!?」

 嘉穂が慌てた声で騒ぎ出す。

「あららぁ、溢しちゃったのー?」

 取り乱す事なく、母さんは冷静に言った。

 溢した――書道をする上で、多くの人が経験した事のある失敗。

 経験はなくても、同じミスをした人を見た事は少なからずあるはずだ。

 今この瞬間、たまたまそのミスをしたのが瑠奈ちゃんであったというだけの話。

 彼女は自身の肘で、横倒してしまったのだ。

 余った墨液を入れ直そうと蓋を開けていた――墨液の容器を。

 墨は長机の上を徐々に広がり、ぽたぽたと床にまで溢れ落ちた。さすがの瑠奈ちゃんも動揺してしまったらしく、数秒の間、小刻みに口の開閉を繰り返して、

「……ご、ごめんなさい」

 絞り出すように、謝罪を述べた。声が少し、震えている。

「これくらい大丈夫、大丈夫。貫之も小さい頃、よくやってたよねー」

 震える瑠奈ちゃんを、母さんが優しい口調で慰める。

「貫之、拭く物を持ってきて。取り急ぎ、ね?」

「あ、ああ」

 僕は立ち上がり、洗面所に続く扉へと向かった。

 その際、ふと惨状が視界に入る。

 結構な量が溢れてしまったらしい。被害は長机や床だけに収まらず、瑠奈ちゃんの太股にも、べったりと墨が垂れてしまっていた。

 ただ、それだけならまだよかった。床に溢れた際に跳ねてしまったようで、墨は瑠奈ちゃんの衣服にまで跡を残している。

 ……想像以上に、大惨事となっていた。


          ☆

「太筆はぬるま湯で、根元から優しく揉んで墨を絞り出すの。……あ、今の『揉む』って言うのは、下ネタじゃないからね? 勿論『絞る』も下ネタには含まれないよ?」

「……知ってる」

「ま、まぁ知ってるよねー、うんうん……。下ネタでの揉んだり絞ったりだと、墨みたいに黒い液じゃなくて、出てくるのは白濁の液だもんねー?」

「……それは、知らない」

「う、ううぅ……。あ、瑠奈ちゃん上手い上手いー。よく洗わないと毛の質が悪くなるし、先っぽが割れやすくなっちゃうから、その調子でこれからもよく洗うようにねー?」

「……そう」

「もぉー、褒められたら素直に喜びなよー? もしくは照れておくれよー? 反応薄いし、イジり甲斐がないなぁー……」

「あなたには、イジってほしくない。言葉でも、体でも。……ひとまず、頭を撫でないで。それと、子供扱いしないで」

 煤咲家の風呂場から、瑠奈ちゃんと姉貴の歌代の反響した声が聞こえてくる。

 そして僕はというと――バスルームの前で胡座を組み、その会話に耳を傾けていた。

 そもそも、なぜ僕が二人の生徒と実妹のお風呂トークに聞き耳を立てているのか。これは決して、やましい理由ではない。

 僕は瑠奈ちゃんに頼まれ、ボディガード……つまり姉貴の下ネタ方面への暴走を抑止するストッパー役として、彼女達が風呂から上がるまで待機しているのだ。

 にしても、まさかこんな展開になるとは……。

 数十分前――瑠奈ちゃんは墨液ボトルを誤って倒し、服や体を墨で汚してしまった。そして母さんの提案により、彼女はうちの風呂に入っていく流れとなったのだ。

 そのついでで「瑠奈ちゃんに正しい道具の手入れ方法を教えよう」という話になり、僕の部屋で夕食まで待っていた暇人の姉貴が、一緒に風呂に入るよう招集された。

 嘉穂は瑠奈ちゃんの着替えを取りに行くため一旦帰宅し、金城姉妹の母である晴海さんも夕飯を用意するために我が家を後にした。

 ちなみに、我が家では普段から筆の手入れを風呂場で行っているのだが、それは家の人間だけで生徒を風呂場に通す事はない。今日は特別だ。

 ただ本来、手入れの仕方を教えるなら担当指導者の僕が行うのが筋だろうが今回は性別的に難しい。風呂にも入れずただただ門番のように胡座をかいている自分に、嫌気が差してくる。自分が女だったら……と、何度思った事だろうか。

「じゃーねー、次は小筆を洗おっかねー?」

「……ん」

 軽薄な声で、姉貴が瑠奈ちゃんに指示を出す。

 今日の様子から瑠奈ちゃんはやたら姉貴を毛嫌いしているようだったが、一応素直に姉貴の指示に従ってはいるらしい。

「あー、ちょっと待って? お湯で直接流しちゃダメだよ。小筆はねー、太筆ほど濡らす必要がないの」

「……どういう事?」

「小筆は三分の一くらいしか筆先を柔らかくしないでしょ? だから、根本まで洗う必要はないんだよ。ティッシュや半紙で擦って、毛先の墨を抜いて手入れは終わり。スポンジを使うのもいいよー。……これ、いつもうちが使ってるやつ。特別に貸してあげよー」

 勿論、筆の手入れ方法は人によって違う。

 指導者や団体によって説明が違ったりするのはよくある事だ。まぁ、自分が習っている先生の教え通りにするのが無難ではある。

「ユキくーん」

 浴室の折戸が少し開き、モクモクと白い湯気が脱衣所に立ち昇った。

「この筆二本、そこら辺で乾かしておいてー?」

 隙間から伸びてきた姉貴の手には、瑠奈ちゃんの筆が握られている。

「……ああ、分かった」

「よろー」

 腰を上げて筆を受け取ると、折戸はすぐに閉められた。

 なんだかパシリ扱いされているような気分になり文句の一つでも言いたくなったが、生徒がいるからと気持ちを圧し殺す。

 洗面台の横に筆を置き、僕はぼんやりとその二本を眺めた。

「忘れて帰らないように、覚えておかないとな……」

 そしてまた、定位置に戻って胡座を組み直す。

「筆も洗い終わった事だし、そろそろお風呂に浸かろっかー」

 今から風呂か……これは相当時間がかかりそうである。

「まず髪と体を洗わないとだね。ほぉら、前を向いて? いやいや、遠慮しないでってー。こう見えてお姉さん、今でもユキ君の体を毎日洗ってあげてるんだよー?」

「嘘ついてんじゃねぇよ!」

「おぉっとー? 聞こえてたかー」

 つい、戸越しにツッコミを入れてしまった。

 姉貴と風呂に入った事は小さい頃であれば何度もあるが、さすがに高校生になってから入った事は一度もない。

 いや……ちょっと待てよ? 姉貴が無理矢理入ってきた事なら結構あったな……て事は、一緒に風呂自体は入っている扱いになるのか……?

 だとしても、体や髪を洗われてはいない。これだけは断言できる。

「うんうん、よしよし。ようやく素直になったね。軽率にもうちに背中を向けるようになるなんて、我ながらよくここまで瑠奈ちゃんの警戒心を解けたもんだぁー」

 聞く限り、瑠奈ちゃんがバスチェアに腰を掛けたのだろう。つまり位置的には、彼女の背後に姉貴がいる状態となる。

 ところで、背中を向けたら何かされるのか……? 姉貴の発言には所々含みがあり、どことなく心配になってくる。

 巨乳でブラコンで癖女な姉というだけでも属性てんこ盛りでお腹いっぱいなのに、ロリコンまで加わったら手に負えない。そんな奴は誰も食い切れないだろう。

「んじゃねー、まずは目ぇ瞑ろっかー? 髪、お姉さんが洗ったげるねー?」

「ちょっ、やめ……」

 シャワーの音が鳴り始め、瑠奈ちゃんの小さな声は掻き消された。

 おそらく姉貴は、瑠奈ちゃんの嫌がる素振りを楽しんでいるのだろう。その証拠に、シャワーの音の中から姉貴のやたら上機嫌な鼻歌が聞こえていた。

 バスチェアに座る瑠奈ちゃんと、髪をワシャワシャといじくり回している姉貴のシルエットが、折戸の型板ガラスからシルエット状で視認できる。

 抵抗も虚しく、瑠奈ちゃんは姉貴にされるがまま頭を洗われているらしい。

「ねー、ユキ君?」

「ん? 何だよ?」

 シャンプーで瑠奈ちゃんの髪を泡立てながら、姉貴が戸越しに話しかけてくる。

「和澄高の文化祭、もう数日後でしょー? 今年は何をやるのー?」

「全く決まってない」

「えぇ!? なんてぇ?」

「そんなに驚く事でもないだろ」

「いやごめーん。シャワーの音で、全然聞き取れなかったー」

 そういう意味での「えぇ」かよ、紛らわしいな。

「シャワー止めろよ、聞き取れないなら」

「そんなの寒いじゃんー。それで、何て言ったのー?」

「……まだ決まってない、って言ったんだ! やる事は決まったけど、詳細は一つも決定してない!」

 さっきよりも声を張って答えた。

「この時期にその段階って、遅くない?」

「その通り、遅すぎる。……というか、元々僕はやる気なかったんだ。親父が今日、唐突に言い出したんだよ」

「パパのルーズさには困ったものだねぇー」

 姉貴の下ネタ癖も親父と同等……いや、それ以上に困ったものだがな。

「で、出し物は何?」

「書道体験講座、即興競書大会、書道パフォーマンス披露、有名書道家の紹介展示、書道部部員の作品展示の五つを予定してる……」

「わぁ、懐かしい。やったやったー」

 姉貴の二年前まで、僕と同じく和澄高等学校の生徒だった。つまり僕が中学三年の頃まで、姉貴は書道部に所属していたのだ。

「書道家の人物紹介って、A4の厚紙に紹介文とかイラスト載っけて、最終的にはラミネート加工して部室に貼るやつだよね? すごい凝って作ったの思い出すなぁー」

「ん……? 今でも卒業生が作った紙が貼られてるけど、姉貴のは見覚えがないぞ?」

「ああ、そうそう。あまりの出来が良くてさ、卒業と同時に持って帰ったんだよ。今もうちの部屋にあるよ。今度見せたげよっか? 参考にするー?」

「いや、いいよ……去年、僕も一枚作ったし。また今年の分として、新しく作る事になるだろうけどな……」

 どうせ嘉穂に強要されるだろうな……面倒臭い。

「あ、そうだ。何なら、姉貴の持って帰ってきたのを貸してくれよ。今年の文化祭用として、姉貴の名前部分を上手い具合に上書きして提出するから」

 我ながら良い考えだ。

「弟ながらセコい考え……」

 ほっとけ、僕はラクができればそれでいい。

「うちは別に構わないけど、嘉穂ちゃんが怒るんじゃない?」

「まぁ、バレたら確実にキレられるな」

 曲げてはいけない方向に四肢を捻られてしまうかもな。だいぶリスキーである。

「ちなみに、姉貴が紹介した書道家って誰なんだ?」

「若○竜太さん」

「……聞いた事ないな」

 そこそこマイナーな書道家も、多少なら知っているつもりだったのだが……。

「えー、知らないのかー。ユキ君も、その人の作品は見た事あるはずだけどなぁ」

「そんな有名な人物なのか?」

「ほら、アニメ『銀○』のタイトル書いてる人だよ」

「あのタイトルの人かよ!?」

 書道家……と言っていいのだろうか?

「あー、でも、さっき言ってた五つの出し物の中で唯一、書道パフォーマンスはうちの代でやらなかったなぁー。羨ましー」

「姉貴の代って、それなりに部員もいたんだろ? 正直、僕と嘉穂の二人……いや、親父を含めれば三人か。どちらにせよこんな少人数でやるより、部員数が十人を余裕で越していた姉貴の代にパフォーマンスをした方が、盛り上がっただろうな」

「んー? そうかなぁ。でも、三人だからこそのパフォーマンスもあるんじゃない?」

「そうかもしれないけど……」

 姉貴の言う事には一理ある――が、三人ではさすがに地味すぎる。パフォーマンスの舞台である紙の上がガラガラでは、第三者目線で考えても物足りない。

「それでも、お客さんはたくさん見に来ると思うけどねー」

「何を根拠に?」

 そう質問した時、姉貴はガタガタと物音を立てる。

「はーい、これでリンスも終わり。洗い流すねー」

 そういえば話している最中、瑠奈ちゃんの事を完全に忘れていたな……僕。

 一言も発さないから、つい姉貴との会話に集中しすぎてしまっていた。

姉貴はシャワーを扱いながら、話題を戻す。

「んー、根拠っていうかさ? ほら、パパってネットでの宣伝力がそこそこ強あるし、集客くらいなら簡単にできるんじゃないかなーって」

「まぁ、親父はSNSじゃ地味に有名人だしな……」

 親父はSNSで自身の作品の投稿している事もあって、名前がそれなりに知れている。

 フォロワー数もなかなかに多いようで、書道とは一見縁遠く思える若者達の中にも、親父のファンは少なくない。そんな親父がネット上で文化祭について拡散……それも親父自らがパフォーマンスに参加するなんて呟けば、多少は人も集まるだろう。

「発信する宣伝文にユキ君の雅号を出せば、さらなる集客と見込めるかもよー?」

「やめてくれ、それだけは絶対に。雅号なんてとっくの昔に捨てたんだから」

 僕は背中を丸め、頭を抱えた。

 クソ姉貴が……。思い出したくもない事を言い出しやがって……。その件について瑠奈ちゃんが興味でも示したら、一体どうしてくれる?

「次は体を洗うねー。泡落ちちゃうし、シャワー一旦止めるよー?」

 シャワーの音が消え、姉貴の声が鮮明に聞こえるようになった。

 勿論、それは姉貴の声に限らず、瑠奈ちゃんの声にも当てはまる。瑠奈ちゃんは姉貴に背中を洗われながら、エコーがかった声で、

「せんせー、雅号って……何?」

 とまぁ、僕が危惧していた質問をドンピシャで投げかけてきた。

 瑠奈ちゃんの性格上、興味を抱くのは必然だ。

「えーとね、雅号っていうのはー」

「せんせーに訊いてる」

「おおっと、シビアに人間格差が浮き彫りになるねー」

 説明を一言で拒まれるも、姉貴はケラケラと笑っていた。

 ここまで小学生女子にあからさまな拒絶反応を見せられているのに、どうして傷付かないのだ? 鉄心すぎるだろ……。

「そりゃねー、毎日のように実の弟からベッドの上で拒絶されているんだから、年下に強い口調で軽蔑される事にも慣れてきますってー」

「どうして僕の心を読み取れたんだよ!?」

 実の姉からベッドの上で誘われたら、拒絶するのは至極当たり前だ。

 僕は肩を落とし、溜め息をつく。……こうなっては仕方ない。

「雅号っていうのは、そうだな……。分かりやすく言うと、ニックネームだ。いや、どちらかというと、ペンネームとかタレント名に近いかも。ほら、漫画家とか芸人とか、本名とは別の名前で活動してる人って多いだろ?」

「そうなの?」

「そんなガチトーンで言われても……」

 結構な常識だろ、これに関しては。

「まぁ要するに、書道家が名乗る偽名だよ」

「……じゃあ、せんせーの雅号って、どんなの?」

「…………」

 正直、言いたくない。下手に言及して、瑠奈ちゃんに関心を抱かせたくない。

 しかし、こうも直接的に質問されては――答えざるを得ない。

「…………水佐土」

 僕の使用していた雅号。三文字の別名。

 瑠奈ちゃんはその名を聞くなり、

「格好良い」

 なんて感想を漏らした。

 瑠奈ちゃんはお世辞を言うようなタイプじゃないし、本心から出た言葉だろう。

「由来はあるの?」

「あるにはあるよ。……ちょっと長くなるけど」

「いい。聞かせて」

 間髪入れず、瑠奈ちゃんは説明を求める。

「紀貫之……って言っても分からないかな。平安時代の貴族なんだけど」

「詳しくは知らない。けど、名前は分かる。確か、古今和歌集の作者」

 知っているのか……。てか、小学校で習ったっけ?

「僕の名前って、紀貫之から拝借してるんだ。紀貫之は古今和歌集の他に、土佐日記っていう日記文学も記してるんだよ。僕の雅号は、その土佐日記から着想を得たらしい」

 土佐——反対にして、佐土。

「? どうしてわざわざ『土佐』を『佐土』に言い換えたの?」

「さぁな、僕も分からない。命名した祖父に聞いてみたいけど、もう故人だからな」

 とはいえ、特に大きな理由があるとも思えない。単純に語呂の都合で、祖父からすれば「土佐」より「佐土」の方がしっくり来たのだろう。

「……だったら『水』は?」

 これまた、当然の疑問だった。

 僕の雅号は「土佐」でもなければ「佐土」でもなく――「水佐土」なのだから。

「その『水』が付いた理由も、よく分からない。……いや、語弊があるな。理由は知っているけど、理解はよくできてない、の方が正しいや」

 ここから僕は自分にできる最上限で、可能な限り分かりやすく説明を始めた。

 そもそも祖父は、代々受け継がれてきた「煤咲」という苗字に紛れ込んだ「甘」という漢字が、どうにも気に入らなかったそうだ。この時点ですでに理解しがたい。

 まず「煤」という漢字を「火」「甘」「木」の三つに分解する。その時に浮き彫りとなる「甘」という漢字を、祖父は「甘さを消す」―—という意を込めて取り除き、「火」と「木」を残した。「火」と「木」の間に来る漢字は、曜日順的に「水」となる。

 つまり祖父は、消し去った「甘」の戒めとして「水」を雅号に用いたのだ。

 常人には理解はできそうにない、クレイジーな名付け方である。

「私も……雅号が欲しい。せんせーから、命名されたい」

 説明を終えると、瑠奈ちゃんは少し――ほんの少し高揚しながら、そう言った。

「……ああ。気が向いたら、考えとくよ」

 瑠奈ちゃんに対して、僕は後ろ向きに返事をする。

 僕ごときに名付けられた雅号なんて、価値も付かないぞ――と。

「……約束」

 瑠奈ちゃんの一言に、僕は小さく頷いた。

「いいねぇいいねぇ、青春してんねぇー」

 しばらく黙って瑠奈ちゃんの体を洗っていた姉貴が、感情を昂らせながら話に割り込んできた。だが、今に到っては助かった。……これでやっと、話を逸らせる。

「瑠奈ちゃん、私の事は煙たがるけど、ユキ君には興味津々だよねー? 色々と深く雅号についても聞いていたしー」

「……うるさい」

 瑠奈ちゃんは、姉貴の「僕に興味津々」という発言を否定はしなかった。

「ん? んー? これはもしかして、瑠奈ちゃんは……ユキ君の事が……ぷふっ」

「小学生を煽るなよ、大人げない……」

「……?」

 ただ、鈍感な瑠奈ちゃんには通じていなかった。

「つーまーりー、瑠奈ちゃんがユキ君に恋しちゃってんじゃないかなー、ってついつい思ったりなんかしちゃってねー?」

「……! そ、そんな事……! せんせーの事は、好き……けど、それはせんせーとしてであって、別に……恋愛対象としては…………」

 セリフを所々途切れさせながら、必死に弁解する瑠奈ちゃん。

 うん……ありがとう、先生としてってだけで、十分嬉しいよ。うん。

「あーあー、その反応は、まだ恋がどんなものかを理解できていない反応だねー。分かる、分かるよー、その気持ち!」

「な、何を言って……」

「私もユキ君に対する想いが、姉弟愛によるものか恋愛感情によるものか、何年も判別つかなかったものだよ。実に十年の時を経て、ようやく真実が分かったけどねー」

 いや十年はかかりすぎだろ!?

 姉弟愛と恋愛のどちらに転じたかは、ここでは聞かないでおこう。もしもの返答が来たら、これまで通りの姉弟関係は築けそうにないし。

「あーでも、瑠奈ちゃんがユキ君と結婚したら、瑠奈ちゃんはうちの妹になるのかー。うんうん、そうなったら楽しみだなー」

「妹……!?」

 明らかな拒絶反応を、瑠奈ちゃんは声に出した。

「んふふー、可愛い妹、ずっと欲しかったんだよぉー」

「ちょ、やめ……やめ……やめ……」

「あー、幸せぇー。女の子の体にイタズラ、一度してみたかったんだよねぇー」

 悪魔の微笑が、風呂場に響く。

 どうやら姉貴のセクハラ癖が、ここに来て解放されてしまったらしい。

「姉貴、いい加減にしろ! 今日は自重しろって!」

「え? 自慰をしろ?」

「言ってねぇよ!」

 僕は風呂場の方へと向いて、姉貴に怒鳴った。

 ――と、ほぼ同時。

「……あわ、あわわわわわわ……っ」

 姉貴の声が、一瞬にして慌ただしくなり、

「ぁぁぁあああああああああああっっ!」

 と、ついには悲鳴に変わった。

 僕の怒号以上に騒々しい物音が、風呂場にて木霊する。

「―—っ! おい、どうしたんだ!?」

 咄嗟に折戸を開けて、僕は中の様子を確認した。

 瑠奈ちゃんと姉貴。姉貴が背後から瑠奈ちゃんの平たい胸を揉みほぐす――というより、両手を胸に這わせながら、床に転倒している姿がそこにはあった。

 瑠奈ちゃんの下敷きとなった今でも、姉貴は瑠奈ちゃんのちっぱいを離さない。

 床を見ると、至る所に泡が散乱している。姉貴の悪ふざけが過ぎたせいで、滑って転倒を余儀なくされたのだろう。

 しかし、幸いにも瑠奈ちゃんに怪我はなさそうだ。

 そんな彼女は僕を見上げ、目を丸くしていた。突発的な出来事だったからか、驚きの表情が顔にしっかりと出ている。

 ……ん? 目を、丸く……?

「―—————ッッ!?」

 どうやら僕は、大変な失敗をしてしまったらしい。

 咄嗟とはいえ、瑠奈ちゃんを心配してとはいえ――やってしまった。

 年頃の女の子の入浴シーンに、ガッツリと……。

「ご、ごめん瑠奈ちゃん……ッ! 決して、他意があったわけじゃ――――!?」

 その瞬間、僕は敏感にも察知してしまった。

 禍々しく揺れる、黒い邪気。

 風呂場で起きた事故に気が奪われていたせいで、今まで気付けなかった。

 脱衣所の扉が開き――あの同級生が、背後に現れていた事に。

「い、いやぁ……よかったよ。ひとまず、二人とも無事で、安心だぁ……」

 苦笑しながら、僕は恐る恐る折戸に手をかける。

 できる事ならすぐにでも逃げ出したいが、唯一の扉は封鎖済み。

「……ほんと、よかったよ。怪我がないようで」

 胴体は動かさず、身を震わせながら首を微かに回して、背後をチラリと覗く。

 引きつった笑顔――黒いオーラを放ちながら憤怒を抑える嘉穂が、そこにはいた。妹の着替えを自宅に取りに帰った彼女が、すでに戻ってきていたのだ。

 大方、風呂場から聞こえた音に反応して、脱衣所に駆け付けたのだろう。

 そして、僕が風呂場の戸を開けた姿を見てしまった。

「ほーんと、無事で何より……っ。安否の心配をするのも、当然だよ……けど」

 眉間をピクピクと動かしながら、嘉穂が僕のもとへと歩み寄る。

「遠慮も躊躇いもなく、女の子が入っているお風呂場の扉を勢い任せに開けるのは……いささかどうかと思うなぁ……?」

 本能的に彼女から目を逸らし、正面を向き直す。

 が、またも忘れていた。

 僕の正面には、床に倒れている姉貴と――瑠奈ちゃんがいた事を。

瑠奈ちゃんは避難するように、湯船に体を沈めていた。

 胸を隠すように腕を組んで、正座している。

 僕に裸を見られたのが恥ずかしかったのか、それとも風呂場の熱気によるものか、頬が真っ赤に染まっていた。

「いつまで……見てるんだああああ――――っ‼」

 頭部を両手で掴まれて、首をグリンと捻られる。

 瞬間――僕の頬を目がけ、横から物凄い勢いの平手打ちが飛んでくるところまでは、確かに視認できた。が、視界は一瞬で真っ暗になる。

 バスケ経験者が放つ平手打ちは強力なもので、ボールに見立てて打ち付けられた顔面はただじゃ済まない。

 凄まじい威力――女子から受けた一発で、僕はあっさりと吹っ飛んだ。

 僕は姉貴の腹の上に尻から突っ込み、それをもろに食らった彼女は「ぶふぉっ!」と間抜けな声を浴室に響かせて、そのまま目蓋を閉ざす。

煤咲姉弟は二人揃って、仲良く制裁を受けた。

 以後の記憶は、もう覚えていない。

 その代わり、僕の脳にはしっかりと、それはもう、解像度抜群で――


 瑠奈ちゃんの裸体だけが、鮮明に焼き付いていた。

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