第2話 書道少女の起筆

 世間的に言えば……例えばテレビの向こう側の世界の話では、二世タレントやら歴史上の偉人の末裔だとか、話題性に満ちた生まれながらの「勝ち組」が多く存在する。

 あとはなんだろう、オリンピックやワールドカップなんかのスポーツから芸能界で活躍する人材が現れたり、可愛らしいモデルがトーク番組に出演して一世を風靡したり、アイススケートや将棋なんかで、何かしらの偉業を成し遂げて有名になる人もいる。

 他にも様々なルートがあるのだろうが、この「テレビの向こう側の世界」という一括りだけであっても、人様から認められて賞賛を浴びるような人達だらけである。

 そして、それと同じか、あるいはそれ以上に――まだ世に出ていないだけのダイヤの原石のような者達も、世界にはたくさんいるはずだ。

 ただ、いくら輝かしくなりうるダイヤの原石がいたとしても、その人が「表立てる機会」を得られない場合、本来の価値に気付いてもらえずじまいになる。

 そう考えると、僕の持つ「才能」なんて周囲の人達に比べれば稚拙なものだし、メディアに注目すらほとんどされない分、今後輝けるチャンスなんてないに等しいだろう。

 まぁ、その「才能」なんて過大評価して言ったそれすらも、人に誇る事なんてできないような「特技」程度のものである。

 僕――煤咲貫之は、書道が得意な男子高校生。

 タレントの子供や偉人の子孫ではなく、スポーツや勉強が得意なわけでもない。仕事に活かせる派手な特技もなければ、容姿も並み。笑いを取るセンスも乏しい。

 書道が多少できるだけでは、金も栄誉も得られない。

 地味で退屈で道具の手入れが面倒なだけの売れ筋のない芸術――それが「書道」という名の、表舞台では全く注目されない文化なのである。

 その程度の特技しか持ち合わせていない僕なんかには、世間に注目される機会なんてものは一生舞い降りてくる事もないだろう。

 きっと生涯、このただ凡庸な日々を送るのみ。……けれど、そんな僕を「すごい」とお世辞抜きで心から称賛する変わり者が、僕の隣にはいつもいた。

「貫之はすごい人なのに、どうしていつも本気を出さないかなぁー」

 書道部所属の幼馴染み、金城嘉穂。

 書道部の活動を終え、僕と嘉穂は二人並んで帰路を辿っていた。

 現在、季節は十一月。

 最近は日が沈むのもかなり早くなり、夕方にはすでに空が紺色に染まり始める。

「僕よりすごい人なんて、この世にごまんといるだろ。嘉穂がどうして僕なんかをそこまで推すのか、いつまで経っても理解できないな」

「もぉー。またそうやって自分を過小評価してさー。それ、貫之の悪い癖だよ?」

 その過小評価が妥当という事に、こいつはなぜ気が付けないんだ?

「高校生でここまで上手い人、なかなかいないと思うけどなぁ」

「いや、ざらにいるだろ」

「うわー、また謙遜しちゃってるよ。嫌味な奴ーっ」

 謙遜でも嫌味でもないんだけどなぁ……。

「だけど、やっぱり貫之には才能があるよ。凡人がひた向きに努力しても届かないくらい、頭が何個も飛び抜けてるよっ!」

「随分と過大評価が過ぎるな……」

「家柄だってすごいし、やっぱり血筋もあるのかな? 書道の才能って、DNAとかにも関係あるの?」

「知らねぇよ。それに、僕の家柄は大したもんじゃない」

 これも謙遜ではなく事実である。

 僕の家柄は至って平凡だ。一つだけ他の一般家庭と比べての違いを挙げるなら、うちが根っからの「書道一家」だという点くらいだろう。

 父、母、姉、そして僕の四人家族――僕達は全員、何かしらの形で書道に関わりを持っていた。

 父は高校の書道講師で、僕の通う和澄高等学校の書道部顧問にも就いている。まぁ要するに、父にとって僕と嘉穂は直々の教え子でもあるのだ。

 親が自分の通う学校の先生というのは何かと融通が利くし、話が通しやすいのは便利ではあるのだが、良い面ばかりではない。

 なぜかと言われれば、父は「書道部に入りたくない」と入部を拒んでいた僕を、廃部回避のための要員にした張本人だからだ。勝手に僕の部活動入部申請のプリントを記入して判子を押した挙げ句、自作自演で入部申請を受理してしまった。

 あんな過疎部活に、一体どれほどの思い入れがあるのだろうか?

 そんな父のパートナーである母は、自宅で書道教室を開き、先生をしている。

 下は六歳から上は五十六歳。幅広い年齢層の生徒を抱えて、月曜から土曜日まで書道の指導に明け暮れている。

 大変そうではあるが書道でお金を稼げている事には生きがいと楽しさを感じているらしく、苦痛にはなっていないようだ。趣味と仕事の両立を見事にしている。

 そして姉は、将来的に父と同じく学校の書道教員になる事を夢見て、書道の専門学校に通って腕を磨いているそうだ。

 それと、小遣い稼ぎの一環で母の書道教室でアシスタントもしている。バイト……というより、お手伝いと言った方がいいのかもしれないが。

 人の趣味や仕事にケチはつけたくないし、当人が好き好んで書道をするのは構わないのだけれど、家族だからといって僕まで巻き込まないでほしいものだ。

 書道一家であるがために、半ば強制で書道教育を徹底されて育てられてきた身にもなってくれ。……誰もなりたくないですよね、分かります。

「勿体ないよね、本当に貫之はさ」

「……何がだよ?」

「折角 《日進書道》で資格も取得したのに、脱会しちゃうんだもん」

 嘉穂の言う《日進書道》とは、僕の母が開いている書道教室の本元。

 正式名称――公益財団法人、日進書道団体。

 多くの有名書道家を排出していて、僕の母と姉はこの団体に所属している。

 僕も中学生の頃までは所属していたのが、現在は脱会済み。何の未練もなかった。

「賞とかたくさん受賞してたよね。よく覚えてるよ」

「そんな昔の事、もういいだろ……。親に勝手に入会させられただけで、実際やりたくてやってたわけじゃないんだから」

「すっごい注目されてたの、アタシ知ってるよ? 記者さんからインタビュー受けて、新聞に載った事もあったよね。その記事の見出しに書いてあった貫之の異名……何だったっけ? えっと、確か『若葉の……」

「おい、本当にやめてくれ……」

 嘉穂がその異名を言い切る前に、僕は発言を遮った。

 今更になって、そんな話はしたくない。何が楽しくて、そんな過去の栄光にすらもならないような自身のしょうもない結果を思い出さなくてはならないのだ。

「でも、本当にどうして辞めちゃったの?」

 この質問も、毎度毎度の会話の流れで幾度となく嘉穂にされてきた。

 あまり詮索されるのが好きではない僕は、いつものように簡潔に、

「才能がない事を自分で理解していたから、辞めたんだ」

 こういった抽象的な物言いで、なんとなくはぐらかす。

 才能のなさ、自分の無力さを知ったから、僕は筆を置いた。

 正直、これ以上多く語っては自分の心が持ちそうにない。誰にだって触れられたくない過去くらい、一つや二つは胸の奥に隠しているものだろう。

 嘉穂は僕の心情を察したのか、「そっかぁ」とわざとらしくアホみたいな返答で会話を終わらせた。

 そのまま会話は途切れ、しばらくすると僕と嘉穂の帰路が分かれる地点まで辿り着く。

「じゃ、また明日」

 僕は嘉穂の顔をろくに見ないまま、手をひらひらと揺らして自身の帰り道を進んでいく。が、そんな僕に「ちょっと待って!」と彼女は背後からストップをかけた。

 道中なのだから、大声で呼び止めるのはやめてもらいたい。そうでなくても甲高くてよく通る声質なのだ。近所迷惑になる事、間違いなしである。

「言い忘れてたけど、今日、貫之ママのとこに書道体験しに行くからっ!」

「は……はぁ!? 何だよ、それ! 唐突すぎるだろ!?」

 書道体験とは、簡潔に言うと「お試し」である。

 《日進書道》では最高四回、実技練習メインの書道体験を無料で受けられる。

 ちなみに嘉穂は、《日進書道》に入会した事はこれまで一度もない。

 今後入会し、本格的に書道に身を投じるつもりなのだろうか? 今時の女子高生がハマるほど、書道って魅力的だっけ? 書道がインスタ映えの流行になっているとか?

「書道体験って完全予約制だったと思うけど……まぁ、嘉穂の頼みって言えば、母さんも承諾してくれるかもしれないな……」

「ああ、平気平気っ! もう電話予約してあるよっ!」

「いつの間に!? 何一つ聞いてないぞ!?」

「言ってなかった、って言ったじゃん?」

 いや、言えよ……。ていうか、母さんも僕に一言言ってくれてもよかっただろ。

「あっ。勘違いしてるかもだけど、アタシが体験するわけじゃないからね?」

「……? なんだ、お前じゃないのか。……じゃあ、一体誰なんだ?」

「今は秘密! 後のお楽しみ、って事でっ!」

 それを秘密にする意味がよく分からん。

「とりあえず一度帰ったら、予約してる子と一緒に書道教室に向かうねーっ!」

 そう言い残して、嘉穂は足早にその場から去っていった。


        ☆

 大手書道団体 《日進書道》——支部 《煤咲教室》。

 どこにでもあるような二階建ての一軒家。一階の角にある比較的広めの和室が、我が家では書道教室として使用されている。

 教室内には脚の低い長机が六つ置かれ、指導者を除くと一度に計十二人まで室内入り可能。営業時間は月曜から土曜の十三時から二十時。月の初めに五千円の月謝を払えば、営業日なら何日間でも教室を出入りできる。

 時間の融通が利く事から、《煤咲教室》にはたくさんの生徒達が集まっている。

 指導者である僕の母――煤咲舞姫の「一人一人に寄り添い、根気良く!」という指導方針も相まって、リピーターは徐々に増え続けているようだ。

「……金、欲しい……」

 下校時に嘉穂と分かれてからも寄り道する事なく家路を辿り、自宅に到着してからかれこれ三十分が過ぎた頃。

 僕は二階の自室にこもり、ベッドの上で嘉穂の訪問を待ちながら、夢の世界に堕ちていた。部室での睡眠を邪魔された事もあって、今日はいつも以上に強い睡魔が自宅に辿り着いたと同時に襲いかかってきたのだ。

 ふらついた足取りでベッドに制服のまま倒れ込み、睡魔に抗う事もせずそのまま眠りにつき、間抜けにも物欲を寝言で呟きながら、至福の瞬間を夢の中で噛みしめていた。

「ユキ君、早く起きなぁー?」

 起床を促す声と共に、艶かしく甘い吐息が、僕の耳の奥に吹き込まれた。

 一瞬ビクリと体を激しく震わせて、目を覚ます。

 ベッドの横には、膝立ちをしながら僕の耳元に唇を近付けている女の姿。

 寝起きという事もあって視界はボヤけていたが、その声の主が誰かはすぐに分かった。

 彼女から若干の距離を取り、寝惚け眼を制服の袖でゴシゴシと擦る。ようやく目が慣れてくると、視界にはニヤリと不敵な笑み浮かべる人物が鮮明に映った。

 そこにいたのは、金城嘉穂――ではなく、僕の姉、煤咲歌余。

 髪色は白髪で、前髪で左目が隠されている姿がデフォルト。無論、二次元のキャラクターのように生まれながらにして白髪というわけではない。高校卒業後に書道系統の専門学校に進学したと同時、自らの意思で書道とは対極的に思える髪色に仕立てたのだ。

 本人曰く、柔毛筆の一種である「羊毛筆」を意識しての髪色らしい。

 柔毛筆とは、動物の柔らかい毛で作られた筆の事だ。羊毛筆は、その名の通り山羊の毛で作られた筆である。

 言われてみれば、姉貴の髪はふんわりとした柔らかな髪質をしている。未使用の真っ白な羊毛筆に比喩しても、さほど違和感はないだろう。

 ただ髪色への違和感はないとしても、平然と弟の高校指定ジャージを着衣している姉への違和感は、払拭し切れないのだが……。

 姉貴のたわわに実った胸によって、ジャージの胸元に刺繍された「煤咲」という文字は、大きく横に広がってしまっていた。このままでは胸回りだけ伸び切ってしまいそうだ。

「相変わらず、クマがひどいねぇ。普段しっかり睡眠取ってるの?」

 脱力した口調で、僕に問う。

「今日はろくに取れてない。今朝と授業中と部活中、今日だけで計十六回の睡眠妨害を身内やら教師やら部活動仲間から食らってたし」

「授業中と部活中で睡眠時間を確保しようとする姿勢は感心しないなー。いっつも夜更かししてるから、睡眠不足になるんだぞー?」

 僕は「うるさいな」と姉貴に聞こえないくらいの声量でぼやき、上半身を起こす。

「相変わらず、股間もひどく荒れてるねぇ。毎日ちゃんとヌいてるのー?」

「いきなり真顔で何言ってんだ!?」

「股間がマグナムしかけてたから、つい」

 姉貴が僕の局部を凝視している事に気が付き、慌てて多少膨れたナニかを両手で覆うように隠した。寝起きなのだから仕方ない。生理現象に抗えるはずもない。

「どうして弟の股間に真顔で熱い視線を向けちゃってんだよ……!?」

「ん? 剥けちゃってるの? 一年前は皮を被ってたのに」

「そっちのムケじゃねえよ! つか、一年前の弟のイチモツ事情をどうして姉貴が熟知してるんだ!? 見せた覚えはねぇぞ!?」

「何言ってるのー。深夜にユキ君が、うちに自分から見せてくるんじゃんー?」

「そんな記憶はねぇよ! 寝惚けててもやらない自信があるわ!」

「そう思えているうちが幸せ、か……」

「すげー不安になるんだが!? 嘘だよな? 嘘だと言ってくれ、頼むから!」

「深夜のユキ君はすごいよ? 人間としての尊厳を含めてお姉ちゃんに全てを委ねてくるくらいだし。おかげでうち、深夜帯はユキ君を手玉に取ってるも同然だよ。……あ。一応言っとくけど、今の『手玉に取る』っていうのは別に下ネタじゃないよ?」

「知ってるわ!」

 ドストレートに下ネタを連呼しないでいただきたい。

 基本はおおらかで面倒見の良い姉なのだが、弟に対して下ネタを連呼する悪癖は何とかしてほしいものだ。

「ふふ。ユキ君は反応が面白いから、からかい甲斐があるねぇ。顔、真っ赤だよー?」

「本当、いい歳して弟で遊ぶのはやめてくれよ……」

「ちんぽの先端も真っ赤だよー?」

「本当にやめてくれよ!」

 小悪魔のように微笑しながら、僕の反応を楽しむ姉貴。

「あ、そうだ。うち、お母さんからユキ君に伝言があってこの部屋に来たんだった」

「……伝言?」

「『お客さんが待ってるから、早く一階に来て』だってさー?」

「伝えるの遅すぎるだろ!」

 伝言を受けるなり、僕はすぐさまベッドから下りて、ドタバタと行動を起こす。

 わざわざ僕に客人の来訪を知らせるという事は、相手はおそらく……いや確実に、来訪者は金城嘉穂だろう。こんな姉貴の無駄話に付き合っている場合ではなかった。

「無駄話してないで、さっさと一階に行きなねー?」

「あんたのせいだろうが!」

 僕の姉貴に対する叫び声は、きっと一階にまで轟いていた事だろう。

 勢い良く部屋の扉を開け、僕はバタバタと騒々しい足音を立てながら階段を一段抜かしで駆け下り、教室の襖前へと向かった。

 襖の前に到着するなり取っ手に指を掛けて襖を開けようとする僕だったが、脳裏を過った嘉穂との下校時の会話を思い出し、取っ手に掛けた指を一度離す。

「そういえば、今日は嘉穂以外にも人が来る……って言ってたよな」

 だとすれば、こんな慌てた様子で対面するのはよろしくないだろう。

 初見の印象を悪くするわけにもいかないし、何よりここの「生徒」になる可能性が少しでもあるのなら、その人は母の商売相手。顧客。資金源。生活する上での必要人員。

 僕は呼吸を整え、普段ほぼ動かさない口角を上げて、精一杯の営業スマイルを繕った。

 制服の襟を正し、自身の状態をより完璧にしてから軽快に三度ノックする。

 再び襖に指を掛け、ゆっくりと横にスライド。流れるように「失礼します」と教室内の客人に頭を下げて、挨拶した。

「はははっ! やっぱ貫之には丁寧語も改まった動作も、全く似合わないね!」

 場を一切弁えないようなハツラツとした声に、僕は「うるせぇ」と小さく呟いて顔を上げる。そこには幼馴染みであり部活仲間、金城嘉穂の姿があった。

 胡座をかいて体を左右に揺らしながら、彼女は僕を指差して笑顔を弾けさせている。

 一時帰宅したというのに着替えもしていないようで、未だ嘉穂は制服に身を包んでいた。まぁ、制服姿でさっきまで眠っていた僕が言えた口ではないのだけど。

 脚の低い六つの長机。壁に飾られた生徒の毛筆作品。かなり質素な教室ではあるが、ショーケースに収められた母、姉、僕が各々勝ち取った書道関連の盾にメダルと、周囲の壁面に所狭しと掛けられた額入りの賞状だけを見れば、ある意味壮観にも思える。

 質素な書道教室を偉大に魅せる数々の賞のすぐ側には、書道教室の師範である僕の母専用の座席が置かれている。

 作品を仕上げた生徒はこの席に訪れて、師範に作品の評価、訂正ポイントのアドバイスを受け、座席に戻りまた書いて、二度三度と何回も繰り返し、紙の上で筆を走らせる。

 そして今日も普段通り、その座席には僕の母――基、この《煤咲教室》教室長、煤咲舞姫の姿があった。

「まったくぅ。ちょっと到着が遅すぎないー?」

 と、思わず気が抜け落ちそうになるほどふわふわした声音で、母さんが僕に言う。

「今回は姉貴のせいだって……。部屋に来てもなかなか用件を言わなかったんだから」

「もぉー、歌余のお喋り癖にも困ったものねぇ」

 僕としてはお喋り癖よりも、弟に下ネタを浴びせる癖女気質に困っているのだが……。

 母さんは髪を耳に掛け、小さく溜め息をついた。

 息子の僕が言うのも変な話だが、母さんの髪を掻き上げる仕草は妙に絵になる。

 気品のある袴にさながら質の良い筆のように艶やかな黒髪長髪の、近所でも評判な和風美人。書道の実力もその風貌に見劣りせず、書道界隈でも多少名が知れている。

 母の実力を《日進書道》内での地位で表すと、段数は《七段》で段位は《研究師範》。

 段数と段位は書道教室設立後から昇格試験に挑んでいないため変動していないが、キャリアと技術は相当なもの。《研究師範》の地位にまで辿り着ける人自体が稀有なのだ。

 《日進書道》内での階級は全部で――――

・初級師範(《初段、準二段》所得者)……有段者を除く小学生以下に指導可能。

・中級師範(《二段、準三段》所得者)……有段者を除く中学生以下に指導可能。

・高級師範(《三段、準四段》所得者)……有段者を除く十八歳以下に指導可能。

・成級師範(《四段、準五段》所得者)……有段者を除く全年齢に指導可能。

・有級師範(《五段、準六段》所得者)……有段者を含む全年齢に指導可能。

・研究師範(《七段、準八段》所得者)……有段者を含む全年齢に指導可能。

・総統師範(《八段》所得者)……有段者を含む全年齢に指導可能。

・伝承師範(特別階級。八段所得者が特別認定試験を受ける事により昇格可能)

 ――という八つに分類されている。その中でも《研究師範》はかなりの上位階級。

 ちなみに僕の階級は《初級師範》で、姉貴は《高級師範》に位置している。

「あ、そうそう貫之。今日はパパ、定時で帰れそう?」

 母さんは凛々しく座布団の上に座ったまま、父の帰宅時間を確認する。

「部活終わりに聞い話だと、今日はいつもより早いってさ」

「よかったぁ。今日は久々、パパとベッドでインしたいと思ってたところなのよぉー」

「いきなり何言ってるの母さん!?」

「何って、夫婦の夜の営みの事よ?」

「いやそれは知ってるけど、それをわざわざ息子がいる前で言ってくんなよ⁉ しかも今は客人だっているんだぞ!?」

「客人なんて改まって……幼馴染みでしょ?」

「幼馴染みでも、客は客だ!」

「もぉ、そんなに怒鳴り散らさなくてもいいじゃない。はしたないなぁ」

「はしたねぇのはあんたの発言だよ!」

「そんなに興奮して……もしかして、ママがパパに取られちゃうのが寂しいの? でもダメよ、近親相姦はさすがに……ごめんね、応えてあげられなくて」

「頬を赤らめながらモジモジすんな!」

 下を向いて両手の指先を交じり合わせながら、母さんは唇を尖らせる。

 下ネタを下ネタと思っていないかのようにナチュラルに下ネタを吐く母に、せめて客人の前では自重してほしいと願うばかりだ。

 おそらく姉は、この母の遺伝子をもろに吸収したのだろう。しかし、姉貴は下ネタを自重する理性は一応持っているようだから、まだマシである。母さんの発する下ネタは、自然……会話の中からごく普通に発せられるため、姉貴より数倍タチが悪い。

 由緒正しき書道一家であるはずの我が家に、二人も癖女が潜んでいる事態。

 思春期に入った辺りから僕の脳内の奥底に根付き続けている、かなりディープな悩みの一つである。

「でも、ママもやっぱり女だし、二週間もシていないとなると、ちょっと疼いちゃ……」

「その話題をまだ続ける気なのか!?」

「そうそう! 今日はアタシ以外もいるわけだし、ちょっとママさんもその辺でっ!」

 僕が母さんの発言を遮った後、続いて嘉穂が仲介に入る。

「まぁ、そうね……この話は夕食の家族団欒の場でねっとりと話す事にしようかしら」

「それを言うならじっくりとだろ。……それと、話さないでくれ」

「しっぽりと、の方がよかった?」

 だんまりと、が一番望ましい。

「それで、嘉穂。書道体験参加者は今どこにいるんだ?」

「え、何? 貫之、気付いてなかったのっ!?」

 目を丸くして驚きをあらわにし、「もっと気を張ってなよー?」と余計な一言を付け加えながら、嘉穂が人差し指で母さんが座る方向の真逆を指差した。

「…………っ!?」

 指先の導く方には、一人の少女。母さんの席の反対側にある生徒用座席――そこの一番隅。座布団の上で行儀良く正座をし、彼女はひっそりと本を読んでいた。

 僕はその存在に、今の今まで一切として知覚する事ができなかった。

 この教室に入室してから、少女は一言も声を発さなければ、物音一つを立たす事さえもなく、ひっそりと……まるで影のように、読書に没頭していたのだ。

 少女自身が物静かすぎるゆえに目立たなかったからか、もしくは入室時に正面で胡座をかいて座っていた嘉穂の目立ち様によって少女の存在が薄れてしまっていたのか。

 理由が後者だとしたら、それも仕方ないのかもしれない。さながら太陽を擬人化したような天真爛漫キャラの嘉穂は、その場にいるだけでも一気に周囲の視線を集める。こいつの前では、大抵の人がその明るさによって存在を眩まされてしまうだろう。――だが。

「待てよ……君、もしかして……!?」

 数十秒前まで少女の存在にすら気が付かず、認識した時には内心激しく動揺してしまっていた僕だったが、平静を取り戻していく中でその少女が誰か、ようやく思い出した。

「君は、瑠奈ちゃん……だよね?」

 僕に名前を呼ばれて、一瞬少女はピクッと肩を揺らした。長机に置いてあった栞を手に取り、読みかけの本に挟んでからゆっくりと本を閉じる。

 文学少女――金城瑠奈は間を少し開けるも、一度しっかり僕の問いに頷き、

「……お兄さん」

 と、ギリギリ聞き取れるかどうかの微かな声で、僕をそう呼んだ。

 無表情で、無口で、無駄な動作が一切ない機械的な反応。……懐かしい。小学校高学年の頃に瑠奈ちゃんと対面した時と、同じ感覚だ。何一つ、変わっていない。

 僕はこのいくつもの「無」の集合体のような少女と面識がある、が……それもそのはずだった。

 何しろこの子は、僕の幼馴染みであり、今尚関わりが深い騒々しい女……この教室で未だ胡座をかいている不躾なアホの親族。


 金城嘉穂の――妹なのだから。


 感情を表に出す事が苦手で、口数も少ない。基本的に無表情。社交性はほぼゼロ。一見、学校での休み時間は一人ずっと本を読んでいるような、どこのクラスにも一人くらいはいる地味なタイプ――しかし、彼女は小学生ながらに独特なオーラを纏っていた。

 黒髪ボブと大人っぽい印象のカジュアルコーデに、印象的な丸メガネ。

 最後に瑠奈ちゃんと会ったのは確か彼女が小学校低学年の時だったが、当時から瑠奈ちゃんはそこらの子役やアイドルが顔負けしてしまうくらい、淡麗な見た目をしていた。

 高学年になった今でも、その美少女っぷりは変わらない。むしろ、人間離れした彼女の魅力が成長過程の中で底上げされているような気さえする。

「昔も可愛かったけど、見違えるように一段と可愛くなったね……。驚いた」

「…………」

 僕はつい、率直な感想をその場で瑠奈ちゃんを前に言ってしまう。ただ、そんな発言に動揺する様子も否定する様子もなく、瑠奈ちゃんは顔を俯かせた。

 照れているのか……? うん、照れているように見える。表情からは感情をまともに読み取れないため、動作からしか心情の推測ができないけれど。

「……嘉穂。瑠奈ちゃんがこの場にいるという事は、書道体験希望は彼女なのか?」

「それ以外ありえないでしょ!」

 なるほど……嘉穂の事だから、《日進書道》に入会する可能性がある瑠奈ちゃんを僕と久々に再会させ、一言挨拶をさせたかったのだろう。今日まで僕に一言も瑠奈ちゃんが来るという事を告げていなかったのは、嘉穂のサプライズ精神だろうか。

「……それじゃ、僕はそろそろ行こうかな」

 この状況に到ったまでの経緯を推測した後、僕は首をコキコキと左右で鳴らし、襖に向き直した。挨拶が済んだのなら、僕への用件は終了。思い出話に華を咲かせて談笑を楽しむのも悪くないが、それでは書道体験をしに訪れた瑠奈ちゃんの目的から逸れてしまう。

「久々に会えてよかったよ。頑張ってね、瑠奈ちゃん」

 無言でこちらを凝視していた瑠奈ちゃんにひらひらと手を振りながら、僕は襖の取っ手に指を掛けた。

「ちょっと待って、貫之」

 襖を半分程度開いた時、嘉穂が僕の背中を呼び止めた。

「用件、まだ済んでないんですけど?」

「……? 僕にまだ用があるのか?」

「アタシとしてはないよ。貫之に用件があるのは、アタシの妹」

 そう言われて、僕は頭上に「?」を浮かべながら瑠奈ちゃんに視線を向ける。

「僕に用って、何?」

「…………」

 応答はない。しかし、瑠奈ちゃんは口を閉ざしたまま、何か伝えたげに薄ピンク色の唇をモゴモゴと動かした。よく見ると少し顔も火照っている気がしなくもない。

「瑠奈ちゃん、貫之に初仕事の依頼があるのよねぇ?」

 直後、瑠奈ちゃんに助け船を出すように、穏やかな口調で母さんが口を挟んだ。瑠奈ちゃん本人も、コクンと頷く。そして覚悟を決めたように、僕の瞳をジッと見つめてきた。

 期待と羨望が織り混ざった、ジリジリと静かに燃える眼差しを向けての懇願。

「……書道の指導、お願い、お兄さん。……ううん――『せんせー』……」

 わざわざ「お兄さん」を訂正し、瑠奈ちゃんは僕を「せんせー」と呼び直す。

 抑揚のない、平淡な口調。その表情は冗談でも冷やかしでもなく、明らかに本気の顔。

 そもそも瑠奈ちゃんは冗談を言うタイプではないのだから、この発言が真剣そのものの言葉である事は容易に分かった。―—だからこそ、僕は自分の耳を疑った。

 書道部に所属しているというだけであって、筆をまともに握ろうともしない僕に対しての指導依頼。違和感を抱くのも当然だし、何と返事をするのが正解かも分からない。

 結果、瑠奈ちゃんがおそらく相当の勇気を込めていたであろう発言に対して、僕はしばらく静止する事を余儀なくされ、

「……へ?」

 そこから辛うじて絞り出した声は、セリフにすらもなっていない、情けなさ溢れる動揺に満ちた一文字であった。


「とりあえず、下準備を始めてくれ」

 僕の指示に声ではなく、瑠奈ちゃんは行動で応える。

 自前のトートバッグから書道道具を取り出し、そそくさと準備に取りかかった。汚れ対策に新聞紙を机上に、その上から黒の下敷きを敷く。シワを伸ばし、丁寧に。

 「どうして僕がこんな事を……」という感情を心で圧し殺し、瑠奈ちゃんの準備行程をぼんやりと眺めた。

 数分前と打って変わって談笑の声がすっかりと消えた、煤咲家の書道教室。

 僕は瑠奈ちゃんと長机を挟んで向かい合い、座布団の上で正座を組んでいた。……無論、会話はない。

 僕はこれまで、瑠奈ちゃんとまともに話をした記憶が一度もない。だというのに、今後「せんせー」としてどう接していくべきか、先が思いやられる一方だった。

 ――先生。センセイ。せんせー……か。

 悪くない響きではあるが、そんな大層な役、僕は一切やりたくなどなかった。瑠奈ちゃんから指名を受けなければ、こんな面倒事を請け負う事なんて一生なかっただろう。

 どうしてだかは知らないが、瑠奈ちゃんは僕を指導者として指名した。この《煤咲教室》教室長である母さんでもなければ姉貴でもない、この僕を――だ。

一応ではあるが、僕は中学一年生までの間にそこそこの実績は上げている。しかしながら、指導者としては一切活躍をしていない。というか、指導者活動はしていない。

 一般的に考えたら……というより、僕からしても「なぜに僕?」となる指名であったわけだが、この件についての母さんの見解は「今の貫之は《日進書道》は脱会しているけれどぉ、段数は《初段》でしっかりと《初級師範》の認定も貰ってるんだし、問題ないんじゃあないかなぁ?」との事。楽観的すぎる。いや、いい加減と言ってもいい。

 これが見知らぬ人からの指名なら迷わず丁重にお断りしていたところだが、相手が瑠奈ちゃんという事もあり、僕も渋々請け負う事にした。

 流れからして《日進書道》入会は確定だろう。……つまり、瑠奈ちゃんが僕の初めて受け持つ正式な担当生徒になるという事。

 僕も多忙な高校二年生。僕が不在の時は母さんと姉貴が面倒を見るだろうが、それは言い訳にできない。担当を引き受けた以上、瑠奈ちゃんの上達は僕の指導次第と言える。

 折角、瑠奈ちゃんの親御さんが入会金や月謝を払ってまで娘を預けてくれるのだ。最低限の結果以上を残させるのが僕の義務であり、指導者としての筋であろう。

 僕が作品を仕上げるわけではないし、指導なら安心して挑める。……けれど。

「……どうしてこう、息子に指導権を全部委ねちゃうかなぁ……?」

 瑠奈ちゃんに愚痴るわけではないが、ついついそんな不満を漏らしてしまう。

 母さんはキッチンで夕飯作り。姉貴は僕の部屋に訪れたままベッドで睡眠中。

 初めての書道指導を任され、僕だって到らない節が多々あると思われる。うん、絶対にある。少しは僕に指導の仕方をレクチャーしてくれてもいいだろ、教室長さんよぉ?

 挙げ句の果てには見たいテレビドラマがあるとかで保護者代わりの嘉穂も早々に帰宅し、指導ついでに瑠奈ちゃんの送迎役も自然と僕がするハメになってしまった。

 ……まったく、どいつもこいつも僕の周囲にいる人間は自由人すぎる。責任感が妙に強い僕には、ついていけそうにない。

「……二人だと、居心地……悪い?」

 僕の表情から何かを感じ取ったのか、瑠奈ちゃんは準備を進めながらどこか心配そうに僕に話しかけた。

 思えば、これが初めて受ける彼女からの質問だ。けど、まさか初質問がこんなネガティブなものとは……。小学生に気を遣われ、情けなさが込み上がる。

「いや、そんな事ないよ。今後どう指導をしていこうか、少し迷っていただけ」

「……そう」

 瑠奈ちゃんの声音が少し和らいだ。成り行きとは言え、今日から僕はこの子の先生。気合いを入れないといけないな、僕の精神が参らない程度には……。

 改めて背筋を伸ばし、瞑想に入る。気持ちを落ち着かせながら、瑠奈ちゃんが準備を終える瞬間までしばらく待機し、

「……整った」

 という彼女の声と共に、僕は目を開いた。

 新聞紙の上に下敷き。文鎮に液体墨の注がれた硯。黄色の筆菅に狸毛・イタチ毛で作られた黒茶色の穂が印象的な学童用の太筆と小筆。

 机上には書道道具が几帳面に並べられている。瑠奈ちゃんが座る座布団の隣には五十枚はある半紙の束が用意され、準備万端のようだ。

「よし。それじゃあ早速一枚書いてみて。実力を、まずは知りたいからさ」

「何を書けば、いい?」

「そうだな……まずは四字熟語を書いてみようか。好きな字でいいよ」

 手本に習わせず、まずは素の字を見る。そうすれば、彼女本来の字の型、癖、センスが浮き彫りとなる。手本をただ書かせるだけでは、猿真似同然だ。

 それなりの模写ができる人ならいくらでもいるが、本当の重要なのは個性――自分の字の長所をどれだけ伸ばせるかが、書道の醍醐味なのだ。

 卓越した技能を持つ者から技術を学んで作品制作に取り入れる事は大切だが、書道を極める事の本質は「自分自身の字を磨く」事。

 それを加味した上で、僕自身も指導方針を築いていくとしよう。

「……分かった」

 瑠奈ちゃんは一枚の半紙を手に取ると角と角を重ねて折り、折られた半紙をもう一度同じように角同士を合わせて折った。半紙に十字の折り目を加え、下敷きの上に置く。

 この折り目は文字を書く上で、大切な目安となる。初心者は字のサイズ感が上手く定まらず、半紙から字がはみ出て書き切れないというミスを起こしやすいのだ。

 次に太筆の穂を墨池に注いだ液体墨に浸し、丘で余分に浸けすぎた擦り墨を落とす。

 書くまでの基本工程は問題ないだろう。小学校の習字の授業で基礎中の基礎は教えられているはずだし、大して心配はしていなかったが。

 瑠奈ちゃんは左手で半紙を押さえ、右手に太筆を持って穂先が半紙と垂直になるように構える。

 書き出しの一筆目で、作品の仕上がりは大きく変わる――が、腕を浮かして筆を持っているため手が微かに震え、最初に筆を入れる位置がなかなか定まらない。

 腕の筋力がまだ弱い瑠奈ちゃんには、腕を浮かしたまま筆を動かす事自体が大変だ。だというのに、彼女は自身の腕の重みに必死に耐えながら筆を握り続けた。

 一球入魂ならぬ、一筆入魂。

 スポーツ選手にも匹敵するほどの、並みではない一筆目への集中力。瑠奈ちゃんの集中力と書道に懸ける熱意が、ヒシヒシと場の空気にまで伝ってくる。

 緊張感高まるワンシーン――しかし僕は、この思わず息が詰まるような場面で、ある一つの違和感を心中に抱いていた。何なら「ちょっと書くのを中断してくれ」と言いたいところだったが、その時にはすでに、瑠奈ちゃんの一筆は半紙に墨の跡を残していた。

「…………」

 結局、僕は何も言わなかった。真剣そのものの表情で筆を握る彼女に、このタイミングでとやかく指示を与えるのは野暮だろう。

 それに今の瑠奈ちゃんは、僕の声に耳を傾ける余裕を持っていない。

 どうやら僕の想像以上に、小学生女子の力で腕を浮かせながら筆を扱うのはなかなかに辛いらしい。

 ゆっくりと筆を進める事ができず、彼女は無意識にも筆の動きを早めてしまっていた。

 それからわずか二分という短い時間で、瑠奈ちゃんの「試し書き」は終了する。

「……うっ、そう捉えちゃったかぁ……」

 書き終えた文字を改めて見ると同時に、僕は頭を抱えて唸り声を上げる。

 半紙に書き上げられた四つの漢字。右上に「四」、右下に「字」、左上に「熟」、左下に「語」―—『四字熟語』。

 彼女の試し書きを見ての第一声は、感想ではなく嘆息だった。

「えっと、瑠奈ちゃんは『四字熟語』っていう四字熟語が好きなの?」

「……? せんせーが『四字熟語を好きに書け』って、言ったから」

 つまり、瑠奈ちゃんは「好きな四字熟語を書いて」という指示を、「好きな書体で『四字熟語』を書いて」と認識してしまったのだろう。

 瑠奈ちゃんは無口無表情な女の子。意思疎通に疎い事は元々知っていたが、ここまでとは……。今後、より親密な先生生徒関係を築く必要がありそうだ。

 それはそうと、そろそろ真面目に「四字熟語」の評価に当たるとしよう。

 瑠奈ちゃんが書き上げた文字の書体は、「楷書」である。

 書体とは簡潔に言うと、文字の型。主に「楷書」「行書」「草書」「隷書」「篆書」といった、五つの書体に大きく分類される。

 中でも楷書は現代で最も標準的な書き方であり、書道に携わっていない人であっても日常的に扱っている書体のため、かなり馴染み深い。基本は学校の習字の授業でも書道塾の指導でも、大抵の初心者はこの楷書から練習を始めるはずだ。

 そして、肝心の評価だが――彼女の書いた字を見て真っ先に頭に浮かんだ評価のほとんどが、失礼ながら酷評と呼べるものであった。

 良く言えば疾走感溢れた四文字、悪く言うならば――粗雑。

 一つ一つの動きがテキトーと認識できるくらいに、丁寧さに欠けた歪な字体。

 揮毫における三大基本要素「とめ」「はね」「はらい」さえもが不完全。

 とてもでないが、基本の「キ」文字すらもこなせていない。だが、この字は決してふざけて書いた字ではなかった。

 「才能がない」という言葉で簡単に片付ける事もできない。……大きな違和感が、瑠奈ちゃんの書いた四文字から伝わってくる。

 書く寸前に気が付いた、未だ払拭されない違和感の正体――だが、僕がその原因を理解するのに、そう時間はかからなかった。

「なるほど……。瑠奈ちゃんは……『左』だったんだな」

 僕の言葉に口を微かに開き、彼女は驚いたようにほんの少し目を見開いた。

「……どうして、それを……?」

「ぎこちない筆の持ち方と、字のブレ方で気付いたよ。『ここが』とは明確に言えないけど、明らかに筆の扱いが不自然だったし」

 左――それは、利き手の話。

 本来、瑠奈ちゃんは左利き。左利きでありながら、右手で筆を握っていたのだ。

「普段から、右手を使って書いてたのか?」

「普段は、左」

 まぁ、考えてみればそうか。鉛筆やシャーペンにしろ、日頃から筆記用具を右手で持っていたなら、否が応でも右手でのペンの扱いが染み付くもの。文房具が筆に置き換わったとしても、上手い下手は置いておいて自然に書く事はできたはずだ。

「誰かに矯正を勧められたのか?」

「習字の授業で、担当の先生から」

 瑠奈ちゃんの通う小学校では基本どの教科も担任の先生が授業を受け持つが、体育、音楽、習字に限っては専門の先生が授業を行う。元は僕も彼女と同じ小学校に通っていた身だし、変更がなければ僕の代と授業の形式に変わりはないだろう。

「という事は、毎回習字の時間だけ無理して右手で筆を握っていたのか?」

 僕の問いに、彼女は首を横に振る。

「授業中は右手で書いてた。けど、全然綺麗に書けない。だから仕方なく、作品提出の日だけは左手で練習して、清書も左手で完成させてた」

 淡々と、瑠奈ちゃんは僕に説明した。

 ではなぜ、習字を担当する先生は瑠奈ちゃんに利き手の矯正を勧めたのか。

 僕自身この件に関して、否定は勿論、肯定も容易にはできなかった。その先生の助言は、決して間違いとは言い切れないからだ。

 世に溢れる物は右利き用に作られている事が多いが、これは字も同じ。

 ひらがな、カタカナ、漢字……どれも左から右にペン先を動かす動作が多い。

 文字の入り、はらい、はね等の単純な動きにしても、左手では筆の扱いがぎこちなくなり、上手く書けない事が多々ある。

 必然的に、左利きでは難点が生じる。左利きの人が書道をする時、最初にぶち当たる壁こそが、この「利き手問題」となるのだ。

 中には左利きから右利きに矯正をし、字を書く時だけは右手を使う……なんていう人がいる事もよく耳にする。書道家で左利きの人物も、かなり少ない。

 歴史から見ても、技能面から見ても、書道は右利きに有利な芸術だと言えるだろう。だから、瑠奈ちゃんに利き手の矯正を勧めた先生の判断は、間違っていない。――だが。

「瑠奈ちゃん。もう一度『四字熟語』と書いてくれ。今後は――左手で」

 あえて僕は、瑠奈ちゃんに左手での「試し書き」の令を下した。

 彼女は首を傾け、きょとんとした顔で僕を見つめる。

「……いいの?」

「僕が認める! とりあえず、一度書いてみてくれ!」

 何も模範に従うだけが、書道ではない。

 書道とは文字の美しさを表現する、平面芸術。型に当てはめるだけなら、それはただの模倣。自分のスタイルを築いてこそ、真の芸術だ。

 それに、人には向き不向きがある。この子が「左」の方が上手く書けると言うなら、僕は迷わず利き手を推す。

 瑠奈ちゃんは半紙に折り目を付けて、一枚目と同じように下敷きの上に広げた。

 太筆を左手で強く握りしめ、墨液を染み込まし、丘で毛先を整える。

 呼吸を整えて数秒――再び彼女は半紙と向かい合い、制作に当たった。

 一画一画、右手で書いた時よりも丁寧かつ慎重に、その筆を半紙の上で走らせる。

 体勢を反らしながら書いている様子を見ると、やはり「左利き」というハンデは感じてしまう―—ただ、それでも順調。手首を手前に捻らせ、とめ、はね、はらい等の各要点にもしっかりと対応している。書くスピードに到っても、走り気味にはならず十分に時間をかける事ができていた。右手と比べて断然、左手での方が筆を運びやすいようだった。

 そうして、本日二回の「四字熟語」が書き上げられた――が。

「……ううむ」

 その実力に僕はつい煩悶の声を漏らし、頭を捻った。

 どう指導をすればいいものか――と。

 左手で書いた方が上手い。一枚目と二枚目を一字一字比較しても、クオリティは雲泥の差だ。――しかし、それでも一般的に見たら「上手い」とはお世辞にも言えない。

 小学生相手に高度な技術を求めているわけではないが、だとしても「以前よりマシ」というだけ。

 率直に言って、この「試し書き」を見る限りでも、そこらの「今日から書道を始める小学生」より劣っている。

 これも「左利き」というハンデがあるからなのだろうか?

 左利きを武器にできたら、右利きには為せないような技術も会得できる。だが、それをこなすには少なからずのセンスが必要。やはり、右利きを推進するべきなのか……?

 体験初日から本人に率直な感想を告げるのは、気が引ける。だとしても、それを伝えない分には、何も始まらない。

 苦悶が僕の心情を埋め尽くしていく。ただ、そんな僕の内心なんて知る由もなく、考えをまとめているわずかな時間で、瑠奈ちゃんは新たな半紙を用意し始めた。

 所定の位置に半紙を置き、左手の人指し指を半紙の上で走らせながら、自身の持つイメージと書く手順を照合していく。

 左手で書きたいという彼女の意思が、行動から読み取れる。

 ならば僕は、それを手助けしよう。……瑠奈ちゃんの意思を尊重しよう。

「……よし。じゃあもう一度、利き手で書いてみよう。次は僕が左手で書く上でのコツと、この『四字熟語』の修正ポイントを教える」

 瑠奈ちゃんは半紙に添えた指を離し、行儀よく正座した状態の太股に手を置いた。

 「待っていました」とでも言いたげに、目線を僕に移す。

「……とは言っても、『習うより慣れよ』……だよな」

 いくら優れた技術を持つ人であっても、芸術を言葉で伝えるのは難しいものだ。そこで僕は、一つの「教え方」を試みた。

 その場から立ち上がり、瑠奈ちゃんの背後へと移動する。

「後ろから手、握ってもいいか?」

 聞きようによってはかなりセクハラじみたセリフだが、そんなつもりは毛頭ない。

 瑠奈ちゃんは僕の方を向いて、数秒視線を合わし、

「……いい」

 と小さく頷き、再度正面に向き直した。

 僕は瑠奈ちゃんの背後で膝立ちをし、小さな体を抱擁するように手を回す。筆を握った彼女の左手を、自身の左手で優しく包む。

「……せんせーも、左利き?」

 意外そうな口振りで、僕に問う。

「いや、せんせーは両利き。小さい頃から字は右手で書いてたけど、左手でも書けるようになりたくて、練習した。……小学生の頃の話だけどな。あの頃はどっちの手でも字が書けたら二刀流みたいで格好良いな、なんて思ってたんだよ」

 そもそも最近は書道自体に真剣に取り組んでいないから、両利きはもう役に立たないし、別段誇れる事でもない。僕が仮にもバスケやバレーの現役選手だったら両利きである事を有意義に活用できていたのかもしれないが、残念な事にその予定は一切ない。

「じゃ、そろそろ書き出すぞ」

 彼女の左手をキュッと握り、指導に移る。

「まずは『四』の一画目の入りから。縦線と横線のメリハリがある方が、より型が良くなる。だから、作品そのものの一筆目はかなり重要視されるんだ。『四』の場合、一画目は太く筆を入れ、二角目は細く……そう、屈折の位置で強めの『とめ』を意識して、切り込むように線を一気に太く変えるのがポイントだ――――」

 二人で一つの筆を持ち、制作に当たる。背後の人が主導権を握り、手前に座る人の筆の動きをコントロール。言葉で伝えながら、感覚を体に刻み込む。

 主導権を握る指導者の技能がなければできない指導法だが、僕の技能レベルでも小学生相手なら十分に補える。

 ただ一つだけこの指導方法の難点を上げるとすれば――指導中の「態勢が辛い」という点くらいだろう。

 膝立ち状態でバランスを取りながら、前方にいる瑠奈ちゃんと共に筆を握り指導するのは、非常に疲れる。

 日常の筆記を行う際とは異なる姿勢。胴体と机の間に人を一人挟むだけで、映る視界は普段と一変。ありとあらゆる間合いに誤差が生じ「普段通り」には書けなくなる。

 左利きの指導には繊細な手首の捻りや筆の運び方を教え込む技術が必要不可欠。生半可な技量では、かえって生徒に悪い「癖」を与え、上達の妨げになる。

 それに僕の言う「態勢が辛い」というのは、何も「肉体的な辛さ」のみを指しているわけではない。……問題なのは、「心理的な態勢の辛さ」である。

 その「辛さ」の根本的な原因は、何を隠そう金城瑠奈ちゃんその人。

 彼女に対する書道の指導を一任された身として、絶対に許されないこの心理。

 瑠奈ちゃんの魅力は僕の奥深くに潜む邪心を呼び起こし、決して抱いてはいけない淫らな感情によって、平常心を掻き乱される。

 和室全体に染み込んだ墨と畳の匂い。だが、目の前の瑠奈ちゃんの髪からバニラのように甘い香りが漂い、それらの匂いは一気に霞む。

 今尚握っている瑠奈ちゃんの白く小さい、温かな手。それだけでなく服越しではあるが体の一部が彼女と密着しているせいで、なぜだか無性にドキドキしてしまう。

 ここまで接近すると、瑠奈ちゃんの息遣いまでもが伝わってくる。

 「小学生相手に何を興奮しているんだ?」と白い目を向けてくる奴もいるだろうが、そいつがもし僕の立場なら、自身の考えを百八十度ひっくり返す事になるだろう。

 小学生とは言え、将来有望な生粋の美少女。人によってはありとあらゆる部位が石のように硬くなって、身動きが取れなくなってしまってもおかしくない。

 感情を理性で圧し殺し、口頭で指導をしながら彼女の手を握り、筆を動かし続けている僕の方が、異常と言える気さえする。

「……せんせー」

 感情の整理と指導を同時進行していた僕は、瑠奈ちゃんの呼びかけで一旦両方の進行を停止させた。活性化した脳に、休息が与えられた。

「脚、震えてる……」

 瑠奈ちゃんが、密着している僕の体の違和感に敏感に気が付いた。

 膝立ちをしていた僕の下半身には、時間が経つにつれ負荷が加わっていた。だが、せめて指導だけは終えようという想いから脚を酷使しすぎていたようだ。

「……っ!?」

 突然、瑠奈ちゃんが首を回して、僕の瞳をジッと見つめた。

 僕はその動作に、一瞬動揺してしまう。

 ……顔が近すぎだ。美少女の顔が一気に近付くのは心臓に悪い、非常に。

「座り方……辛くない?」

 相変わらず平淡な声ではあるが、どうやら心配してくれているらしい。

「いや、大丈夫だ。『四字熟』まで書いたから、あとは『語』だけだしな。これくらいなら余裕で耐えられるから」

 指導中に生徒から気遣われる先生が、どこにいる。

 再び指導に当たろうと、自身の脚を踏ん張らせた――その時。

 瑠奈ちゃんは右手の人指し指と親指で僕の制服の袖口を摘まみ、

「座り方、変えるべき」

 と、短い言葉で端的に提案した。――で、その結果。

「本当に、これで指導するのか……?」

「さっきより、合理的」

 僕の動揺は、最高潮にまで登り上がっていた。

 これが合理的なわけがない。さっきの態勢の方がまだ、気持ち的にはラクだった。

 確かに今の姿勢は膝立ちよりも安定しているし、負荷もさほどかからないで済む。とはいえ、肉体的な態勢の辛さは解決したとしても、もう一つの「心理的な態勢の辛さ」は解決できていない。むしろ悪化している――それも、深刻に。

 胡座をかく僕。その上に乗る瑠奈ちゃん。

 この態勢は不味い。とにかく、絵面がかなり不味い。

 瑠奈ちゃんの小ぶりなお尻がダイレクトに僕の局部付近に当たっている。

 少しでも気を抜けば人としてダメな状態に陥る、そんな瀬戸際だ。

 決して踏みにじる事は許されない、穢れなき少女の価値ある善意。僕が少しでもラクな体勢になるように、という彼女の心優しき提案なのだ。

 それでも尚、淫らな感情を抱いてしまう僕をどうか許してほしい。

「これで脚は平気?」

「う、うん……っ!」

 裏返ったその声は、さぞかし気色悪かった事だろう。

 常時無心でいる事を誓い、僕は最後の一字である「語」の書き方指導に当たった。


「……お疲れ様、瑠奈ちゃん。大方の書き方は理解できた?」

 瑠奈ちゃんは一度縦に首を振って、

「ありがとう」

 こそばゆくなるくらいにストレートな礼を口にした。

 指導終了後、胡座の上に座っていた彼女に立ち上がるよう促し、僕もその場から立ち上がった。微かに痺れた脚を動かして、長机を挟んで最初の指導体型に戻る。

「もういい時間だな……どうする? 今日は終わりにするか、もう一枚試しに書いてみるか。……僕はどちらでも構わないけど」

「後者」

 一秒と迷う事なく、瑠奈ちゃんはもう一枚書く選択を取った。

 三枚目の半紙折りを始め、次いで筆の穂先を整える。

 そのスムーズな準備動作は、さながら洗練されたアンドロイドを思わせる。いや、アンドロイドというよりかは美少女カラクリ人形の方が近いかもしれない。

 毛先一本の乱れすら許さず、硯縁を用い穂先の状態を丁寧に整えた。視線を半紙に落とすと筆を宙でひらひらと動かし、筆の走るコースを確認する。

 緊張感からか、瑠奈ちゃんは自身の乾いた唇を舌でペロリと舐めた。

 そしてついに――三度目の試し書きを開始する。

「……? …………ッ!?」

 書き出しの瞬間。

 お題は変わらず「四字熟語」――だが、僕はあまりの「変化」に自身の目を疑った。

 瑠奈ちゃんが書き始めた「四」の一画目。

 偶然でも勘違いでも、ましてや目の錯覚でもない。筆の動きを目で追うと、それが偶然ではなく意図して行っている動作だと確信づく。

 僕が感じた変化とは、文字の質。

 指導する前に書いた字は、どちらの手で書いたものでも「上手い」と一言で評価できるものではなかった。改善点がいくつもあったのだ。

 けれど、今の彼女の字はそうじゃない。

 まるで別人が書いたかのように、全く違う筆致をしているのだ。

 しかも、字の書き方、癖、筆の扱い――僕は瑠奈ちゃんがやってのけた芸当に感服を通り越して、恐れまでも抱いていた。

 それもそのはず――この芸当は、常人には不可能。

「これは……『僕の字』……っ」

 彼女は自身の文字の癖を失い、字の型を完全に書き換えた。


 僕と共同して書いた字を基盤として――自身の字を、丸ごと矯正したのだ。


 まだ完璧とまでは言えないが、かなり忠実に再現されている。それも、共同して書いた字を一切見ないままにだ。

 さっきの字は態勢や筆の持ち方が普段と違う事もあり、僕本来のものではない。少なからずどんな書家でも、二人で同じ筆を持てば手元がブレて正常に書く事はできない。

 だが、彼女はそれも加味した上で筆を動かす。多少の違和感あるブレは自力で直し、忠実以上の作品に仕立て上げているのだ。

 まさに「神技」と称してもいいほど、卓越した芸当――にわかには信じられないが、目の前でやられては否定しようもない。

「……終わった」

 瑠奈ちゃんは半紙の両端を指で摘まみ、表情を変える事なく僕に見せてきた。

 異様な成長速度と呑み込みの早さ。アドバイスされた箇所と、字の違和感を自身で考えて正す驚異的な修正力――目の前に掲げられた、圧倒的才能。書道家としての素質。

 数分前まで僕は瑠奈ちゃんを「美少女カラクリ人形」などと喩えていたが、それは大きな間違いだった。ただ仕込まれた通りに動くカラクリではなく、彼女は自律性を備えている。言わば自ら思考し、修正を行う事が可能な「学習機能搭載のAI少女」だった。

「瑠奈ちゃんはさ……学校の習字の授業で書いた作品に、いつもどれくらいの評価を先生に付けてもらっていたんだ?」

「……A」

 つまり、満点。

「大体は『お手本をよく見て書けている』って、評価される」

 学校の先生が彼女の作品に与えた評価に、僕は妙に納得してしまう。

 恐ろしいくらいに、瑠奈ちゃんは「写生」が得意なのだろう。

 彼女は「普段の習字の時間は右手で作品の練習をし、本番の日は左手で清書を書く」と言っていた。普通はコツコツと練習をするものだが、彼女は本番のみ持ち手を変更する。

 それでも上出来な写生をこなし、評価Aを与えられるという事は、呑み込みの良さと修正の早さ……要するに成長速度が、異様に早い。

 手本の字をほぼ完璧に写せるという事は、大抵の字を達者に魅せられる。

 小学校レベルの中なら、高評価を与えられるのは必然。逆に評価されなかった場合があるのなら、学校側の先生に見る目がないとしか言いようがない。

 ……そして今、彼女の今後の目標は明確となる。

 今後の練習次第で、伸び代はいくらでも広がっていく。

 最初は基礎を得るため人の作り上げた作品を手本とし、練習を始める。書道以外の芸術でも、ほとんどは基礎を真似る事からだ。

 今後、瑠奈ちゃんは他者の書風を自分の中に取り込み、自身に合う形として消化する技能を求められるようになる。

 写生ではない、自分だけの書き方――自身の流儀を見つける事が、最重要課題。

 自分の書風を見出だす事は、他を真似るよりも大変だ。

 何年もかけて、やっと自分に合ったもの……スタイルを探し出せる。

 それを身に付ける事にさえも、多くの時間を要するものだ。それも、そのスタイルを極限まで磨き上げるというのなら、時間なんていくらあっても足りやしない。

 けど、断言できる。

 この子は将来、必ず化ける――と。

 これまでの経験から培った直感が、僕の脳全体に囁いている。

「瑠奈ちゃん……その字、一枚目より断然良くなったよ」

 目の前に座る無口無表情の逸材を、何の取り柄もない僕は偉そうに褒めてみた。

 とうの昔に作品作りを諦め、僕は自ら筆を置いた。

 そんな人間が誰かの先生になるなんて、最高に嫌な皮肉だ。

 おこがましい事この上ない。そんな事、自分が一番理解している。――それでも、僕は瑠奈ちゃんを導きたいと思った。若い才能を、ここで摘んではいけない気がした。

 それに、未来ある小学生をこの手で育て上げるのは、案外悪くないかもしれない。

「これから、一緒に頑張ろうね」

 絵に描いた先生のような口振りで、握手代わりに彼女の頭に触れてみた。

 さながら「僕の分まで頑張ってくれ」と他人行儀な願いを込めるように、瑠奈ちゃんの髪を優しく撫でる。

「……うん、頑張る」

 彼女はぼそりと呟いて、小さく頷いた。


 この時の瑠奈ちゃんの表情は、ほんの少しだけ……笑っていたように思えた。

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