少女と織り成す書道生活

花宮拓夜

第1話 プロローグ

「墨を磨って、貫之っ!」

 ハツラツとした甲高い声が、僕の両耳を塞いでいるイヤホンを貫通する。

 折角気持ち良く眠りにつこうと思っていたのに……予定が台なしだ。

 机に頬杖をつき目蓋を閉ざしたまま、僕は隣で喚く彼女を無視し続けていた。

 彼女の煩わしい声にも慣れ始め、イヤホンの外から聞こえてくる声も段々と気にならなくなっていく。

「起きて、貫之っ! どうせ無視してるだけでしょ? ほら、そろそろ起きなよー? おーい、おーい? ……いい加減に――起きんかぁ!」

「痛ってぇ!?」

 起こすための手段が、ついに暴行へと移行された。

 いきなり肩を殴打され、情けない声が漏れる。肩を労るようにさすりながら、僕はようやく顔を上げた。

「ほら、やっぱり起きてる!」

「いきなり体を強打されたら、大抵の奴は起きるからな……?」

「そろそろさ、部活の準備始めてよ。貫之は部長なんだから、部員を積極的に先導していかないと!」

「……何度も言うけどな、僕は部活動に対する意欲が微塵もないんだ。親父に言われて仕方なく在籍してるだけの、部員補充要員なんだよ」

 それに部員が二人しかいない部活動じゃ、先導したところで意味を為さない。

 和澄高等学校、書道部部室。

 中央に四対四で向き合って配置された合計八セットの机椅子と、様々な書道関係の小道具が収納されたロッカーに、道具を洗うための洗面台。壁には歴史的書道家の作品と歴代の先輩方が残した作品、過去に我が校の文化祭で使用されたと思われる書道家や有名作品を手書きで紹介した記事が、ラミネート加工されて展示してある。

 数年前までは部員数が十名程度は在籍していた……が、今となっては部員数二名の校内人気最下層の部活動。

 この高校では体育会系の部活が盛んという事もあり、年々書道部の部員数は減少の一途を辿っている。

 その過疎具合は学校サイドからいつ廃部を言い渡されてもおかしくないほどで、そんな環境では自ら入部をしたがるような生徒もいないだろう。

 経験者ならまだ入部する可能性も微かに残っているだろうが、初心者なら皆無と断言してもいいくらいだ――唯一、こいつを除いては。

 昨年度、初心者ながらも自ら入部を希望した、物好きな奴が一人。

 金城嘉穂――僕の唯一の部活仲間であり、幼馴染みでもある高校二年生。

 彼女は発色の良い金髪のセミロングヘアーをした、どこにでもいる今時の女の子だ。可愛い物に目がなく、流行に敏感で友達も多い。学力は学内のテストで毎回上位の点数を取るほどに優秀で、中学時代はバスケ部に所属していたため運動神経も申し分ない。

 そんな書道とは無縁のような存在である嘉穂が昨年、唐突に筆を持ち始めた。

 一年間の練習で多少の上達はしたものの、まだ素人に毛が生えた程度のレベル。お世辞にも「上手」とは評価できないし、正直なところ、嘉穂が何を思って書道部のようなパッとしない文化部に入部を試みたのか、僕には一切理解する事ができなかった。

 書道なんて可愛くもないし、JKの間では話題に上がる事すらないだろう。だというのに、嘉穂は僕に筆を握らせようと幾度となく熱心に説得してくる。

「先導はしないにしても、部員として最低限の作品作りはするべきじゃないの?」

「僕は部室で寝てるだけのほぼ幽霊部員だから、作品なんて作る必要ないんだよ。何なら、僕よりよっぽど書道に対して熱意のある、嘉穂が部長を任せられるべきだったんだ」

「そうは言っても、実力的にアタシは貫之に大差つけられてるし……」

「字の上手さで部長云々は決まらないだろ。大事なのは作品に懸ける情熱だ。……それに、僕は大役を務められるような器じゃない」

 書道部部長を大役に当てはめるのは、だいぶ大袈裟な気もするけれど。

「そんな事はどうでもいいのっ! いいから、早く墨を磨って! 今日こそ展覧会出展用の作品を仕上げようよ!」

「……今の話、聞いてたか? 僕はな、世間に公表する作品はもう作らないんだ。つうか、墨を磨るなんてそんな面倒な事しなくても、墨汁を使えばいいだろ」

 本番でもないのだから、墨を一から磨る労力など誰が使うか。

「だったら、硯に墨汁を注いでっ!」

「嫌だ」

「さっき『墨汁を使えば』って言ったじゃん!」

「作品を作るとは一言も言ってない」

「だったら、作らないでもいいから練習くらいはしなよ! いくら貫之でも、何日も書かないと技術は落ちるよ!?」

 別に落ちたとしてもどうでもいいのだが……仕方ない。

 このまま仮眠の邪魔をされるのは癪だし、簡単に一枚書こう。

 正式な作品制作ではない、ただのお遊び。書道ごっこ。

 僕は机に置いていた筆箱から、一本の書道道具「擬き」――筆ペンを取り出した。

 筆ペンとは、先端が毛筆の形状をしたペンである。本体にインクが内蔵されていて、面倒な下準備をする必要なく書道風の文字が書けるお手軽アイテムだ。

「貫之……また、その筆ペンを使うの?」

「当たり前だろ。練習という名のお遊びなんだから」

 筆ペンのキャップを外し、毛にインクが浸透するよう指先でペンの軸部分を強く押す。

「ほら、半紙くれ。すぐに書き上げるから」

 僕の言葉に、嘉穂は「まったくもぉ」と呆れたようにぼやいた。

「そんな顔するなよ。一応、真面目には書くつもりだ」

「本気モードじゃない時点で、真面目とは言えないよ」

「本番じゃないし、構わないだろ」

 今後、本番を書く予定こそ白紙だけどな。

 渋々と嘉穂は、僕の目の前に半紙を一枚用意する。

 僕は半紙をジッと見つめ、ゆっくりと頭で構想を練った。

「貫之が毛筆を使って真剣に書く姿……また見たいなぁ」

「僕は無駄な墨を硯に注ぐような行為はしない。筆を無闇に持つ事もしないんだよ」

 そう気だるげに告げて、僕は筆先を半紙にそっと近付ける。

「……筆と硯を洗うの、面倒だし」

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