第2話

 舞踏会の曲が始まる前のダンスホールで、真っ先に私が連れていかれたのは、アンソニーの学校時代の同級生たちのいる集まりだった。これ見よがしに女性を連れているのはアンソニーだけで、他の男性たちはわざわざ婚約者がいても一緒に参加しない——独身主義への憧れと自由さに浸りたくて、常識的にハメを外せる舞踏会にやってきているのだから当然だ。中には結婚指輪を外している男性だっている。


 私は、朗らかに再会を祝う彼らの群れの中に入れられた。


 その結果は、彼らの会話を聞いていれば分かる。


「やあアンソニー、今日も婚約者と一緒かい?」

「ああ、そうなんだよ。人見知りの婚約者チェリーを俗世に慣れさせるためにね」

「ははは、面倒見のいい夫を演じるのはよせよ。ねえ、チェリー嬢。一曲いかがかな?」


 そんなふうにここから離れられるよう助け舟を出してくれる人もいたが、それらはアンソニーが一蹴した。


「やめておけ、こいつは踊りが本当に下手なんだ。俺は練習で何度足を踏まれたか分からない! せっかくダンスの講師も雇ってやったのに、まったくの無駄だった!」


 アンソニーは私へ同意を求めるように視線を送ってくる。


 その同意は強制的で、とにかく私を見下したい気持ちが満たされればいいのだ。反抗しても無駄と分かっている私は、恥をかかされようが見下されようが、俯くしかない。


「はい……申し訳ございません」

「ほら見ろ。だが、俺の妻となるからには、スネルソン伯爵夫人だ。言い訳は通用しないからな、今のうちに何とかするんだぞ」

「……はい」


 アンソニーに同調して私を嘲笑う人もいれば、愛想笑いで済ませる人もいる。ただ、私を庇う人はいない。そんなことをしてアンソニーの機嫌を損ねたら面倒だと思っているのか、それとも舞踏会の後に叩かれる私を心配してくれているのかは分からない。


 ただただ、私は暗澹とした気持ちで、アンソニーに無理やり腕を絡められ、仲睦まじくそこにいるかのように、あるいは男性のためのお飾りとして必要十分に役目を果たすよう強いられていた。時代遅れのデザインのドレスも、銀の地味なアクセサリも、何ならここにいることさえも私の意思ではないのに、だ。


 同級生たちの相槌を受けて、アンソニーの口はどんどんと軽くなり、毒舌の鋭さが増していく。


「デニスのところの婚約者を見たか? テーブルマナーさえわきまえない、どこの田舎の令嬢を騙してきたかと冷や冷やしたよ」

「ああ、あれは婚約者のふりをしてくれと雇ったよその家の家庭教師さ。気の利いた口説き文句も言えないあいつに、婚約者なんてできるわけがないだろう?」

「それもそうか! 甲斐性のない、詩才もない、金もない貴族に嫁ぎたがる女などいやしないな!」

「その点、君はずっといいじゃないか、アンソニー。羨ましいよ、うちの両親ときたら早く身を固めろと縁談の肖像画ばかり寄越してきて」

「何を言っているんだ、マレー。最近のご令嬢は小説を嗜むんだそうな」

「そんな話もあったな、それで?」

「浮ついたロマンスにはしゃぐくらいならいいが、思いもよらない知恵をつけて夫や婚約者を言い負かしたり、もっといい家庭教師をつけてほしいと訴えてくるご令嬢もいるんだとさ。どうかしているよ、あまつさえ男と同じ学問を修めたいと来た!」

「何ともまあ、身の程知らずなやつらだな。道理で僕らの先達は独身主義を尊ぶわけだ」


 一同がどっと笑い、アンソニーもまたご満悦だ。


 私は内心、ため息を吐いていた。彼ら、青年貴族たちは若さゆえにか、それとも台頭してきた職業婦人や教養ある女性たちにいらだってか、古来より貴族たちが持っていた男尊女卑の精神の醜い部分を煮詰めたような過激な発言が目立つ。


 正直、聞いていて気分のいいものではない。それは私だけでなく、周辺の立派な殿方や淑女たちも眉をひそめ、距離を置いていることから、決して私だけがおかしいわけではないことが分かる。私だって可能であれば、今すぐにここから離れたいくらいだ。


 けれど、私にその力はない。アンソニーにしっかりと腕を掴まれて、身動きさえ取れないのだから。


 その上、アンソニーはこう言い放った。


「やはり、女というのはきちんと夫が躾けないとどうにもならないな。俺を見てみろ、こんなにもチェリーのためを思ってやっているんだから、俺に恥をかかせるような真似はいい加減やめてほしいんだがな」


 私は脇腹を小突かれ、少しよろめく。それが気に入らなかったのか、アンソニーが絡んできた。


「おい、聞いているのか、チェリー。ぼうっとするな、今日は舞踏会だぞ。いつも言っているだろう」


 アンソニーはいつもよりも、随分高圧的で、尊大だった。同級生の前だとこんな調子だ、本当に私はサンドバッグか何かと間違われているんじゃないかと気が滅入る。


 そして、私が謝る前に、さすがに同級生たちがアンソニーをなだめはじめた。


「まあまあ、大目に見てやれよ、アンソニー」

「そうだぞ。君は僕たちの中で数少ない、独身主義者たちの裏切り者なんだから」

「ははっ、言ってくれるなぁ! だが、いつだったかみんなで行った市井の酒場の女給のほうが、よほど女として魅力があったと思うよ」


 えっ、と同級生数人の顔が引きつった。


 女としての魅力、だなんてはしたない言葉を使いはじめたアンソニーの有頂天ぶりは貴族としてそろそろ看過できないと思ったのか、それ以上の発言を止めに入ろうとした男性もいたが、アンソニーはかまわず、その差別と偏見に満ちた心から生まれる気持ちを、堂々と開陳したのだ。


「こいつを見てみろ。地味で暗くて、貧相な体つきで、夫を立てる言葉の一つも言えやしない。殴っても治らないんだから、いい加減辟易するよ。婚約なんて」


 私は、俯いたまま目を見開き、耳を疑った。


 アンソニーは、悪びれずにこう言ってしまったのだ。


「——するんじゃなかった、って思うことだってある」


 得意げなアンソニー。打って変わって、冷や水を浴びせられたように押し黙る同級生たち。周囲の紳士淑女はすでに離れ、目を合わせることもない。


 まるで、その場だけが無音の世界になったかのようで、足音さえも聞こえなかった。


 私は——もう、何もかもを諦めていた。


 公衆の面前で、貴族の令嬢として、女性として、これほどに夫の言葉で恥辱に塗れることがあるだろうか。初対面で馬乗りにされ、殴られ蹴られても、私はアンソニーの婚約者として振る舞ってきたというのに、なぜ——「婚約なんてするんじゃなかった」などと言われなければならないのだろう。


 それを言いたいのは、私だ。言いたくても言えなくて、家のために、伯父の顔を潰さないために、役に立たない私が役立てる数少ないことだからと、アンソニーの暴力や暴言に目をつむってきた。


 おそらく、これからもそうなのだろう。このまま結婚してしまえば、文字どおり死が二人を分つまで、アンソニーのそばを離れられないのか。


 乾いた心は、泣くことさえも思い付かないようだ。私は呆然と、俯いたままその場に突っ立っていた。


「そこの紳士諸君、歓談中失礼する」


 楽器の弦が弾かれたように凛とした、その低い声が響くまでは。

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