婚約なんてするんじゃなかった——そう言われたのならば。

ルーシャオ

第1話

 それは、とある舞踏会での出来事だった。


 私は無難なシフォンのドレスと銀のアクセサリ、肌をより白く見せて紫のあざを隠すための化粧に気を遣って、ホールの扉の前にやってきた。


 それを見て、私の婚約者アンソニーはふんと蔑むように鼻を鳴らす。


「その程度にしか着飾れないのか。まったく、俺が見繕ってやったというのに。素材が悪いとどうにもならないな」


 明らかな悪口にも、私はただ「ごめんなさい」とつぶやくしかない。


 ここで「こんな時代遅れのドレスとアクセサリじゃどう頑張っても無理です」なんて言おうものなら、頬が赤く腫れ上がるまで叩かれるに決まっている。


 私が悪いのだ。そうしておけば、アンソニーも不機嫌になる程度で済む。


 私は、アンソニーにぐいと肘を引っ張られて、豪華絢爛なダンスホールへと足を踏み入れた。何度来ても、慣れない。何度来ても、好きになれない。


 だって、私の隣には必ずアンソニーがいる。離れようものなら無理やり引きずられてでも連れていかれるし、躾のなっていないペットのように扱われるだけだ。知っている。


 私とアンソニーが婚約を結んだのは、七年ほど前だ。


 当時十歳にも満たなかった私、ビーレンフェン男爵家令嬢チェリーシャ・アーガイル=ノットは、人見知りがちな少女だった。家では目立たない三姉妹の真ん中で、歴史があっても男爵家の次女なんて誰も見向きもしない。父は事業に忙しく、母は男爵家の切り盛りに東奔西走し、姉は末妹の世話をしていたため、私は割と放任されて育った。


 そんなとき、母方の伯父が私へ婚約者を紹介してきた。もちろん父母は興味なさそうに承諾して、あとは私と伯父がいいようにしておいてくれと言い残すだけだった。大した顔でもなく卓越した特技もない私程度じゃ政略結婚にも使えない、と思われていたのだろう。


 だが、伯父が見つけてきた婚約者は、それなりに見栄えのする貴族の家の嫡男だった。スネルソン伯爵家という自領の鉱山業で稼いでいるところで、立身出世の栄達よりも現状維持を望んでいた。つまり、スネルソン伯爵家には貴族としての野心はなく、適度に儲けて適度に家を保てばいいと考えていたのだが、自分よりも高位の貴族から娶るとそうはいかなくなる。未来の伯爵夫人を通じてその実家に操られ、政治のあれやこれに巻き込まれる可能性があるからだ。もしくは、夫人に贅沢病があれば大変だ、家が傾くほど散財されてはたまらないと考えたかもしれない。


 ある日、私は伯父に連れられ、スネルソン伯爵家の屋敷へと顔合わせに出向いた。一張羅のチェック柄ドレスを着て、はちみつ色の巻き毛をきゅうっとまとめて、未来の旦那様に会いにいくから粗相のないようにと注意されて、行きの馬車の中では一言も喋らないほど緊張しきりだった。


 やがて、我が家よりも何倍も広い屋敷の、几帳面な庭師に整えられた庭園に私は案内された。伯父は屋敷の主人に挨拶へ出向き、私は独りでうろうろとしていたのだが——。


 なのに、私はいきなり蹴り倒された。


「きゃ!?」


 右太ももを蹴られて、思わず地面に手をつき、痛みにうめく。すると、馬乗りになった誰かが私をぽかぽかと殴ってくるのだ。


 たまらず、私は顔を両腕で覆い、悲鳴を上げる。


「いやああ! 助けて、誰か助けて!」


 悲鳴を聞きつけ、慌てて近くにいた庭師が駆け寄ってきて、助けてくれた。馬乗りになった誰かを担いで私から引き離し、叫ぶ。


「ぼっちゃま! 何をなさっておいでか!」


 必死に体を引きずり、少しでもその場から離れようとした私の目に映ったのは、庭師に羽交締めにされてもなお暴れ、私へ敵意をむき出しにしている小さな癖毛の男の子だった。


 ぼっちゃまと呼ばれた男の子は、至極当然とばかりに庭師へ答える。


「あいつ、勝手に入ってきたんだ! ああいう女は殴らなきゃ分からないって父上がおっしゃっていたぞ!」

「あちらは客人ですぞ! ほら無礼をお詫びせねば」

「いやだ!」


 男の子は庭師の手を暴れて振りほどき、走って逃げていった。


 一体全体何が起きたかのか、レンガ道にへたり込んで呆然としている私のもとへ伯父がやってきたのはしばらくあとのことだ。


 そして、あの男の子が私の婚約者アンソニーであり、伯爵と伯父の話し合いで私との婚約は決まったとの知らせを聞いて、私は目の前が真っ暗になった。あんな粗暴で、初対面にいきなり蹴ってくる男の子が婚約者だなんて、どうかしている。


 しかし、私の反対など、何の価値もない。伯父は上機嫌に我が家のためにとてもいい話がまとまったと嬉しそうだし、あとからやってきた伯爵は私を見て「可愛らしい子だ、何でも買ってあげよう」と自分の息子の蛮行をなかったことにしようとした。


 最悪の顔合わせ、最悪の婚約、それらは私の意思で破談にできるものでは無かった。


 それから七年ほど、私はことあるごとにアンソニーに従わされてきた。


 あるときは暴言を吐かれ、使用人の誰かが止めに入るまで私は頭を下げて謝ることしかできず、あるときは何の脈絡もなく暴力を振るわれ、突き飛ばされて尻餅をつくくらいならまだしも、何日も残るような怪我を負わされて自室に篭りきりになることも珍しくなかった。


 それは屋敷の中だけでなく、買い物に付き合わされた店々でも同じだった。


 今私が着ているドレスも、アクセサリも、私に似合いもしないのにアンソニーが選んだものだ。アンソニーが馴染みの店員に勧められたから買い与えられただけで、私に似合うかどうかなどどうでもいいのだろう。そのくせ、懸命に着飾っても、結局似合わなければ私が罵倒されるのだ。


 私がアンソニーにあちこち連れ回されるのは、婚約者という勲章だからだ。友人知人に見せびらかし、勲章を持っていることを自慢するのであって、勲章そのものを自慢するわけではない。裕福な伯爵家の子息相手にその無礼さを咎められる人間もそうはおらず、案の定、アンソニーはだんだんと増長していった。


 そうして、ついにアンソニーは一線を越えた。

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