第3話

 女性と見紛うような艶美な長い黒髪に、顔立ちはきわめて中性的でありながら、凡俗の身など容易く射抜かんばかりに鋭い緑の瞳。


 突如現れた一人の貴公子へ、私だけでなく周囲の視線が集まる。シルク混じりの燕尾服はスリムな体型によく似合い、懐中時計の金の鎖がよく映える。年齢は二十代から三十代くらいだろうか、それにしては威厳のある振る舞いに違和感がない。


 彼はアシンメトリーに切り揃えた前髪をかきあげ、アンソニーの前に堂々とやってきて、真正面に見据えた。少しばかり身長の高い彼に対し、アンソニーはせっかくの余興が中断されて面白くないという子どもじみた顔をあらわにする。


 すると、彼はスッと私とアンソニーの組んでいる腕を指差した。


「貴殿は婚約したくもない女性と腕を組むのかね? 彼女にも迷惑だろう、離してやりたまえよ」


 その指摘を、アンソニーはよほど不服に思ったのだろう。それか、挑発と受け取ったに違いない。


 私の腕をぐいとわざと引き寄せて、小馬鹿にした口調で応じる。


「ご忠告どうもありがとう。しかし、余計なお世話だ。チェリーが俺の婚約者であることは変えようのない事実、決してあなたの迷惑にはならないだろうさ」

「ふむ、すでにかけた迷惑に対して、あまりの不誠実ぶりだな。スネルソン伯爵家のご令息たるもの、いささか不用心ではないかね?」


 即座に返ってきたさらなる煽りに、アンソニーの顔が一気に険しくなった。そばで見ている私は、ただただその怒りが私へ向かないことを祈るしかなく、足が震えるほど恐ろしかった。


 貴公子はそんなことなどお構いなしに、私へ顔を向けた。アンソニーを半ば無視して、さらりとこんなことを言う。


「チェリーシャ嬢、あなたの婚約者を少々お借りしてもよろしいか?」


 私は驚いた。チェリーではなく、チェリーシャと私の正しい名前をなぜこの貴公子が知っているのだろう、と。戸惑う私は、答えを先延ばしする意味でも、質問に質問を返すことが不調法だと知っていながらそれを尋ねる。


「え……あ、その、なぜ私の名前を」

「舞踏会の出席者の名はすべて記憶しているので」


 当然とばかりに、あまりにもあっさりとした答えだった。数百人はいる舞踏会の出席者の名前を、それも私の名前なんてどうせアンソニーの付き添い程度に「チェリー」としか書かれていなかっただろうに、把握しているなんて。


 驚きにより言葉にならない私を、ついに苛立ったアンソニーが腕を外して後ろに押しやり、貴公子の前に立ち塞がろうとした。


「ふん、俺に用件があるならここで言えばどうだ。なぜチェリーに伺う?」

「それはもちろん、貴殿の意思はどうでもいいからだ」

「何だと」


 無益にも思える挑発と応答、今にもアンソニーが掴みかからんとする緊迫した空気。


 それを打ち破り、流れを決定的に変えたのは、その場にいた男性たちではなく、一人の老婆の声だった。


「お前があまりにも不愉快だからだよ、坊や」


 真っ先に反応したのは貴公子で、老婆のしわがれた、それでいてホールの端まで通る声のしたほうへ視線を向け、会釈する。アンソニーを含む他の人々はそれに倣って老婆の正体を確かめた瞬間、恐れ慄き、その全員が顔色を一変させた。


 二分された人混みを突っ切り、ホールのど真ん中を通ってきた、白髪白ひげの偉丈夫なる礼服の老公を従えた老齢の女性。黄金と黒檀でできた長煙管きせるを手に、その結えた白髪の上にあるのは宝石が散りばめられた最上の王冠だ。


 不遜なる態度、尊大にも取れる言葉、何よりもそれらは老婆を構成する一要素の非難的余波にすぎず、この世の誰をも差し置いて、どのような権力や権威も彼女は従えてしまえるのだと神の名の下に許されている。たとえ、それが誇張だとしても、少なくともこの国の中では彼女が頂点だと誰もが認めていた。


 老若男女、その場にいる貴族たち全員——私と貴公子を除き——が、老婆と傍らの老公へ跪く。


「女王陛下!」

「エリン女王!」

「レーン王配殿下!」


 貴族たちが口々に二人を称える。ここにいる貴族たちでさえ、そう滅多に目通りが叶う相手ではない。舞踏会という息抜きでもなければ、特にアンソニーら若年の貴族たちは会うことも許されない。


 もちろん、私もなのだが——あろうことか、私は足が震えて動かず、跪くことができなかった。それを分かってくれたのか、貴公子がそっと私のそばに来て、私の両肩に手を置いて支えてくれた。そのおかげで、私の無礼は見過ごされた。


 エリン女王陛下は、床に跪いて後頭部を見せるアンソニーを長煙管きせるで指し、私の隣にいる貴公子へ厳かに王命を下す。


「アイヴァ、そこの坊やを躾けておやり。婚約破棄の言質は取ったのだから、あとはその娘の意思次第だとしっかり教えてやりなさい」

「はい、陛下。御心のままに」


 アイヴァと呼ばれた貴公子はもう一度会釈し、それに満足した女王は老公を引き連れて用意されたホール最奥の主賓席へと歩を進めた。


 女王が目の前から去ったのち、立ち上がる貴族たちはささやく。


「アイヴァって、もしかして王配殿下の義弟ピアラスフィールド公爵アイヴァ=サデウス閣下か……!」

「嘘だろ、どう見ても二十代だぞ? 王配殿下は五十を過ぎたばかりで」

「馬鹿、知らないのか? 常春の国から帰ってきたと噂される若さと美貌ののお方を」


 そのささやき声はもちろん私にも聞こえていた。だからこそ、私は畏れ多くて、アイヴァという貴公子の顔を見ることができなかった。


 公爵閣下が、私の肩に触れているという事実を、私の頭は受け入れることができない。それと、跪き、頭を垂れるアンソニーを見下ろすという事態を、私は現実とはまったく思えなかった。


 私が今まで生きてきた世界の常識では、そのようなことはありえない。なのに、どうしてこうなったのだろう。私の疑問はぐるぐると胸の中で渦巻き、意識を朦朧とさせていたらしく、アイヴァ公爵閣下の一声でやっと私は現実に戻ってきた。


「さて、少々時間をいただけるかね、ご両名。無論、もう互いに相席はすまいよ、彼女も気遣わずに済むだろうからね」


 立ち上がったアンソニーのもとへ、近衛兵が四人もやってきて、前後左右に立ってアンソニーをどこかへ連れていく。その足取りはよろめいていて、私の位置からはちょうど顔が見えず、どんな表情をしていたかは分からないままだ。


 もっとも、私も他人のことが言えない。足はまだ震えていて、立っているのがやっとだからだ。


 私の両肩にあった手が離れた。そう思った瞬間、私の体は背中と膝に手を添えられ、アイヴァ公爵閣下にひょいと持ち上げられた。


「な、何!?」

「失礼、足元が不安なようだ。お許しを、レディ」


 そう言うが早いか、アイヴァ公爵閣下は私をお姫様抱っこして、さっさと舞踏会のホールを後にした。


 そんなことをされたのは初めてで、私はとにかく落ちないよう、必死にアイヴァ公爵閣下の首にしがみつき、胸中に湧き起こる見も知らぬ感情に混乱しきりで、目をきつく閉じてどこか目的地への到着を待つしかなかった。


 しかし、目を閉じると余計に意識するもので、アイヴァ公爵閣下の髪や首筋に付けられた高級な香水の匂いに妙にうっとりする。それに、私の腕や額に当たる長く艶やかな長髪はとても清潔で、サラサラとしていて、私の巻き毛よりもずっと触っていたい良質さだ。


 今まで、他の男性——特にアンソニーの匂いなんか知らないし、知りたくもなかったことなんて、私は本当にどうでもよかった。

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