第48話 現場見学
2018年7月4日(水) Vandits事務所 <冴木 真子>
事務所2階に構えられた設計・リノベーション部の部屋で私と祥子ちゃんは新しい事務所の改修案を設計図に起こしている。それと並行して芸西村の宿泊施設内にあるサッカーグラウンドを、将来的にサッカーの試合やイベントを行う際のグラウンド敷地内にどこにテントを設営するかや来ていただいた観客の方やお客様が寛ぐスペースを作るか等のイメージ画も書いている。
しかし、サッカーの試合を興行として客観的に観た事が無く、当然スタジアムで実際に観戦した経験も高校生の時に及川君の高校最後の大会を和馬と見に行った以来経験が無い。
少し煮詰まってきそうな感覚だったので、息抜きに珈琲でも飲もうと1階へ下りていく。1階には裕子ちゃんしかいなかった。和くんと常藤さんは東京本社か。
「あら、真子さん。休憩ですか?」
「少しね。珈琲でも飲もうかと思って。」
「今、お淹れしますね。」
「え?悪いわ。自分で淹れるわよ。」
「私も飲みたいので。座っててください。」
裕子ちゃんはそう言ってキッチンスペースで珈琲を淹れ始める。窓の外ではしとしとと雨が降っていた。今週に入ってからずっと雨が続いている。サッカー部の皆は練習出来なくてストレス溜まってないかなと心配していたが、和くんの話ではまだ工事に入っていない芸西村の宿泊施設にある体育館を使って基礎トレーニングなどをしているらしい。
「どうぞ。」
「ありがとう。いただきます。」
入れて貰った珈琲を一口。少しの苦みの中に若干の蜂蜜の甘さ。私は珈琲の中に小さじ一杯程度の蜂蜜を入れる。周りの人には驚かれる事が多いが、学生の頃からの飲み方。裕子ちゃんは本社で何度か淹れた事のあるそれをちゃんと覚えていてくれて、私の珈琲には必ず蜂蜜を入れてくれる。高知で初めてこの珈琲を出してくれた時は、ずっと会社から離れていたにも関わらず私の好みを覚えていてくれた事に凄く嬉しかった。
「こんな雨の日でも営業部の皆は忙しいのね。頭が下がるわ。」
「やっと公式戦が始まって開幕3連勝ですから。譜代衆のお願いに行くのにこれ以上の宣伝材料もありませんし、取扱い物件の営業も今かなり波に乗ってる状態です。今年度に入ってすでに30件以上の物件と契約が控えていますので。」
「この量の改修設計を一人でやってたなんて祥子ちゃんは相当大変だったでしょうね。少しでも力になれるように頑張るわ。」
東京で働いていた頃にはこんなにのんびりと珈琲を飲める時間なんて無かった。始業時間よりも相当早い時間に出社し、周りに声を掛けられて退社する頃には日付が変わりかけているなんて事はしょっちゅうだった。
出産・育児の為に現場から離れ、そして高知で復帰した。しかし、私が東京で忙殺されていたスケジュールとはあまりに違って驚いた。設計の打ち合わせや納品スケジュールはかなり緩く設定されていて、忙しくはあるが期日に追われるような状況にはなっていない。
「坂口さんがこのプロジェクトに参加してくれると決まった時に、和馬さんが坂口さんに対して厳命したのが『過密スケジュールの禁止』でした。沢山のお仕事をいただけてそれを早く終わらせたい気持ちは分かるけど、それで休みや休憩すら取らない仕事になれば余裕がなくなり周りが見えなくなる。そうなれば仕事に対して盲目的になって自分の実力を発揮できなくなると。」
「そう....」
少し胸が痛い。昔の私の事を言われている。私は仕事だけが生きがいになってしまい、それ以上の生きがいが出来た時にそれを大切に出来ていない自分に気付けなかった。あの時、颯一の一言が無ければ、私は取り返しのつかない一歩を踏み出していたかも知れない。和くんはそれをちゃんと教訓としてくれている。
「おかげで坂口さんもヴァンディッツの練習を見に行ったり、高知市内で行われてる野球の独立リーグの試合も休みの日には観に行ってるみたいで、良い気晴らしは出来ているようです。それに、真子さんが来てくれた事が大きな変化にも繋がってます。」
「私が?」
「はい。坂口さん、ちゃんと人を頼れるようになりましたから。」
なるほどね。二人でこっそり笑う。窓の外の雨はまだ降り続いていた。でも、時にはこうして雨に降られる日もあっていいなと思える日だった。
・・・・・・・・・・
2018年7月10日(火) 芸西村宿泊施設 <冴木 和馬>
今日は宿泊施設の工事の進捗具合を確認・説明する為の立ち合いの日になっている。デポルト側からは俺、常藤さん、雪村さん、坂口さん、真子、高瀬が参加している。施工側は笹見建設の担当者、下請け工務店の担当者など10名ほどが参加する。これだけの人数が現場内をうろつくので、今日は夕方早めに作業を終えて貰い、工事が行われていない中で回るようになっている。
「お久しぶりです。今日はよろしくお願いします。」
今まで何度もファミリア関連のホテルや民宿の建設現場でお会いした担当者の方と握手する。そこからまずは宿泊施設の説明から始まる。
四月に出来上がった設計図を基に今は部屋割りが終わった段階だ。今までは児童や学生がメインで使用されていた施設なだけに、宿泊用の部屋も何もかもが和室だ。洋室は研修用に設けられた会議室のような部屋3つの内一つが洋室になっているだけだ。
以前から比べて大きく変えたのは、客室の半数を洋室にして部屋にユニットバスを入れる。元々全ての部屋を繋ぐようにあったベランダの広さ1m分部屋を拡張した。
そして一階にある20畳2部屋の和室タイプの研修部屋と10畳の洋室タイプの研修部屋の壁を取り払い24畳2部屋の洋室タイプの宿泊部屋とした。ここには二段ベッドを持ち込み、学生・児童の合宿等はこの部屋を利用してもらう。そのかわり普通に宿泊室を人数分予約するよりは相当に安い。
その他にもトイレや浴室など大きく手を入れた所もある。なにより宿泊用の部屋のみの二階へ上がる階段を上がりきると現れる意味不明な30畳ほどのホールスペース。自販機が置かれている訳でもない。こんな無駄なスペースは俺と真子が一番嫌う所だ。ここに2階に元々設置されてあった洗濯室を拡張してコインランドリーに変える。そしてトイレは部屋ごとにユニットバスを設置するので必要なくなる。そうやって効率的な部屋割りを決めた。
笹見建設の担当者と真子と坂口さんは長年の付き合いなので、とにかく立ち合い確認が早い。付いてくるのが大変なのは下請けを担当している地元工務店の担当者達だ。
そして次は外の運動施設の改修確認に向かう。まずは一番遠い野球場に向かった。運動施設は宿泊施設とは担当が変わる。宿泊施設の担当者達と別れる時に地元工務店の方々が大きな手直しや指摘が無かった事に安心したのか、かなりホッとした顔をしていたのが印象的だった。
野球場は色々と話し合った結果、トイレと更衣室、そして全体を囲うネットの改修のみで留める事にした。なので、野球場はすでに改修は終わっている。と言うのも、4月以降色々と話し合う中で野球場が将来的にJリーグ入りを果たした後のJ1規格のスタジアムを作る際の敷地になる可能性が出て来たからだ。
実は高知に来て以来、安芸市・芸西村共にうちがサッカーチームを地元に根付かせる為の話し合いは個別にしてきたが、どうやら安芸市はサッカー施設やそれに伴う周辺施設を建てる事にかなり消極的である事が分かった。それで無くとも安芸市は今、南海トラフ地震対策の一環で安芸市の海沿いに近い行政施設を安芸市中部に出来る予定の南国安芸道路の安芸中IC付近に集中させるため、移設工事が始まっている。それもありはっきり言えば敷地が無いのだ。
俺達が望むサッカーパークを作ろうと思えば既存の施設を壊して敷地を作るか、現役で使われている農地を使うか、山を切り開くか。どれにしても当初自分達が考えていた物よりも莫大な費用が掛かるし、恐らく住民の反対意見が大きくなると予想される。
芸西村に関してはこの宿泊施設の敷地内でサッカーパークを作る事に関しては村は何も文句は言えない。それに芸西村は意外に好意的だ。実際にサッカー部員だけでも19名が芸西村に移住してきており、休耕地だった畑も3haを借り入れた事でそこにもレンタル料が発生している。そこに宿泊施設改修や直売所建設など芸西村の経済を発展させる動きは多少なりと作れている自負はある。
そういった事で芸西村はこちらが考えている改修計画や今後の畑の拡張計画などを以前から担当してくれている役場の小松さんや高橋さんに相談すると、出来る限り力になれるようにと動いてくれている。
最初はJリーグ入りが達成出来れば他の場所にスタジアムを建築する予定だったが、芸西村に建設出来ないかと言う意識が運営スタッフの中にもじわじわと生まれ始めている。しかし、それには相当高いハードルが多く、何より大変なのは交通インフラの整備だ。
この宿泊施設に直接繋がっている道は畑の中を横断するガードレールも無い1.5車線ほどの広さの道だ。当然1万人規模のスタジアムを構えるとなれば、畑を突っ切る道だけでなくその周辺の道の整備も必要となって来る。それには自治体の協力は欠かせない。
その構想が立ち上がってからは改修案がストップしていた体育館と武道場に関してはそのまま耐震性の確認と窓ガラスを強化ガラスへと変えた。当面の改修は行わない予定だ。
さて、ここからが一番重要な場所だ。サッカーグラウンドへ向かう。途中にあるテニスコートは既に掘り返されて土と砂が入り、転圧を終えている。後はアスファルトを敷けば駐車場の原型は出来る。ラインは全体の施工が終わるまでは引かず、施設完成までは施工業者の駐車場として利用する予定だ。
サッカーグラウンドは客席や場内施設の土台は出来ており、後は観客席を設置し、施設内装に手を付ける。
「ロッカー・更衣室を含めて監督室・シャワー室・マッサージ室・トイレ・洗面台がセットになった一つの大きな部屋と考えてください。しかし、監督室・シャワー室・マッサージ室は独立して施錠する事が出来、個別に借りた場合のみ開錠して利用出来るようにしてあります。監督室は原則ヴァンディッツが関わる試合で無い限りは貸し出さないとのお話だったので、こちらも常に施錠した状態での管理になります。」
「なるほど。」
「グラウンド内施設としましては実況席を広めに設けました。メインスタンド上部に見えるあの建物ですね。そしてバックスタンド側の上に見えるあの場所がメインカメラ設置位置になります。」
地域リーグに進出が決まれば自分達のホームゲームに関しては四国サッカー協会に放送権料を支払う事でライブ中継が出来るようになると返事を貰っている。JFLに関してもそうだ。なので、グラウンドにはいくつかの常設カメラを設置できる場所を作った。
「ただこのグラウンドに関しては後に拡張を行ったとしても8500名分の観客席が限界だと言う計算です。それ以上の客席とその規定に見合うスタジアムとなるとバックグラウンド側の敷地が足りません。」
「分かりました。四国リーグからJFL昇格が現実味を帯びた時に改めてそう言ったお話も笹見さんにご相談出来ればと思っています。」
「その時はぜひ。」
グラウンド施設の施工担当者と握手をして話し合いを終わる。最後に東部園芸緑地さんとの話し合いだ。先日お会いしてはいたが、あの時は部員達にグラウンドを見せる事が目的で、今後の施工の話し合いなどはしていなかった。
曽根さんと平さんの話では、東部園芸緑地の会社内にうちの施設グラウンドの管理を中心としたグラウンドターフの管理・施工部を立ち上げたと告げられた。平さんが部長となり、初年度は数名で始まりうちのグラウンドの芝の管理を請け負って貰える事になった。うちとしては芝を管理していただける会社と密接な関係が取れるし、曽根さん達からすればスポーツ施設のグラウンド管理と言う未開拓の分野に経営の目を向けられるチャンスを得た。
今後は外部からスタジアムの芝管理経験のある人を採用するつもりらしい。
まだまだこの宿泊施設でやってみたいと思っているアイデアはたくさんある。それを叶えるにはチームが上のカテゴリーに上がる事も大事だが、何よりそれを支える自分達の企業的体力をつける事が絶対条件となる。
今まさに羽ばたこうとする雛のような施設を高台から皆で見下ろしていた。
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【社会人サッカー】最近、動画サイトで取り上げられてるスーパーゴール見たか?
01:bandana 2018/06/21 21:05
見たぞ!凄すぎるだろ!?まぐれだとしてもあの密集地帯で完璧なボレー決めるとか心臓どうなってんだよ!
04:〇△ 2018/06/22 14:53
どう考えたってエリア内にいた背の高いFWにラストパスで無難に点取れてたように見えたのに、動画で見た感じは迷いなく足振り切ってる。いやぁ、エグイわ。
07:rockriver 2018/06/23 20:15
どうやら高知県の社会人リーグの2部の試合。知り合いがその試合に出てたらしい。名前は「ヴァンディッツ安芸」だ。開幕3連勝中らしいぞ。
08:panda 2018/06/23 21:01
それってあのファミリアの社長が作ったってチームじゃないの?アルファの掲示板では結構叩かれてたけど。どうなんだろう?
12:✖〇△ 2018/06/25 12:33
叩かれようがなんだろうが結果残してるならそれが正義だろ。実際、これだけ動画サイトで再生されまくってるんだからその反響はあったんだろ。動画挙げる奴上げる奴どんどん削除されてるけどな。まぁ、リーグは動画禁止だからな。
28:bandana 2018/06/27 14:21
分かったぞ。「Vandits安芸」の八木和信だ。数年前の選手権の千葉大会でN高が準優勝した時のゲームメイクしてた子だ。プロになるかと思ってたのに、まさか高知でサッカー続けてたとは!これはJFLかJ3くらいから声掛かるんじゃないか!?
32:✖△ 2018/06/30 23:22
そんな簡単じゃねぇだろ。県2部だから通用してるだけだ。1部に上がれば惨敗続きでJFLなんか夢のまた夢。そんな簡単にいけたら日本中プロチームだらけだろ。
41:panda 2018/07/01 09:05
まぁ、ここの掲示板の盛り上がりだけでも見守る楽しみは増えたね。近隣の人はぜひ実際観戦して感想を書き込んで欲しいな。
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