題名不詳

 その頃の僕には夜道を歩く習性があり、毎晩、遠いコンビニまで足を伸ばすことが日課になっていた。やがて、彷徨の先はあるコンビニに限られるようになり、それは道中が当時の僕にとってお気に入りだったからである。田園と山に挟まれたその道には黒が広がっており、遠くに揺らめく外灯を目印にして歩くことしかできないのだが、べったりと体に張り付く闇の中に僕はある種の心地よさを見出していた。

 その日も、片手にコンビニ袋を持ちながら歩いていた。やがて、左手に山中に続く小道が姿を現す。以前からその脇道は認識していたが、今歩いている道とは異なる、より深い暗黒からは不気味な雰囲気が漂っていて、いつもそこを通る時だけは、足元を注視して視野を狭める努力をしていた。だから、その小道へ足を踏み入れた行動は、宙づりだった日常に対する抵抗としてのもので自暴自棄に陥った結果であったのだと考えた。しかし、今になってみればそれは何者かに誘われた末の行為だったのかもしれないとも思う。

 視覚に頼ることを諦め、ぼんやりと足裏から伝わる感覚だけを頼りに進んでいた。虫の鳴き声が聞こえる頃には、入る前に感じていた薄気味悪さは消えていた。もっとも僕がその情調に溶け込んで感じ取れなくなっただけだったのかもしれないが。

「おいそこの」

 叫び声を出さなかったのは、あまりの驚きで声が出なかったからである。反射的に振り返った先、暗闇の歪みから3メートルほど向こうに僕より背の低い物体があることが分かった。

「ひとりか?」

 足音を立てて近づいてくるそれは、声から察するに女らしい。

「……あんたは?」

 いろいろな意味を込めて放った言葉だった。

「あはは、残念人間だよ。キミと同じでこれを見にきた」

 隣にしゃがみ込んだその人の目の前に、ひしとした石があるのが分かった。ぼーっとしていて気づかなかった。腰を屈めてよく見ると、それは30センチほどの細長い石で、前には草花が添えられている。

「地蔵だよ」

 血の気が引くとともに、ここら一体を牛耳る異様な雰囲気に納得がいった。

「それ貸して」

 それが何を指しているのかは自分の持ち物を見れば明白だった。買っても買わなくてもよかったものだ。コンビニ袋を手渡すと、中をごそごそとあさり始めた。「いいセンスしてるね」と呟きながら、ビリビリという音がした。中から一つ取り出し、地蔵の前に草花と同じように置いた。それは、おそらく個包装のチョコレートだ。

 次に、その人は地蔵に向かって手を合わせ始めた。表情は読み取れないが行為に即したものになっているのだろう。僕はというと、あまりよくない顔をしていたかもしれない。畏怖の念を覚えてしまったこと、彼女の一連の行動に対する罪悪感だった。

数秒してその人は立ち上がった。

「あはは、冗談」

 ゴトっという鈍い音が闇を渡って僕に伝わった。一瞬何が起こったかわからなかった。まもなく、彼女の前の地蔵がなくなっていることに気づいた。

おそらく、蹴とばした。

「ちょっと! 何してるんですか!」

 思わず声を上げてしまった。その発言やリアクションは今にしても一般的なものだと思う。

「どうした?」

「どうしたじゃなくて・・・」

 何も悪びれる様子のない彼女がひどく恐ろしく、僕は息が詰まるようだった。

「キミだってここにくるまでに石ころや砂利を踏みつけてきたはずだよ」

「・・・それは話が違うでしょ」

「同じだよ」

 言い切ったその言葉には、曖昧な価値観や信念に依拠したものではなく、明確にぴしゃりと断定を含んでいることが読み取れた。

「この先に何があるか知ってる?」

 この先というのが、今自分が立っている小道の終着点のことなのか、地蔵が置かれていた背後にうっそうと広がる山林の奥のことなのか。いずれにしても僕は答えを知らなかった。

「何もない。何の曰くもない。今も昔もこの土地由来の被子植物が生育しているだけ。この道もそうだ。大きな山道に繋がるだけ。ただの連絡道に置かれた矩形の石に一体何の意味がある」

「あるかもしれないでしょう」

「ない。私が蹴飛ばしたんだから」

踵を返した彼女はゆらゆらと闇に混ざってすぐに姿は見えなくなった。僕は愕然として、ただ立ち尽くすことしかできない。

やがて、雲が散り、月光があぜ道を照らし出した。暗闇に消え去った彼女が人であることは、コンビニ袋の消失からも明らかだった。それでも彼女の存在が現実と幻想の間で揺れ動いているのは、僕の心の在り方よりもむしろ彼女自身の特性に起因するものだろう。

静かに草を掻き分けて、転がされた地蔵を見つけた。どちらが頭だったのかわからなかった。


 小道を引き返す途中、先ほどの出来事をじっと反芻していた。いや、ぼんやりとした感覚に浸っていた。だから、突然道に現れた黒い影に反応が遅れ、あろうことか飛び掛かられてしまったのである。その瞬間に野犬であることを理解した。この辺では珍しくもない。反射的に差し出した腕に歯が食い込んだが、身に着けていたダウンジャケットのおかげで、まだ肉には到達していない。だが、その状態も長くは続かないだろう。歯を解こうと思えば逆に食い込みを悪化させる恐れがある。左手で野犬の頭を押さえつけ、動かないように固定した。どうしたものか。数秒間の膠着状態が続いた。

「よくやった」

 ドンっと重い音が響き、腕に圧力を感じなくなった。間もなく、助けてくれた人物がバッドを手にしていることが分かった。真冬によれよれのTシャツをまとい無造作に伸びた髪の毛には葉っぱや小枝が散見できた。この男は野犬と同じ獣道から現れたのだろうか。

「立てるか」

 男が差し出した手を取ると、腕に鈍痛が走った。「ちょっと見せてみろ」と言って、男は僕のジャケットを脱がし、袖をまくった。腕には歯形がくっきりと浮かび上がり、いくつかの場所から出血しているのが見えた。男は慎重に腕を触り、それから言った。

「打撲だな。骨も折れてないみたいだし、この程度の出血なら大丈夫だろう。病気は……医者にかかっても死ぬんだ。考えたって仕方ない」

 その言い草には少し腹が立ったが一連の出来事で腰が抜けて立てなかったことを誤魔化せてよかった。

「動物は好きか?」

 突然の問いに困惑した。

「まあ、どちらかといえば」

 実家では犬を飼っている。まあ僕には懐いていなかったが。

「なら手伝えよ。左腕は何ともないんだろ」

「手伝う?」

 男は、んーと少し考えたそぶりを見せた。

「ほら、そう。このままじゃ可哀想だ」

 男は不適な笑みを浮かべていた。

 男に言われるままに配置につかされ、左腕を後ろ足の少し前の背中から腹に回して野犬を抱えた。男はバッドを野犬の口に縛り付け、それを取っ手のようにして後ろ向きに両手で支えるように持ち上げた。

 気絶した犬を抱えて歩く道中、「どこにくんですか」と三度ほど尋ねたが、「もうすぐ」という言葉しか返ってこなかった。僕が通う大学の裏門をくぐった時は少し驚いたが、その時は大学内を通り抜けるだけだと思っていた。

 結局、大学のシャワー室に着いた。犬を下ろすと、男はシャワー室に隠しおいていたのか、大きな鉈を持ってきた。横たわる犬は既に意識を取り戻しており、バッドの隙間からくうーんと情けない声を上げている。

 鉈を手にした男と身動きが取れない犬。これから何が起ころうとしているのか、頭の中心に浮かんだ想像に、僕はただ後ずさることしかできなかった。それは、単なる防衛本能の表れだった。

 男は、怯える犬の目を隠すように左手を添えた。

「その服お気に入りか?」

 犬の首元に鉈を振り下ろした。

血しぶきを意に介さず、男は躊躇なく繰り返し鉈を振り下ろす。何度目かの打撃の後、鈍い音がキーンと金属音に変わったことは、首が完全に落とされたことを示した。まもなく、ドロドロと黒い液体がタイルを滑り、排水溝へ吸い込まれていく。

 僕はというと腰を抜かしてその場にへたり込んでいた。

「なんだ。好きなんじゃないのか?」

 続いて、男は腹に鉈を当てるとギコギコと腹を掻っ捌いて臓物を取り出し始めた。そのあとはあまり覚えていない。犬だったものは肉になった。犬の開きを見たのは初めてだった。

「何がおぞましいんだろうな」

 肉を流水で洗いながら、男は明るい声音で喋り始めた。

「犬食文化の歴史は古い。石器時代の遺跡からは、犬の骨が大量に見つかっている。それは、犬が食用として大々的に飼育されていた証拠だ。今もその文化が続いている地域は少なくない。だが、食用として身近かどうかは重要じゃあない。だって、俺が掻っ捌いたのが豚でもお前は動転するだろうから。お前は俺の行為に反応しているんじゃない。臓物という物体に対して抵抗を感じているんだ。犬であろうが豚であろうが猫であろうが牛であろうが、そして人間であろうが、大差はない。それはきっと本能だ。お前は同種が解体されているという勘違いをしている。じゃあ、車のボンネットを開いたらどうだ。パソコンを分解したら。もっと、例えば、俺が人間に鉈を振り下ろすと白濁した電解液が飛び散る。腹を開くと、中にはいくつかの錆びた鉄のタンクが銅線で繋がれ、金具とネジで固定されたLEDがチカチカと点滅している。それを見たお前はガソリンをむせ返るのか」

 男は犬の頭をこちらに放り投げた。僕の前にぐしゃりと着地すると、その中にある今にも零れ落ちそうな目玉がこちらを睨んでいた。

「だから落ち着け、よく見ろ。それはお前じゃない。犬だ」

 僕は腹の底から這いあがってきた胃液を口でせき止めようとしたが、すぐに諦めて犬の視線を遮るように頭部に向けて嘔吐した。


 男の家は二階建ての古びたアパートだった。二階に住んでいると言っていたが、外階段の横を通り過ぎるとアパートの裏に広がる小さな庭に案内された。

僕が持っている青いバケツには臓物が収められており、男は犬の開きを羽織るかのようにその上に身を包んでいた。夜明けの兆し、薄明るい空とは裏腹に僕の心は沈んだままだった。

「最後までついてきたんだ。お前素質あるよ」

 男がそれを慰めのつもりで言ったのか、僕にはわからなかった。

 ただ、率直に思った。そんな素質はいらないと。

 男は犬を1階の端のベランダのへりにタオルのようにかけると、庭の一角へと足を踏み入れた。その先には石が円形に積まれている場所があり、その構造からみるに、それは火床らしい。男は「ちょっと待っててくれ」と言い、草の陰から枝や藁を持ち寄った。それらを火床に投げ込むと、ポケットから取り出したマッチに火をつけ、中へと投入した。

 男は都度、息を吹きかけたり燃料をくべて、火の番をしている。僕は持っていたバケツを置き、ベランダの手すりによりかかって犬の隣で静かにその様子をうかがっていた。

「おい、うちは火気厳禁だ」

 僕のすぐ後ろからだった。振り返ると、柵の向こうに女が佇んでいた。部屋の住人だろうか。肩まで伸びた黒い髪と、凛とした目。その女は男の方に睨みを利かせた。

「ここは外だ」

 男が背中を向けたまま発すると、女はそれにかぶせるように言い放った。

「ここは私有地だ」

 返答はなかった。

 女は短いため息をつくと僕に視線を向けた。

「キミ、あの男の連れなの?」

 それは僕を吟味するような目だった。

「連れというか」

 連れではあるが、関係性はない。僕が言葉に詰まると、女性は僕の両肩をがっしりと掴んだ。

「悪いことは言わない。人は選んだ方が、いいや誰でもいい。ただ、あの男はやめておけ。うん、そうだな、私にしておきなよ」

 女は本当に僕を心配しているようで、訴えかけるような口調で言ったので、顔の距離の近さを忘れてしまった。その瞬間、鉈が僕と女の間に滑り込んできた。

「黙れ。それと、変な勧誘はやめろ。俺が先に見つけたんだ」

 女は僕の肩から手を離すと、男の方を再度睨みつけた。

「その理屈なら私の方に優先交渉権がある」

「へっ、人間と交渉ができるようになったのか」

「キミこそ、動物以外とのコミュニケーションはどれくらいぶりなの」

「お前といてもせいぜい空気との喋り方がうまくなるだけじゃねえのか、幽霊女」

「キミといれば死体の処理方法がうまくなりそうだね、動物未満」

「スピリチュアル本渡して引っ込んでろ。犬の捌き方のハウトゥー本は売ってないんだ」

「そりゃあ誰も買わないからね」

「おーけー、まずは人間の捌き方からだ。安心しろって、一振りで落としてやるから」

「いいね、人間の裁き方。存在ごと消滅させてあげるから、地獄に行かなくて済むよ」

 どちらも目は笑っていなかった。

「ちょっと、ストップストップ」

 思わず口を挟む。

「あんたらどんだけ仲悪いんですか」

「だってこの女が」

「だってこの男が」

 同時に互いを指さす。

「どんだけ仲良いんですか」

 声が漏れてしまった。呆れた。

「とにかく、僕もう帰りますね」

「なんだ食ってかないのか?」

 男は本当に不思議そうに尋ねてくる。

「一限なんですよ今日」

 嘘ではなかったが、帰宅の口実としての意味合いのほうが強かった。実際に行くつもりはなく、出席も十分だったから。

 帰ろうとする僕の背中に女性が同情的な口調で応じた。

「この男の肩をもつわけじゃないのだけれど、少しだけでも食べていった方がいいかな。お家の犬に噛みつかれたくはないよね。シャワーと服は貸してあげるから」

 僕が実家で犬を飼っていることの確信があったのか、それとも単なる比喩だったのか、その意図は僕には掴めなかった。ただ、僕がここに留まる理由、脅しとしては十分だった。

 男の調理を待っていると、女が庭に降りてきた。

「大学ってそこの?」

 この場所は都会と田舎の狭間にあり、周辺地域にはただ1つの大学がある。そのため、大学生と言えば基本的には先輩か後輩か同期に出会うことになる。ただ、都会と田舎の狭間という表現は、四国のド田舎という僕の出自からの視点の話であり、東京という未来都市から見れば、ここは辺境とも言えるのかもしれない。

「えぇ、春から」

「新入生ってやつだ。私も通ってる。二年生」

 女は左手で自身の顔を指し、右手をピースにしてえへへと笑っている。

「先輩だったんですね。あの人も?」

「うん、一応。講義に出ているのを見たことがないけど」

 会って数時間だが、そんな感じはする。

「おふたりは同期なんですか」

「いいや、同級生」

 その二つの言葉の間にどれほどの違いがあるのか僕にはわからなかった。

「おーいできたぞ」

 声がして、僕らは火のそばに集まった。先ほどの火床には大きな鍋が置かれていた。中を覗くと、茶色く濁ったスープの中で肉片がぐつぐつ煮込まれている。先輩がお椀によそって僕に手渡す。

「犬汁、絶品だぞ」

 名前や材料はともかく、確かに美味しそうだった。

 啜ると、口の中に独特ながら心地良い塩味とコクが広がった。うますぎる。慣れない一人暮らしでコンビニ弁当ばかり食べていた僕にとって、久しぶりに本当の意味で温かい食べ物を味わった気がした。

「うますぎる」

そのまま声に出ていた。

「そうだろ?そうだろ?」

 男は表情を明るくさせた。

「犬って出汁がでるんですね」

「マジかキミ」

 女性の方は対照的に苦い顔をしている。

「先輩は……」

 僕が言うと、二人が同時にこちらを見た。あぁ、いや、どうしたらいいのか。寸刻の後二人は言った。

「私は先輩がいい」

「俺は先生がいい」

 僕は失笑した。

「みんなで食べましょう」

 僕は今後、この先輩と先生に付いて回ることになる。

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題名不詳 新社会人 @mizukamiiiiii

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