煙水晶の影(ニ)

 玲司は、空になったレアチーズケーキのプラスチック容器を持ったまま、安い合皮のソファーに座って考え込んだ。向かいの来客用ソファーでは、あずきバーを半分くらい食べた三階チカが、勝手に淹れたドリップコーヒーを飲んでいる。


 失態だった。鷹岡眞由美を応接コーナーに招き入れた時点で、チカは隣室にでも押し込めてドアを閉め、話を聞かれないようにするべきだった。近所の事務器店から買った安いパーティションで仕切られただけの給湯室に、この広いとは言えない事務所での会話が、聞こえないはずもない。

「あー、あたしに話聞かれたのがマズいってことですか?守秘義務ってやつ?」

 そのとおりだよ。玲司は、カップをテーブルに置いてチカを見た。

「聞かなかった事にできるか」

「形式的には」

 薄いピンクの唇から、わりかし容赦無い事実が告げられた。物理的には不可能です。時間と事実は逆行できない。もう、チカは鷹岡眞由美の依頼内容を聞いてしまったのだ。

 もっとも、現時点でそこまで踏み込んだ情報が知られたわけでもない。現れる人影とやらも、単に依頼人家族の思い込みという事だってあり得る。

「わかった」

 埒が明かないので、玲司はポンと膝を叩いた。

「さっき言った着手金は無しでいい。そのかわり、いま聞いた内容は他言無用。それでいいな」

「別にいいよ、誰にも言わないって」

「元はと言えば、お前がお茶なんか出すから、この事務所の人間だと鷹岡さんが勘違いしたんじゃないのか」

 多少恨みがましく玲司は言った。そうだ、そもそもこの女子高校生にも責任の一端はある。

「まあいい。ないとは思うが、あの人と会う事があったら、なんか適当に、俺の姪だとか何とか誤魔化しておいてくれ」

「わかった」

「ところでな」

 玲司は、少し真面目な顔でチカを向いた。

「さっきは話を中断させたが、君の保護者とも話をしなきゃいけない。未成年の依頼を直接受けるわけにはいかないからな。連絡先を教えてもらえるか」

 すると、チカは少しばかり俯く仕草を見せてから、フィーチャーフォンの電話帳を開いてみせた。

「この人が私の後見人です」

 後見人。そう言われて、玲司はギクリとした。つまり何らかの理由で、この少女は実の親と一緒に暮らしていない、という事らしい。ディスプレイには「折原今日子」と表示されていた。いわゆる、未成年後見人というやつだろう。

「…連絡していいんだな。いや、しなきゃならないんだが」

「たぶん、依頼を断ろうとすると思いますけど、突っぱねてください」

「それはできない。未成年後見人は、実の親と同等の法的な権限を持ち、義務を負う。この折原さんという人が依頼を取り下げると言ったら、僕はそれに従わざるを得ない」

 きっぱりと玲司はそう伝えた。

「そもそも、本来は話を聞く段階で、この人に同席してもらう必要があった。朝は君を廊下に立たせておくわけに行かなかったから、事務所に入れたが」

 ここで、初めてチカは年頃の少女らしい仏頂面を見せた。だが、ここで怯まないのが、世間一般の女子高校生とは違う所だった。

「じゃあ、もし今日子さんが反対したら、説得してください。お金はそのぶん出します」

「あのな、学生が金、金って言うもんじゃない。お金で解決しちゃいけない事ってのが、世の中にはあるんだ」

 玲司は身を乗り出してチカを諌める。すると、チカは何度か瞬きして、神妙な顔で黙り込んだ。

「まあ、とにかくこの件はいったん僕に預けてくれ。どのみち、君の案件は時間がかかるだろう。僕だって、はるばる単身やってきた学生の依頼をはねつけるほど、人でなしじゃない」

 そう言われて、チカも仕方なさそうに頷く。

「わかりました」

「ああ。いちおう、君の連絡先も…」

 そこまで言ったところで、またしてもチカの”病気”が発動した。事務所のテレビが、リモコンに触れてもいないのに勝手についたのだ。怪訝そうに、玲司はチカの手から伸びるアース線を見た。

「そのアースは本当に効いてるのか」

「発生率が低くなるのは確かですけど、さっき言ったとおり、絶対ではないです」

 困ったもんだ、とため息をつきながら、まあいいやとそのままテレビはつけておく事にした。朝のローカルニュースで、空撮映像が流れている。道路脇にはブルーシートが敷かれ、警察官が動いている様子がわかった。

『…仙郷警察署では事件の可能性が高いとみて、付近の聞き込みなど捜査を進めており…』

「おいおい、市内かよ」

 どうやら、殺人事件らしい。黒いスーツの男が県道から少し横に入った路地で刺殺されており、付近には血のついていないナイフが落ちていたという。チカが無表情で言った。

「怖いですね」

「怖いで済む話じゃない」

 玲司は、テレビ画面とチカを交互に見る。

「君はこれから南條市に戻るんだろう。どうやってここまで来た?」

「あっ、住んでるのは南條じゃなく、月城です。電車で来ました」

「なんだ」

 てっきり25キロ離れた南條市からやって来たのかと思っていたら、南條市とこの仙郷市の間にある、月城市から来たらしい。月城駅からここまでは、大した距離でもない。

「じゃあ、駅までは送ろう。万が一という事もある」

「せっかく来たから、ちょっと市内を見て歩こうと思ってたんですけど」

 殺人犯がうろついている市内をか、と思ったが、突然電気を発する女子高校生と殺人犯、闘ったら勝つのはどっちだろうか、などと玲司はあらぬ事を考えた。



 なりゆきで女子高校生のボディーガードをしつつ、駅までの道を歩く。途中、書店に寄りたいというので、アカギブックスという少し大きい店に入った。

 チカは入るなり、ライトノベルコーナーに直行した。まあ電気を発しはするが普通の女子高校生である。ライトノベルを読む層はほとんどが成人男性だ、とかいう話も聞いたが。

 チカは平積みになっている新刊のひとつを確認すると満足そうに頷き、次に掲示されている売り上げランキング表を見て、少し不満そうに眉をしかめた。推しの作品のランクが低いのだろうか。

「もういいです。わかりました」

 それだけか。玲司は昨年のF1グランプリ総集編を棚に戻し、足早に書店を出るチカについて行く。店を出るか出ないかの瞬間、突然店のブレーカーが落ちたので、二人はダッシュでその場を立ち去った。


 その後も、通り過ぎた不動産屋の電光掲示板が火花を噴いて天に召され、コスメショップの棚の照明が激しく点滅してダンスフロアのようになり、電器店のスマートスピーカーが一斉に大音量で音楽を再生して、驚いた店員が転んだのを除けば、何事もなく仙郷駅まで辿り着いた。なんとなく「姪っ子の買い物に付き合ってやったおじさん」みたいな絵面である。

 自身の放電体質のため、比較的壊れにくいというフィーチャーフォンを手にする女子高校生の姿は、自分が同じ高校生くらいの頃には姿を消しつつあったので、なんとなく懐かしい。

「送っていただいてありがとうございました」

 言葉遣いは丁寧だが、事務所でのだいぶフリーダムな振る舞いを思い出すと、こいつはどういう育ち方をしたんだ、とは思う。

「ああ。そのうち、君の保護者の折原さんという人と、きちんと依頼内容について話し合う事にしよう」

「わかりました」

 ケータイを折りたたむと手に持ったまま、チカは改札の方を向いた。フィーチャーフォンといっても、モバイルチケットなどにはきちんと対応しているらしい。

「それじゃ、いったん失礼します」

「ああ。電車が停まらないよう祈る」

「停まったら、探偵さんの祈りが足りないせいにします」

 そこで初めて、チカは自然な笑みを見せた。ちょっとしたジョークも言える、ふつうの女子高校生のようだ。


 チカと別れたあと、車検で車を預けている中古車販売店、仕事上の付き合いがある弁護士事務所などにいくつか確認や連絡の電話を入れたあと、なじみの喫茶店「ローン・ガンメン」でブランチをとる事にした。

「妙な時間に来るね」

 ドアベルを鳴らして入るなり、カウンターから長い白髪、黒縁メガネのマスターが首をかしげた。もうちょっと愛想というものはないのか。薄暗い店内に、チェット・ベイカーが流れている。勝手知ったるカウンターの、右から2番目の定位置に座ると、マスターはコーヒードリップの準備を始めた。

「ちょうどいいや。くらさん、新しく仕入れたコーヒーフィルターの実験台になってくれるかい。お代はまけとくよ」

「味見役と言ってくれ」

 くらさん、とは闇淤加美だからである。マスターの富津さん56歳は、ホタテの殻みたいな波打ったドリッパーと紙フィルターを取り出した。なんでも、和紙のフィルターだという。

 フィルターを替えたオリジナルブレンドは、いつもよりすっきりしていながら、適度にまろやかさが残った味わいだった。これはこれで確かに上質だが、いつもの雑味を残した淹れ方の方が好きかも知れない、と答えると、高かったんだよなとかブツブツ言いながら、自身で風味を確かめていた。

 ホットサンドとナポリタンという喫茶店らしいメニューを食べながら、玲司はふと訊ねた。

「さっきニュースで流れてた物騒な事件、ありゃ何だ」

 事件とは、ローカルニュースで流れていた、おそらくは殺人事件だ。喫茶店でカウンターごしにする話ではないが、困った事にこのマスターは、物騒な話が大好物である。

「うん、まだ情報が少ないけどね。どうも、死んでたのはここいらの人間じゃないらしい」

 そんな情報、どこから仕入れたんだ。どっちが探偵かわからない。

「くらさんの所には、そういう事件の調査依頼は来ないのかい」

「あのね。そもそも日本の探偵は刑事事件には介入できないの。アメリカなんかは条件が厳しいライセンス制で、日本よりずっと権限も大きいんだけどね」

「ふうん。そのかわり、くらさんには”

そっち系”の依頼が来るだろう。ひょっとして今日もそんな話が舞い込んで来てるんじゃないのかい」

 どうもこの白髪のマスターは、数年前ここで探偵社を開業した時から思っていたが、妙にカンが鋭い。店を開いたのは二十数年前と聞いているが、若い頃どこで何をやっていたのか。玲司はコーヒーを傾けてから、少し身を乗り出して言い含めた。

「その手の話題は抑えてくれると助かる。うちは探偵社で、祈祷師でもエクソシストでもない」

「専門的に、そっちに鞍替えしたらどうなんだい」

「冗談じゃない」

 身震いして、玲司は何となくガラス貼りのドアを振り返った。これ以上、世間に厄介な噂が広まって欲しくない。いま、ドアを通り過ぎた通行人の人影が、聞き耳を立てていたのではないかと考えてしまった。


 喫茶店を出た後も、なぜか誰かに尾行されているような感覚が拭えない。ふだん、尾行だの聞き耳だのを実行する側の人間なので、妙な疑心暗鬼にかられてしまう。電柱の陰。塀の向こう。自動販売機の裏。誰かいるのではないか。いたからどうだという話だが。

 くだらない想像を巡らせても仕方ない、と思いつつ、闇淤加美探偵社に戻ってきた玲司は、鍵が開いていることに気付いた。ちらりと時計を見て、「早いな」とつぶやく。

 ドアを開けると応接コーナーで、VRヘッドセットを装着したポニーテールの不審人物が、リング状のコントローラーを両手に上半身を揺らしていた。

「取り込み中だったか」

「話しかけないで!今こいつをぶっ殺すから!」

 どこのどいつをぶっ殺すつもりなのか知らないが、白いブラウスの下の胸を揺らして、不審者はVR空間の何かに対して剣を振るうような動作をしていた。後ろにガラス扉のチェストがあるのが多少不安である。

「あーっ!」

 一瞬、天を仰いだのち、両肩をがくりと落として、ヘッドセットを外す。ゴーグルの下から、つい数時間前に合わせていた顔がのぞいた。チカよりも若干、鼻や顎がくっきりした顔立ちである。

「玲司が気を散らしたせいで負けた」

「人のせいにするな」

 呆れながら、時計を見る。まだ昼前だ。

「出勤は午後からでいいって言ったろ」

「お昼ここで食べる事にした。食べてから出かけるの、かったるいし」

「年寄りみたいなこと言ってんじゃない」

 呆れながら給湯室に向かうと小テーブルに、すらりとしたシルエットに似つかわしくない、コンビニの大盛りチキンカツ弁当が居座っていた。あの細い腹にこれが収まるのか、と玲司は思った。

「ああそうだ、亜希」

 冷蔵庫からアイスコーヒーのボトルを引っ張り出し、パーティションの向こうに声をかける。

「4時に、依頼者のところに話を聞きに行くからな」

「やっぱり!お茶を出した形跡があると思ったら、また仕事!?今日はダラダラ過ごせると思ってたのに」

「お前な」

 そこまで言って、玲司も朝はそう思っていた事を思い出す。亜希は仕方なさそうに生返事を返した。

「わかった」

「たぶん、大きくて綺麗な家だから、身なりは整えておいてくれ。言葉遣いも」

「お金持ち?じゃあ、ぼったくらないと」

 冗談で言っているとは思うが、冗談に聞こえない。眉をひそめていると、給湯室に来た亜希は思い出したように訊ねた。

「依頼人って、二人でここに来たの?いや、違うな」

 ゴミ箱の中を覗きながら、亜希は鋭い目を向けた。

「この給湯室に誰かいたでしょ?依頼人とは別の誰か。それも若い人。まだ朝は肌寒いのに、寒がりの玲司があずきバーを食べるはずはない。いたのはたぶん、十代の女性」

 探偵の助手としては頼もしい観察眼だが、友人知人の類としてはどうかと思う玲司だった。

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