煙水晶の影

煙水晶の影(一)

闇淤加美探偵社/煙水晶の影(一)



 奇妙な女子高校生、三階チカとの会話は、誰かが押したチャイムによって中断させられた。時刻はまだ朝7時台、探偵社の事務所を訪れるのはいったい誰だろうか。玲司は立ち上がると、都合よくキッチンのテーブルについているチカに言った。

「悪いが、適当に寛いでいてくれ。冷蔵庫のドリンク類は好きにしていい」

 そう言って事務所とキッチンを隔てるパーティションから出ようとした玲司は、振り返ると指を立てて一言だけ言い含めた。

「黄緑の輪ゴムが巻いてあるプリンだとかは助手のやつだ、命が惜しかったら手をつけるな」


 ドアホンのモニターを確認すると、玄関に立っているのは幅の広い帽子に、サングラスをかけた黒いコートの女性だった。

「はい」

 とりあえず声をかけると、ほんの少し間を置いて、やや低めの艶やかな声が返ってきた。

『朝早くに本当に申し訳ございません。お話を聞いていただきたく』

 その声色から、いくらか切羽詰まっているような雰囲気は感じられた。玲司は「お待ちください」と答え、ドアを開ける。

 そこに立っていたのは、トレンチコート越しにもすらりとしたスタイルなのがわかる、身長165センチメートルほどの女性だった。手元の傘は雨が滴っている。

「ひとまず、中にどうぞ」

 事務所の前で風邪を引かれても困る。女性を中に通すと、さっきまでチカが座っていた応接スペースの椅子をすすめた。


 帽子とサングラスを外した女性は、きっちりとまとめた髪を後ろで結い、少し切れ長の目が印象的で、三十台半ばくらいに見えた。コートも、タイトスカートのスーツも派手さはないが、ひと目で渋いブランドものだとわかる。

「わたくし、株式会社鷹岡工務店の専務補佐、鷹岡眞由美と申します」

 ガラス張りのテーブルに名刺を置いた指は、細くやや骨張って見えた。鷹岡工務店。その名に玲司は一瞬怯む。なぜなら県内トップ、国内でも有数と言っていい、建設企業大手だからだ。

「存じ上げております。確かこのビルも、鷹岡工務店だったはずです」

 多少世間話を挟みながら、玲司も名刺を差し出す。名刺の仕上がりひとつ取っても、大企業と街の場末の探偵社では、だいぶ差があった。

「それで…」

 話を切り出そうとしたその時、まったく予期しない人影が現れて、テーブルにお茶をふたつ置いた。ぎょっとしてその手の主を見ると、そこにはキッチンのテーブルにいたはずの三階チカが、お盆を抱えて立っていた。

「失礼します」

 左手からアース線を長々と延ばしたまま、毎日ここにおりますが何か、といった風情でチカは応接スペースを出て行った。あのアース線はいったい何メートルあるんだ。制服を着た女子高校生が、まさか自分に先立って訪れた別な依頼人だ、などとは思うはずもない鷹岡眞由美は、チカにありがとうと会釈した。

「妹さんですか」

 違います。と答えるのも面倒なので、玲司ははにかんで誤魔化し、話を進めさせた

 ちなみにこの時玲司は、探偵にあるまじき失態を犯しているのだが、その時なぜか全くそれを気に留めていなかった。

「それで、どういったご相談なのでしょうか」

 安い茶碗も所作の美しい人の手にかかると高級品に見えるな、などと思いながら玲司は訊ねた。鷹岡眞由美は碗を置くと、わずかに神妙な表情で切り出した。

「失礼な事を申し上げたら、申し訳ありません。会社に出入りする業者づてに又聞きした話なのですが、その…」

 眞由美は言葉を濁したが、玲司は次に何を言い出すか予想がついた。

「こちらの探偵社さんでは、特殊な案件を扱っておられる、と」

 またか。いったいどういう日だ。玲司はつとめて冷静に、表情を崩さず訊ねる。

「特殊な案件、とは?」

「ええ、何と言いますか、その…心霊現象、とでも言うのかしら。そういった方面の案件を、こちらで解決していただいたケースがある、という話をうかがいまして」

「…参考までにお訊ねしますが、どういった方から、そのようなお話を?」

 どうでもいいような確認だが、玲司にとっては重要な問題だ。つまり、この探偵社の”妙な噂”が、どのような形で、どれくらいの範囲まで広がっているのか。それに、ここはれっきとした探偵社だ。ぺてん師、えせ宗教家扱いされていたら経営にも差し障る。眞由美は答えた。

「お名前は差し控えますが、ある葬祭業者の営業の方から、市内の懇意にしている生花店さんが、その…”出た”案件を解決していただいた、と」

 それを聞いた瞬間、玲司は胃がキリキリ鳴るような思いがした。生花店。昨年の夏の案件だ。

「ある古いお寺さんでの葬儀に花籠を配達した帰路、配達用のバンが全損事故を起こしたのを皮切りに、生花店で感染症が発生して、店員の一人は特に重症で退職された、とか、他にも色々と…なんでも亡くなられたのは大変に気難しい方で、その方の祟りだと、まことしやかに言われているとか」

 だいぶ詳しく伝わっているようだ。その葬儀に参列した一般の人も、後日事故に遭ったりしている。玲司は思い出すだけで胃が痛くなった。

「それで、こちらの探偵社さんが解決されて以降は、ぴたりとそれが止んだ、と」

 まずい。もう完全に、エクソシストの類だと思われている。もう、そっちの案件は全部断るべきではないのか。

 その生花店というか、葬儀がらみの案件は、ざっくり言うならば、死んだ97歳の老人の祟り、と言っていい。生前から何かと恨みがましく、誰からも疎まれていた人物だ。はっきり言えば祟りの中身も逆恨みなのだが、道理もへったくれもない厄介者というのは、生きている人間も霊も同じである。玲司は、生きている人間の厄介者がそれなりに処されるのと同じように、”それなりに”対処して、その老人と関わった人達の因縁を切り離したのだ。

「鷹岡さん」

 やや諭すように、玲司は手を組んで言った。

「相談をうかがう前に、ふたつご理解いただく点があります。まずひとつは、当社は基本的に探偵社であり、日本全国の探偵社、興信所などと何ら変わらない、ということ」

 説明を受け、鷹岡眞由美は頷いた。

「そして、たびたびある事ですが、こうして訪れる相談者が、”そういった案件”だと早合点、あるいは思い込んでいるケースが少なくない、という事です。霊の仕業だと相談者が言い張って、単に相談者の家族の精神的な問題だった、というケースが実際あります」

 実際はあります、どころではない。身の不幸を霊のしわざだと思い込む人間は、珍しくも何ともない。人間というのは不思議と、人智を超えたところに原因があると思い込む習性があり、事実そうである場合もあるが、そうでない場合もあるのだ。

「つまり、最初から霊現象といった前提で、依頼を引き受ける事はできない、ということです。そのうえで、どう考えてもそれ以外あり得ない、となった場合にのみ、それなりの対処をします。よろしいですか」

 シャーロック・ホームズ風に言うなら”あり得ない事を排除していって最後に残ったものが、どれほど不可解であっても、それが真実だ”ということだ。鷹岡眞由美は再び頷いた。

「もちろんです。私もその程度の常識感覚は持ち合わせております」

「わかりました」

 玲司も最初から、この女性が普通のバランス感覚を備えている事はわかっていた。だが、それでも確認しておかなくてはならない事である。ようやく相手に安心できたところで、玲司は改めて訊ねた。

「それでは、改めてご相談をうかがいましょう」


 ◇


 鷹岡眞由美によるとそれが起きたのは、先代の社長で鷹岡工務店の会長だった、鷹岡精三が死去して以降のことだという。

「不審な人影、ですか」

 玲司は、眞由美が切り出した話を確認するように復唱した。

「はい、そうなのです」

「具体的には何月ごろから?」

「明確に何月何日、とは言い難いのですが、いちばん最初に気付いたのは、息子の直弥です。1月中旬から下旬のどこかでしょうか。学校からの帰り道、いつも似たような場所から、息子を見ている人影がある、と」

「人影、というのは具体的にはどういう…ああ、失礼」

 玲司は手を伸ばし、後ろのチェストの上に寄せておいた10インチタブレット端末を立ち上げて、タッチペンを手に取った。

「すみません、どうぞ」

「はい。人影というのは本当に”人影”で、はっきりした人相だとかはわからないのですが、その…何というのでしょう、まるで昔、山で修行していた人達というか」

「修験者?」

 イラスト作成アプリを開き、タッチペンで眞由美が言う人影の像をスケッチする。

「そう、それです。主人も、私も、長女で中学生の娘も見ています」

「こういう感じですか」

 玲司が8192レベルの筆圧感知式ペンを走らせると、描画エリアに細かく設定した鉛筆ツールが、まるでリアルな鉛筆のように、大雑把な修験者の姿を表した。

「…たいへんお上手ですこと。どちらかで絵の勉強を?」

 素直に感心した様子で、眞由美はタブレットの画面を見ていた。玲司はごく小さく咳払いをした。

「ええまあ、日常的に人相書きをするもので。刑事さんなんかも、絵が上手いものですよ」

「けれど、ちょっと違うかしら。ここまではっきりした修験者という感じでもないような…そうそう、頭にはなんだか、トサカみたいな髪というか、毛のようなシルエットがあったわ」

 だんだん眞由美の口調もくだけてきた。玲司は首を傾げつつ、てきとうな修験者の頭から、直立したモヒカンのような毛を逆立ててみた。

「さっきよりは近くなったのかしら。ああそう、手足はこんな、着ぶくれした感じではなくて、もうちょっとほっそりしてた気が…そうそう、手には棒みたいなのを持ってたような」

 眞由美の情報をもとに組み立てた正体不明の人影は、スリムなシルエットで髪が昔のヘヴィーメタルロッカーのように飛び出し、錫杖を持った異様なシルエットになった。

「こんなイメージですか」

「これ、全身を黒っぽいシルエットにできます?顔立ちだとかがハッキリしないような」

「ああ、はい」

 玲司は、”囲って塗る”ツールで全身をダークグレーに塗りつぶし、適当に陰影をつけて、まるで夜の闇に溶け込んだような姿にしてみせた。夜中にライブハウスの裏口から出て来た80年代のヘヴィメタロッカー、といった風体だ。

「ええ、はい。全くこの通りかは自信がありませんけど、大雑把なイメージとしてはこういう感じだと思います」

「…だいぶ特異な姿ですが」

 特異というか、不審だ。

「これを、ご家族全員が?」

「ええ、はい。夫の正典も、息子と、それから娘の直美も」

「それ以外には?ほかにご家族は」

 そう訊ねると、眞由美はわずかに眉間を歪めて、聞こえないくらい小さなため息をついてから答えた。

「主人の正典の弟、鷹岡正春の一家がおりますが…特にそれらしい人影を見た、という話はしていないそうです」

「つまり、その人影を見ているのは、眞由美さんのご一家だけということですか」

「そうなります」

「警察には通報されたんですよね」

「もちろんです」

 眞由美によると警察は当初、会社重役の家族を狙った何らかの犯行グループ、という線で警戒に当たってくれたという。だが、不思議と警察が動いてくれている間は、一切姿を見せず、警察が不審者なしとして切り上げた頃に、再び現れ始めるのだった。

「ちなみに、今日は見かけましたか?こちらに来られるまでの間」

「はい。タクシーに乗っている間と、こちらの事務所の近くで降りた際に、ビルの隙間に」

 あっさりと眞由美は言った。もう日常的な事になっているらしい。

「この事務所のビルの前は小さい公園になってますが、その反対側のビルですか」

「ええ。赤い看板の、文房具店が入ったビルと、となりのビルの間です」

「ちなみに、人影というのは単独で現れるのですか?」

 訊ねられた眞由美は、記憶を思い返しながら答える。

「現れる時は単独なのですが、家族の話を聞くと、姿が微妙に異なるようです。背が低かったり、なんだか羽根飾りみたいなものが見えたり」

「複数いる、と」

 情報を速記でメモしながら、玲司は眞由美を通して霊視を試みた。仮にそれが霊的な存在であるにせよ、あるいは人間であるにせよ、何度も現れているのなら”チャンネル”にアクセスして、いくらか当たりをつけることができる。

 だが、玲司は霊能者としてはそこまでレベルが高いわけではない。調べてみたものの、眞由美を通じて視えたのは、眞由美の守護霊か何か判然としない、いくつかの霊体だけだった。少なくとも眞由美が言うような、異様な存在は見当たらない。現代人か、何百年も前ではあっても比較的よく見る人間の霊にすぎなかった。

「それが、普通の人間ではないと思われる根拠は?」

 玲司は訊ねた。

「だって、タクシーで出かけた先のビルの隙間に現れるんですよ。主人や娘も、急に入った出張先だとか、吹奏楽部のコンクールに向かう途中の、道の駅だとかで見たと言っています」

「なるほど。いちばん目撃回数が多いのは?」

 家族構成のメモにボールペンの先を向けて、玲司は訊ねた。眞由美は即答した。

「たぶん、息子の直弥です。もう、私達以上に慣れっこになっているみたい」

「つまり、実害はないということですか」

「そこなんです。現れるのは現れるけれど、いっさい害はないんです。だから最近は、亡くなった会長…つまり主人の祖父が、可愛がっていた曾孫を守護しているのではないか、などと話したりもしています。面白おかしい人でしたから、修験者みたいな格好をわざとしているのかも、なんて」

 なるほど、と玲司は思った。亡くなった人間が、家族の守護にまわるのは珍しくもない。ことに、可愛がっていた曾孫の守護というのはあり得る話だ。

「ただ、実害がないからといって、薄気味悪くないわけでもありません。娘は外出するのが怖い、などとも言っていますし、直接的な害はなくても、生活に影響は出ています」

「なるほど」

「警察は実害もなく、ストーカーなどの証拠も確認できないため、事件として扱う事はできない、と」

 なんとも厄介な状況だ。そもそも今こうして相談を受けている玲司自身、その人影とやらを確認したわけではない。全て、この鷹岡眞由美からの情報だけである。穿ったことを言えば、精神疾患患者の妄想だと言って追い払う事だってできるだろう。

 だが、おそらく霊的な何かが、この女性の家族にまとわりついているのは間違いない、と玲司は断定した。

「わかりました。当社でよろしければお引き受けいたします」

「ありがとうございます」

「先に申し上げましたように、あくまでも形式的には通常の探偵調査という名目でお願いします」

 そこから、調査には二名の探偵が交替ないしは同時に動く事、発生する料金、着手金など細かい事を説明し、まず調査の取り掛かりとしていちばん多く人影を目撃しているという、眞由美の息子の話を訊く事で話がまとまる。


「ありがとうございました。どうぞよろしくお願いいたします」

 鷹岡眞由美はお辞儀の所作も凛としている。玲司も多少見習って、丁寧に頭を下げた。

「それでは夕方四時半、ご子息の直弥さんのお話をうかがうという事で」

「はい。それでは、失礼いたします」

 ようやく話を聞いてもらえた安堵感からか、眞由美はいくぶん表情を和らげて、静かにアルミのドアを閉めて事務所をあとにした。階段を硬いヒールが叩く音がしなくなったところで、玲司は安い合皮のソファーにドサリと背中を投げ出した。

「参ったな」

 浮気調査が終わったとたんに、面倒な依頼が舞い込んできた。しばらくゆっくりしようと思ってた所にこれだ。勘弁してくれと思いつつ、糖分が欲しくなって立ち上がろうとした、その時だった。

「はい。食べる?」

「おっ」

 コロコロとした女の子の声とともに横からのびてきた手が、ガラステーブルに消費期限間近のレアチーズケーキのカップと、プラスチックのスプーンを置いた。それがまるで普段の事であるかのようにカップを手に取り、フタをはがそうとしたその瞬間、玲司はその細い手の主の存在を改めて思い出した。恐る恐る顔を向けると、そこにはあずきバーをなめながら、タブレット端末の人相書きを興味深げに眺める、三階チカの姿があった。

「ふーん、上手いね。おじさん、ひょっとしてオタクなの?デッサンの取り方がそれっぽい。同人誌とか描いてたりして」

 なんだかキラキラした目を向けるチカだが、玲司は首筋をつたう冷や汗とともに、蒼白になって訊ねた。

「…お前いま、依頼人との会話、聞いてたか」

「うん、聞いてたよ」

「どこまでだ!」

 食い気味に立ち上がると、チカは透き通った瞳で玲司をまっすぐに見て答えた。

「最初から最後まで、ぜんぶ」

 それは玲司が探偵になって以来の失態であり、物語の始まりを告げる合図だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る