闇淤加美探偵社

塚原春海

序章

 ギザの大ピラミッドは宇宙人が造ったのか、クフ王が奴隷を用いて建てたのか、それとも公共事業で建てさせたのか?


 いまは検索バーに訊けば何でもわかるし、世界に謎など残されてはいない。”グラハム・ハンコックが書いているような”、宇宙人が建てたなどという説はイギリス人の妄想にすぎない。と、現代人は考える。


 ひとつ指摘しておこう。グラハム・ハンコックは、異星人が大ピラミッドを建てたなどと、その全ての著書で一度も書いていない。それどころか、人類文明への異星人の関与について「今はその可能性を考慮する必要を感じない」と述べてさえいる。


 じゃあ誰が言ったのか。ハンコックをどうしても、妄想癖患者に仕立て上げたい学者だ。理解できないものは全て、現代科学の前に膝を屈するべきだと願う大衆、マスコミだ。


 何が言いたいのか。僕の仕事は先入観に縛られては遂行できない、ということを説明したかっただけだ。自分の頭で結論を出さなきゃいけない。ネットも、どこかの偉そうなおっさんも、大してアテにはならない。




【闇淤加美探偵社】


 -序章-



 まだ花冷えの余韻が残る少し冷えた3月の朝4時すぎ、玲司は雨に濡れた舗道を、コンビニエンスストアの袋を提げて歩いていた。肉まんだけは冷めないように、コートのポケットに入れてある。


 まったく、くだらない事件だった。浮気調査で43歳の妻の不倫の証拠は掴んだものの、その調査の過程で何がどうしたものやら、依頼してきた48歳の夫の不倫も明らかになってしまったのだ。自分の浮気を棚に上げて、妻の浮気は俺に調べさせていたというわけだ。

 いま、当事者達の周辺はハチの巣をつついたような騒ぎになっているが、俺は依頼を果たしただけで、依頼料さえ振り込んでくれれば、それ以上は知った事じゃない。警察だって民事不介入、あとは裁判なり何なり、よろしくやってくれ。


 「古川古書堂」の年季の入ったシャッターの脇の、けたたましく鳴る階段を上がると、短い廊下の奥の突き当りの古びたドアに、カッティングの明朝体で“闇淤加美探偵社”と、事業所名が示されていた。


 

 応接スペースのチェアーに商売道具のスマホ、赤外線つきデジカメ、数珠、塩、御札などを投げ出し、チキンラーメンにお湯を入れて3分待つあいだ、スマートフォンでF1グランプリの結果をチェックする。わかっていたが、マックス・フェルスタッペンが連勝を決めたようだ。いいぞ。玲司は、祝杯がわりのレッドブルのプルタブを引いた。

 不健康な食事も、独り身ならば誰にも咎められる事はない。肉まんとカップ麺、エナジードリンクの早い朝食を済ませると、玲司は仕事用のメールをチェックした。弁護士、神主、住職、警察など業務関係者の雑多な連絡、確認に混じって、久しい知己の名前を見付けて玲司は身構えた。


“from:小鳥遊龍二 件名:連絡”

“唐突で申し訳ない。今日あたり、そちらに一人の女性が訊ねていくと思うので、よろしく頼む。面倒をかける礼はする”


 玲司は眉間にシワをよせ、残っていたレッドブルを飲み干すと、もう一度メールを確認した。

「あの人が面倒な案件以外、回してよこす筈がない」

 チキンラーメンの空のカップを睨んで、玲司は呟いた。小鳥遊龍二。何年か前、探偵社勤務時代に世話になった人だ。今は企業調査士と、女の子のジャズだかフュージョンバンドだかのマネージャーみたいな事もやっているらしい。

 弁護士の資格に格闘術までマスターしている凄い人ではあるし、良い人ではあるのだが、それと同じレベルの食わせものでもある。

 しかも、面倒をかける、と前置きしてきた。冗談じゃない。あの名探偵が手に負えない案件だとでもいうのか。


 空が明るくなってきた。まだ開業時間までは間があるし、助手の亜希には夜勤のぶん、昼出社でいいと伝えている。とりあえず午前中は平和だろう、平和であってくれと願いつつ、玲司はソファーに身を投げ出した。



 寝室ではなく事務所で寝た事を、玲司は新聞配達の騒々しい足音、投函の音で起こされて後悔した。1時間そこらしか眠っていないのに、いったん目が冴えてしまったせいで、容易には眠れない。寝る前にレッドブルを飲んだのは失敗だった。仕方ないので、起きてシャワーを浴びる。

 新聞の一面を見ると、公金を横領した議員だかの、胸糞が悪くなるしかめっ面と目が合った。さっさと逮捕されればいいのに、権力者に甘い国だ。


 亜希が買ってきた、ブルーマウンテンブレンドという紙パックのドリップコーヒーを淹れる。ブルマンの割合は不明だが、それっぽい風味ではある。

 窓の外を見ると、また雨が降ってきた。雨の音は好きだ。とりあえず午前中はゆっくり過ごせるだろう。小鳥遊さんが押し付けてきたその依頼人だか誰だかも、まさか朝6時や7時に来るわけでもあるまい。

 そうだ、誰か来たら困るので、昼まではドアに休業中の札を下げておこうと、玲司は”タイガー&バニー”のマグカップを握ったまま玄関に向かった。

 

 まったく油断していた。考えもしなかった。ドアを開けて約2秒後、玲司はその光景に驚いて、マグカップのコーヒーを3分の1くらい、自分の膝にぶちまけてしまった。

「おあっつ!」

 980円のダボダボのカーゴパンツの薄い生地は、紙フィルターより速くコーヒーを通過させ、容赦なく膝と脛を熱した。

 だが人間、緊急時に先に働くのはなぜか、場を取り繕おうとするプライドである。かろうじてマグカップをシューズボックスの上に置くと、精一杯の冷静さで、玲司はドアの向こうに立っていた相手に訊ねた。

「当社に何か御用でしょうか」

 そこに立っていたのは、黒いスクールコートと深い紺色の制服に身を包み、前髪を切り揃えた長髪の少女だった。



 少女を応接スペースに座らせてコーヒーを出しておき、ひとまず人に応対できるギリギリの服装に着替えると、玲司は改めて少女の向かいに座った。

 少女は美人と言っていい。異様に透き通ったグレーの瞳は日本人離れしているが、カラーコンタクトだろうか。少し、いやだいぶ変わっているのは、両手を覆った厚手の黒いビニール手袋だ。かえって冷たくないのか。

「いきなりこう訊くのは失礼ですが、ひょっとして小鳥遊龍二さんから紹介された方ですか」

 もう訊かなくてもだいたいわかる。少女は小さく頷いた。

「はい。南條商業高等学校2年、三階チカといいます」

 さんがいちか。そう名乗る少女が示した学生証には、確かに「南條商業高等学校 情報デザイン科 三階千華」とあった。学生証は本物だ。しかし、南條市は確かに小鳥遊さんの現在の居住区ではあるが、この仙郷市とは60キロメートルばかり離れている。

「南條市からここまで、一人で?」

 何気なく訊ねたが、チカは平然と答えた。

「はい」

「えっと…」

 親御さんは、と訊ねかけて、すぐに玲司は質門を変えた。

「単刀直入に訊くけれど、なぜここに?」

「小鳥遊さんという方に、こちらの探偵社さんなら力になってくれるだろう、って言われて」

 何となくおしとやかそうな外見だが、口調や態度はわりかしフランクだ。あまりフレンドリーなのも困るが、かえって話しやすい。

「力になる、っていうのはつまり、何か問題を抱えてる、という事なのかな。例えばその…」

「ストーカーとか、その類の話ではありません」

 チカは先回りするように答えた。そのときふいに、チカの懐でLINEか何かの受信音が鳴った。チカは慌ててポケットに手を入れる。

 だが、予想に反してチカが取り出したのは、今どき珍しい折り畳み式のフィーチャーフォン、いわゆるガラケーだった。しかも奇妙なのは、よくパソコン用のSSDだとかRAMだとかの保護に使われている、静電気防止の袋に納めてあったことだ。チカはマナーモードに切り替えると再び袋に納め、小さく頭を下げて話を続けた。

「私が何かの被害に遭っているとか、そういう話ではないんです」

「つまり、君自身に関する問題ということ?」

「はい」

「その、厚いビニール手袋と関係ある?」

 玲司は、これもストレートに訊ねた。フィーチャーフォンといい、明らかに奇妙だったからだ。チカは答えた。

「そうです」

 答えながら、チカは室内をキョロキョロと見回し始めた。そして、過去この探偵社に訪れた人間が、おそらくただの一人も訊ねた事はないであろう質門をした。

「すみません、壁のアース端子はありますか」

 なに?玲司は一瞬、なんと質問されたのかわからず、つい訊き返した。

「…アース端子?えっと…電気製品のアースってことか?」

「はい。あそこに見える電子レンジのあたりに、ありませんか」


 なんとなく、玲司も話が見えてきた。が、見えてきた話を信じるべきか否かわからず、レンジの右横にあるコンセントを見ると、レンジのアース線がアース端子につながれていた。配達した電機店の人に設置まで任せてしまったので、アースをつないだ事など忘れていたのだ。

 チカは、左手首の手袋の下に隠れていたマジックテープのバンドから、長々と黒いコードを引き延ばして壁のアースに近づいた。大学生の頃、バイトで電子機器の工場に行った時、基盤へのデータ書き込み作業で巻いた除電コードだ。そんなものをわざわざつけたチカの行動で、玲司もようやくいくらか理解した。

「ひょっとして、なにか妙な体質を抱えている、ということか?たとえば…」

 そう言ったのと同時に、突然、触れてもいないテレビの電源がオンになった。

「ん?」

 うっかりリモコンを押したかな、と玲司は手元を見た。しかし、リモコンは事務所のデスクに置いてある。どうした事か。そう思っていると、こんどはエアコンが停まってしまう。

「なんだ、勝手に…」

 リモコンに手をのばす。だが今度は天井のLEDシーリングライトが、勝手に暖色に切り替わったかと思うと、明るさがマックスになって、次には消灯してしまった。

 だんだんわかってきた。チカは落ち着いた様子で、壁のアース端子のネジをゆるめ、コードの先端を接続する。それを確認したあとで玲司は、テレビを消し、照明をつけ直し、エアコンの暖房を入れた。今度は、もう何も起こらない。ため息をついて、玲司は食事用のテーブルに座った。

「…こういうことか」

「そういうことです」

 チカは勝手にテーブルにつくと、手首のバンドを示してみせた。

「4か月ほど前からなぜか放電体質になって、周囲の電子機器が誤作動するようになってしまったんです」


 放電体質。驚くべき事ではあるが、そういう人間の事例は本当にある。指からスパークを出して煙草に火をつけられる男の動画を、むかし見た事がある。蛍光灯を握れば灯りがついたそうだ。このチカという少女も、どうやらその類らしい。

「わざわざフィーチャーフォンを使っているのも、そのためか」

「はい。スマートフォンの画面をタップすると、フリーズしたり、再起動したり、最悪パネルが光ってそれきり起動しなくなる事も」

 フィーチャーフォンはボタンがプラスチックで絶縁されているが、それでも誤作動がないわけではないという。

「…不便だろう。月並みな質問で申し訳ないが」

「不便なだけならまだいいです。この間エレベーターが停まって、ビルの17階あたりで知らないおばさんと、20分くらい閉じ込められてました。おばさんがパニックを起こして」

 なんだかもう、あらゆるトラブルを経験し尽くしたのだろう、チカはもう何か悟っているふうにさえ見えた。が、乗り物に乗っている間のトラブルは怖い。もし、高速道路を時速100キロで疾走するバスの電気系統が、突然停まったら。飛行機が上空でシステムダウンしたら。考えただけで恐ろしい。そう思っていたら、実際に電車を停めた事があったという。

「電車で、どこかのおじさんにお尻を触られたんです。キモッ!て思ったら放電して、私の周囲の人達が一斉に感電して気絶して、電車はストップしました。私は原因を知ってますけど、面倒なので知らんぷりして出てきました」

 そういえば、なんだかそんなニュースを数か月前に、ネットで目にした気がする。

「…病院とかには、行ったのか」

「もちろんです。けれど、うやむやにされて、たらい回しにされて、もう出禁みたいな扱いになりました」

 それもまた酷な話だが、病院側にしてみれば、いるだけで医療機器が停まるという恐ろしい事態にもなりかねない。自分どころか、他人の生命まで危うくなる。つまりこのチカという少女は、頼れる者がいなくなったわけだ。

「小鳥遊さんとは、どうやって知り合った?あの人に相談したんだろう」

「はい。私の友達が南條科学技術工業高校に通っていて、そこの3年生の生徒さんが小鳥遊さんとお知り合いらしくて、そのルートで小鳥遊さんの耳に入ったということらしいです」

「それで小鳥遊さんが、お節介を焼いたということか」

 玲司はため息をついた。あの人らしい。ひと癖あるが、ある意味では善人すぎるくらい善人なのだ。玲司はその小鳥遊龍二のもとで、探偵として仕事をしていた事がある。小鳥遊さんが外部顧問として千住組という建設会社に事実上引き抜かれたのを機に、玲司も独立して探偵社を設立したのだ。

「だいたいわかってるんだが、いちおう確認しておくよ。小鳥遊さんはなぜ、俺の探偵社を指名して君を寄越した?」

「はい。この探偵社は、こういう奇妙なケースの解決が得意だから、だと」

 そら来た。

「闇淤加美玲司さん、でしたよね。小鳥遊さんが言ってました。視える人だ、って」

「どこまで聞いた」

 食い気味に玲司は訊ねた。どこまで何を、小鳥遊さんは自分について語ったのか。

「えっと、殺人事件の捜査への協力で、容疑者だった男に憑いてる霊を特定して犯人逮捕に繋がった、とか」

「あれは参考までに言っただけだ!そのあと、どうして容疑者の足取りを正確に知っていたのか、とか警察に調べられて、誤解を解くのに大変だったんだ!」

 思わず声を上げてしまう。実のところ視えるといっても、なんとなくこういう奴が憑いてる、とか大雑把な情報がわかるだけで、そこから先は生身の推理、捜査で事実を掴む以外ない。すると、チカは小さく笑った。

「ごめんなさい。クールっぽい外見だと思ったけど、中身はそうでもないんですね」

「だいぶ失礼な言いようだが、まあいい」

 首を横に振って、玲司はチカが座る前にチェストの上にどかした、数珠やお札を見た。神道とは関係ないが、そもそも玲司の霊能力は完全に我流で、神道も仏教も関係ない。要するに霊とコンタクトが取れれば、インターフェイスは何でもいいのだ。

 だが、と玲司は首を傾げた。

「つまり君は、その体質を何とかできないか、ここに相談に来た。そういう事でいいんだな」

「はい」

「だがな、冷静になってみてくれ。確かに俺は、ちょっとばかり”視える”人間ではある。簡単なお祓いの真似事も、いくらかできる。だからと言って、その放電体質を解決できるような知識を、即座に提供できるわけじゃない。というより、ハッキリ言おう。専門外だ」

 玲司は断言した。確かにこの闇淤加美探偵社は、ごく一部界隈から”その手の案件”の解決を依頼される事がままある。だが、ざっくり言えばそれは霊障方面、ということになる。身体から電気が出て、電子機器が暴走する原因を突き止めるのは、どっちかと言うなら科学者の領分ではないのか。

「それと、もっと重要な話がある。ここは探偵社だ。探偵社に依頼するということは、料金が発生する。日本国の通貨で支払う必要がある料金だ。君は、それを支払う事ができるのか?」

「その辺は心配ないかも知れません」

「なに?」

 なんだ、この少女の自信は。まるで、金があるような言いぐさだ。だが、玲司はなんとなく納得できるものがあった。つまり、金を持っている人間と、そうでない人間の持つ”におい”の違いだ。この少女からは、どちらかというと”持っている”人間のそれを感じるのだ。怖いものなどない、という静かな余裕と自信だ。そこで、玲司は電卓に、簡単な金額を打ち込んで提示した。

「たとえば、前金をこれくらい支払えと言われたら…」

「あっ、大丈夫です。今日中に振り込みます」

 その食い気味の軽い回答に、玲司は眼を丸くした。何を言っているんだ?大人をバカにしてるのか?とさえ思ったほどだ。だが、少女の目に嘘はない。目を見れば嘘かどうかは、探偵をやっている玲司にはわかる。こいつの目は嘘を言っていない目だ。

 だが、それでも玲司は迷った。この、難解そうな依頼を引き受けるべきか。金だけ受け取って解決できない場合、闇淤加美探偵社の業績にひとつ傷がつく。やっぱりやめておくか。今ならまだ、他を当たってくれと断れるのではないか。

 それでもやはり、一人の少女がこうして助けを求めて来ているのを、無碍にもできない。あるいは、人脈を探ればこの問題を解決できる誰かがいるかも知れない。医療、技術方面にも知己はいる。


 よしわかった、と玲司が決意して、引き受ける旨を言おうとした、その時だった。固い足音が外の階段を登ってくると、探偵社のインターホンのチャイムが鳴った。

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