第3話 ノアの洪水とバベルの塔
伏魔殿玄関口でベルゼブルに見送られ、アザゼル分隊二〇〇名は地上に上った。
光がなく闇に包まれている陰府の暮らしが長いアザゼル分隊の隊員たちは神の栄光で照らされている天上の暮らしをすっかり忘れていたので、地上の昼間が太陽光で明るくて暖かいことに驚いた。
そして緑の木々が茂り、色とりどりの花が咲き乱れ、海や川は透明で青く、野原を駆け巡る野生の動物たちの躍動感の美しさに心が躍り、自分たちが悪魔であることを忘れてしまうほどに純真な心が芽生えた。
特にラミエルとカマエルは地上の美しい世界に魅了され、目をキラキラ輝かせ、はしゃいだ。
「わーいわーい!」
「すごい!すごい!」
「これが地上なのね!」
他の堕天使が二人を諫めた。
「おい、遠足じゃないんだぞ。」
夜は暗かったが月星の光が美しかった。
夜明けの空に大きく輝く金星がアザゼル分隊の隊員たちの目に留まり、口々にほめたたえた。
「美しい!」
「これぞ美しい神の作品!」
アザゼルは目をウルウルと涙で滲ませて言った。
「あの星がルシファー様の本来の御座だ・・・・」
アザゼルは隊員たちを鼓舞した。
「人間の完全な堕落は近い!心して臨め!」
隊員たちは拳を挙げてアザゼルに応えた。
「おう!!」
「ルシファー万歳!」
アザゼル以下堕天使たちは悪魔であることを思い出すことができる闇夜のうちに人間である女たちを誘惑した。本来はノアの家族を堕落させることのほうが優先順位が高いはずだが、アザゼルは自分の欲望を優先させた。
天使や堕天使は霊的な存在だが、質量のある肉体に変化することもできた。肉体を持つときは食べることもできるし、飲むこともできた。
女たちは「父母を離れ一夫一妻で結ばれる」という神の教えを知らなかったのか、知らぬふりをしたのか、堕天使たちの誘惑にまんまと乗り、本能の赴くままに堕天使たちと結ばれ、ともに暮らし始めた。
ラミエルは女に興味がなかったので(男にも興味はなかったが)、ほかの堕天使たちが各々家庭を築いていく様子を横目で見ながら一人困り果てていた。
「どうしよう、僕、何しに地上に来たんだろう・・・・」
ラミエルの唯一の理解者カマエルは先輩堕天使に連れられてどこかに行ってしまい、行方が分からなくなってしまっていた。
「カマエル・・・・どこに行っちゃったんだろう・・・・僕を支えるんじゃなかったの・・・・」
ラミエルは一〇か月間一人で友人カマエルを探し続けたが見つからなかった。
すると数人の女がラミエルに近づいてきてラミエルを囲んで口々に言った。
「おやおや、あんた、背中に羽が生えてるじゃないかい。」
「女の天使かい?珍しいね。」
「男の天使はウジャウジャいるけどあたいらは興味ないからねえ。」
「可愛いし、おいしそうだね。」
女たちの会話の意味が分からない世間知らずのラミエルは不思議なことをいう女たちだと思うしかなかった。
「おいしい?僕食べられませんよ。」
女たちは高笑いしてラミエルに襲いかかった。
「いいから黙ってな!悦ばしてやるよ!」
女たちはラミエルに群がり殴る蹴るの暴行を始めた。弱って動けなくなったところを襲うつもりだった。
すると非常に大きな体の人間 (注21)がドスドスと大きな足音を響かせてラミエルたちに近づいてきた。
そしてその巨人は何の躊躇いもなくラミエルを襲った女たちを踏みつぶして通り過ぎて行った。傷だらけで所々破けている服を着たラミエルは幸い間一髪でその巨人の大きな足から逃れて、その巨人の手の届かない高さにまで舞い上がった。
「な、なに?巨人?こんな生き物地球にいたっけ??」
地上では踏みつぶされ血だらけになった女たちの死体がペシャンコになっていた。
空中から周りを見渡すと、同じような巨人が大勢見えた。
「な、なにこれ・・・・」
すると高い山の中腹にアザゼル分隊員達が集まっている光景が見えたので、ラミエルはその山に向かい、到着すると分隊員たちに声をかけた。
「みなさん、どうかしましたか〜?」
その中に疲れ切った表情のアザゼル分隊長がいた。
「アザゼル樣!」
「お、ポンコツラミエルか、なんだそのナリは?」
アザゼルはラミエルのボロボロの服と傷だらけの体に気づいた。
「犯されたのか?」
ラミエルはアザゼルの鋭さに驚き顔を真赤にして言った。
「お、犯されてませんが、犯されそうになりました!」
ラミエルは周りの疲弊しているアザゼルや他の分隊員達に尋ねた。
「ところで、なんなんですか、あの巨人たちは・・・・」
「俺たちもわからん。地上の女たちが産んだのだ。」
「え???あんな大きな体の巨人を産んだんですか?」
「生まれたときは普通の赤ちゃんだったのだが食べる量が半端なく、成長スピードも異常に早かった。」
「そいつらは俺達の子どもでもある。」
「はあ????」
アザゼルのそばで一人の堕天使が頭を抱えて震えているのが見えた。
「大丈夫ですか?」
「ラミエルか・・・・」
「なんで頭を抱えて震えているのですか?」
「お、俺の子どもが野菜や肉をすべて食べて、食べるものがなくなったら僕の奥さんを食べて・・・・」
「なんなの、それ???」
ラミエルはアザゼルに尋ねた。
「なんなんですか、あの巨人は??」
アザゼルは降参ポーズをとって言った。
「わからん。」
ラミエルはカマエルが心配になってきた。気弱なカマエルが他の堕天使たちと同じことをして同じ状況に立たされたら、精神的に耐えられないのではないかと思った。
ラミエルはアザゼルに尋ねた。
「アザゼル様、カマエルはどこにいるのですか?先輩に連れられてどっかに行ったまま十か月くらい経つのですが、いまだに見つからないのです。」
「わ、わからん・・・・」
ラミエルは決意して言った。
「カマエルを探してきます!」
ラミエルは羽で飛び立ち、分隊から離れ、一人カマエルを探し始めた。
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天では地上の様子を三大天使ミカエル(注22)、ガブリエル(注23) 、ラファエル (注24)、そして元々人間で六百年前に生きたまま天に引き上げられ、神の恵みにより天使になったエノク(注25) が監視していたが、その映し出される光景に深いため息をついていた。
「一線を越えたな・・・・」
「異種姦のことか?」
「ああ、生まれた巨人はネフィリムだ。人間でも天使でもない。」
「この惨状を神はどう思われるか・・・・」
ミカエルは戦、ガブリエルは言葉、ラファエルは癒しを得意としていて、神の計画が悪魔に邪魔されないように地上を監視し、場合によっては必要に応じ地上に降りて人間に神の言葉を告げたり、悪魔や悪霊を蹴散らしたりする役割を持っていた。
天使は直接的に人間の性格を変えたり行動を制限したりすることはできないが、それは堕天使も同じである。
天使たちは地上の惨状を見ながら打ち合わせを始めた。
「アダムが死んでから六〇〇年、神とアダムを直接知らない世代の人間が増大し、人間はついにここまで堕落してしまったというのか・・・・」
「酷い状態だね!」
「これでこの世はゲームオーバーだな・・・・」
ずっと黙っていたエノクは口を開き他の三人に告げた。
「私は神に命じられた。ノアに大きな舟を造らせよと。」
「へー人間に直接介入するのか?てことは重要な人類の歴史の節目だな。」
「たぶん、わたしが天に取られた時以来の介入だな。」
「で?」
「ノアとノアの三人の息子セム、ハム、ヤペテとそれぞれの妻の8人と地上のすべての動物の雄雌一組ずつを舟に載せて救い出す。」
「何から救い出すのだ?」
「舟で救い出すということは水じゃね?」
「ああ、今から神が洪水でこの世をリセットする。」
「凄いこと考えるなあ。」
「ここまで堕落してしまうと仕方がないことなんだろうな・・・・」
エノクは改まって三人の天使に言った。
「では、ノアの所に行ってくる。」
三人は改まって答えた。
「そうか、では、いってらっしゃい。」
エノクがノアの住む地に降り立ったあと一年が経過した。ノアはエノクの指示通り木で大きな舟を建造した。長さ一三三.五メートル、幅二二.二メートル、高さ一三.三メートルの大きな方舟 だった(注26)。
「ノアは他の人にも舟に乗るように勧めてるぞ。」
「誰もノアの警告を聞かないよ。悲しいなあ。」
巨大な大いなる水の源がことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。
そして神の命令通り四〇日間大雨が降り続き、全地は山の頂まで水没した。
海の生き物以外の全ての生き物は息絶え、生き残ったのは舟に載ったノアの家族と一組づつの生き物だけだった。
そしてアザゼル分隊の堕天使は神によって裁かれ、陰府のなかの別室であるアビス (注27)という地の底深いところに閉じ込められた。
ラミエルは罪を犯さなかったので神の裁きを直接受けなかったが、洪水が襲ってきたときにネリフィムに足をつかまれ、飛び立てなかったので、そのまま洪水の底に沈んだ。
やがて水は引いた。
ラミエルは運悪く洪水によって死海の深瀬に流れ着いたので水が引かず、水底でネフィリムに足を捕まれながら深い眠りに着いた。
ノアの舟はアララテ山(注28) の頂に着地した。
水は引いたが、地形は様変わりした。陸地は減り地球は水の惑星となった。
ノアの家族はもともと信仰心は厚かったが、「思い」だけで地上の生き物のすべてを抹殺できる神の恐ろしさを目の当たりにしたので、その信仰心は益々堅固になった。
ノアは神のために祭壇を築いて、全焼のいけにえをささげた。
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陰府の堕天使や悪霊はノアの洪水による人類の滅亡や、アザゼル分隊員二百名の裁きの話を聞いて狼狽えた。
ルシファーの指令室ではベルゼブルとレビアタンが頭を抱えた。
「ほら!いわんこっちゃない!」
「さよならアザゼル。アビスの封印を解けるのは神だけだ。」
「でもほぼほぼ人類は滅びたので、成功とも言えるな?な、ルシファー?」
ルシファーは目を細めて笑いながら答えた。
「アザゼルは活きが良すぎたかな、ハッハッハッ!」
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ノアから生まれた男の子はセム、ハム、ヤペテたが、ハムの子はクシュといい、クシュの子はニムロデといった。
神は人間がほうぼう離れて集団を作りそれぞれの地で農業や牧畜に勤しむことを望み、天使たちはそれを助けた。
この頃には人口は増大していたが、人間は最初に神から教わった一つの言葉で話していた。
ニムロデは強靭な体力の持ち主で力ある猟師だったが、ルシファーはこのニムロデに着目しベルゼブルに指示を出した。
「人間の信仰は親子くらいなら繋がるが孫世代で怪しくなる。何代も続かない。その中でもニムロデはサタンそのものだ。ニムロデを用いよ。全人類の堕落は近い。」
ルシファーの思惑通りベルゼブルの誘導によりニムロデは人類史上最初の権力者、古代メソポタミヤ文明において最恐の王となり、その王国(注29) はバビロン(注30) の地から広域に広がった。
ニムロデはその王国の繁栄は神のおかげではなく自分らの剛勇によるものだと説き、人々を神から離れさせた。そして専制的な統治により神ではなく自分を恐れるように民を仕向けた。
「神が再び地を洪水で覆うつもりなら、その時は神に復讐してやる。」
人々はルシファーの思惑通り神ではなくルシファーの生き写しのようなニムロデを恐れ崇めた。
「水が達しないような高い塔を建てて父祖たちの滅亡の復讐を果たす。」
人間はほうぼう離れてそれぞれの地で生業を営むという神の望みを無視し、反抗して雄叫びをあげた。
「我々が全地に散らされないように王の仰せの通りにしよう!」
人間は神に従うことは神の奴隷になることだと考え、ニムロデの命令に従い、疲れも忘れて塔の建設に懸命に取り組んだ。
そして人海戦術のおかげで、予想よりもはるかに早く塔はそびえたちつつあった。素材は焼き煉瓦で水で流されないようにアスファルトで固められた。
ニムロデは洪水体験者であるハムの孫だが、人間はたった二代で神から離れ堕落できることを証明した。
ミカエルやガブリエルたちはバビロンに建ちつつある塔を天から眺めていた。
「洪水で破滅を導いてもその体験が子孫に受け継がれてないってことか?」
「神は洪水によって裁かないって、ノアに言ってたのに、忘れちまったのか?」
「これぞ罪と死と陰府のなせる業か。」
「アダムの犯した罪の重さよ・・・・」
「相変わらず、ルシファーの思い通りの世だな。」
「エノク、今後の神の計画は聞いてるのか?」
「・・・・そのうちわかるだろう。今のところは父なる神と御子のみぞ知るってところだな。」
そこに最上位の熾天使セラフィムがやってきて、会話に入ってきて言った。
「神は人間の喋る言葉をバラバラにするとのことだ。」
ミカエルたちは神の裁定について口々に論じあった。
「洪水の後、早速の直接介入か。」
「でも名案だな。」
「世の中が複雑になっちゃうね。」
「天使は言語の壁はないってことで大丈夫だよね?」
「いろんな言葉勉強するの大変だからね。」
その後神が介入し人間の言葉が多様になった。
お互いの意思が通じなくなったので人間は混乱に陥り、人間はバビロンの町や塔を建設するのを取りやめた。
その混乱の中で人間たちはいがみ合いが始まり、それが戦争になり、武器が開発され、塔は破壊された。
言葉が違う人間同士は敵対したので、方々に散らばって拠点を築いた(注31)。
ある語族はユーラシア大陸の東にたどりつき象形文字を漢字に発展させ、ある語族はユーラシア大陸の西にたどり着き様々なアルファベットを発展させた。
ある語族はユーラシア大陸の北東の端からアメリカ大陸に渡り、独自の文化を切り開いた。
のちのアブラハムに繋がる民族が話す言葉はヘブライ語と呼ばれた。
(注21) 巨人 創世記六章四節 民数記一三章三二節-三三節に登場。タナハではネフィリムと記述されている。セラフィム(天使)でも人間でもない醜悪な存在で巨人ではないという説もある。
(注22)ミカエル 武闘派の天使。ダニエル書一二章一節「その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。」、黙示録一二章七節「さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。」など複数回聖書に登場。
(注23)ガブリエル 神の言葉を伝える天使。ダニエル書八章一六節「私は、ウライ川の中ほどから、『ガブリエルよ。この人に、その幻を悟らせよ』と呼びかけて言っている人の声を聞いた。」、ルカ一章二六節「ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。」など複数回聖書に登場。
(注24)ラファエル 癒しを司る天使。カトリックの第二正典トビト記に登場。
(注25)エノク 創世記五章二一節-二四節「エノクは六五年生きて、メトシェラを生んだ。エノクはメトシェラを生んで後、三〇〇年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三六五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」でタナハに登場。エノクが天に取られたのは紀元前三〇三九年。偽典エノク書でエノクは神に捕らわれた後メタトロンという天使に変容させられた。エノク書はイエスの時代にイスラエル民族に読まれていて、ユダの手紙にはエノク書から引用されている文章が記載されている。
(注26)長:幅:高=三〇:五:三の比率は現在の大型タンカーの比率と酷似している。
(注27)アビス ヘブル語でアビス、ギリシャ語でアブソス。日本語の黙示録では「底知れぬところ」と表示。シェオールのうち悪霊が閉じ込められる場所。ルカ八章三一節でレギオンが閉じ込められないように懇願した場所。
(注28)アララテ山 現在のトルコ共和国東端にある山。標高五一三七メートル。
(注29)ニムロデの王国はバビロン捕囚を行った新バビロニア王国とは別の王国。
(注30)バビロン 現在のイラク共和国バビル県ヒッラの過去の地名。ヘブル語で「混乱」「しっちゃかめっちゃか」の意味。その他大患難時代の中間期の首都になるなど、サタンに良く用いられる地域なのでタナハや新約聖書では悪の代名詞となっている。
(注31)ヨセフス「ユダヤ古代史第一巻」から引用。
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