第2話 地上作戦

 アダム暦一六五五年 紀元前二一〇六年


  (注19)陰府は、死んだ人間の魂が集められる場所で、地下深いところにあり、太陽の恵みは届かず、絶望と悪意に包まれていた。

堕天使ラミエルが所属するアザゼル分隊は二百名のメンバーで地上を監視する役目を与えられていた。


 アザゼル分隊が駐在する真っ暗な部屋に特別に設置されたビジョンを分隊員たちがかぶりついて見ていた。そのビジョンには地上の美しい人間の女たちが映っていた。

「おれ、あの女と結婚したい!」


 みな、地上を夢見て鼻息が荒く下品にヨダレを垂らしていた。ラミエルは天使では唯一の女だったので、分隊員達が何故興奮しているのか分からなかった。


 天使や堕天使は基本的に男なので天使や堕天使同士が性的な対象になることはなく、悪意と欲望に満ちている堕天使界の中であってもラミエルが女性として好かれたり襲われたりすることはなかった。


 その盛り上がっている輪の中にその分隊の長で立派な甲冑を身に纏ったアザゼルが勢い良くメンバーを鼓舞した。

「俺に任せろ!もう我慢できない!ルシファー様に掛け合ってくる!」


 行動が早いアザゼルは早速意気盛んに陰府を司る伏魔殿の最上階のルシファーの指令室に赴いた。天使同様堕天使にも羽があり飛べるので移動は早い。


 ノックして扉を開くとそのお化け屋敷みたいな部屋にはこの世で一位二位の美貌を持ちきらびやかな衣装と羽を纏う堕天使の長ルシファーとその直属の部下の平均的な容姿だが蝿みたいな服装と精悍な羽を持つベルゼブルとこの世で最も醜い容姿を持つレビアタンがいた。

 人間や天使はルシファーのことをサタンと呼んだり、この三人まとめてサタンと呼んだり、堕天使や悪霊すべてをまとめてサタンと呼ぶこともある。


「ルシファー様!」

 アザゼルは敬礼しながら指令室の主に声をかけた。

 ルシファーが反応しなかったので、ベルゼブルが対応した。

「どうした、アザゼル。」


 アザゼルが喋り出した。

「ルシファー様!直接お話ができて光栄です!我が分隊二百名はベルゼブル様の命令により地上を監視する役割を担っており、毎日毎日特別に設定していただいたビジョンで地上を監視しているのですが、毎日毎日地上を監視していると毎日毎日腹が立ってくるというか、羨ましいというか、地上では神に『産めよ増えよ』って人間は言われて、素直なのか、暇なのか、他にやることがないのか、神の思惑通り人間は毎日毎日増えまくって、地上は大変な数の男と女で埋め尽くされております・・・・」


 ベルゼブルはイライラしてアザゼルの訴えを遮った。

「もうよい。それは毎週報告を受けているので分かっている。その話はもうよい。」


 アザゼルはベルゼブルの忠告を気にしないで訴えを続けた。

「はい、ベルゼブル樣、我々二百名ほどの弱小部隊の報告を毎週聞いてくださり心より有難く存じます!ルシファー樣、どうか聴いてください。アダムは最近ようやく死にましたが (注20)、あいつら神から『必ず死ぬ』と宣告されたくせに普通に一〇〇〇年くらい生きていて、その子アベルはカインによって殺されましたが、アベルの代わりに生まれた息子セツから人間は毎日毎日増え続けまして、毎日毎日増え続ける男と女を監視し続けて気づいたことがあります。それは、それは・・・・」


 ベルゼブルはアザゼルの説明のくどさがどうしても気に入らずイライラして再び口を挟んだ。

「何に気づいたんだ?」


 アザゼルは言った。

「それは!それは、この陰府には女がいないことでして!うちの部隊にはラミエルというポンコツ女はいますが・・・・」

「ラミエルを変な目で見るな。あれはあれで使える時が来るかもしれぬ。」

「それは承知しています。話を戻します。陰府にはなんで女がいないのかな?どうして男ばかりなのかな?何か我々がいけないことしたからいないのかな?などと毎日毎日考えているうちに、頭の中の妄想が爆発して、我が隊の二百名も同じく頭の中の妄想が爆発して、どうしようもない状態に陥っているのです!」


 いつもは口が重いレビアタンが口を挟んだ。

「バカか?お前は。我々天使にはラミエル以外女はいない。ましてや死んだ人間のたましいには男も女もない。何を今更ほざいているのだ?」


 アザゼルは懲りずに訴えを続けた。

「レビアタン様も私の話を聞いてくださり、本当に有難く存じます!なあんで陰府には女がいないのか、この伏魔殿だってこんな立派な屋敷で召使の悪霊もたくさんいて、神からこんな重要な仕事を任されているのに、なあんで女が一人もいないのかと考えると腹立たしくて腹立たしくて!夜も眠れないんです!」

「こ、ここはいつも夜だが・・・・」

「レビアタン様は黙っててください!」

「だ、黙っててくださいだと???」

「どんだけ私たちは悪いことをしたのですか?こんなにヒモジイ思いで、惨めな思いで毎日毎日、何が楽しくて地上を監視して楽しそうな人間達の営みを監視し続けなくてはならないのですか?」

「我々は悪いことしかしないのだ。」

「だからレビアタン様は黙っててください!誰にこの窮状を訴えればいいのですか? 我々地上を監視するアザゼル分隊はもう耐えられないのです!」


 ルシファーはようやく口を開いてアザゼルに言った。

「アザゼル。この世は私の支配下にある。案ずるな。」


 ベルゼブルが補足してアザゼルに言った。

「我々は千六百年前に神に対して反乱を起こし陰府に閉じ込められたが、その直後にこのルシファー様が単身で地上に乗り込み、蛇に憑依してアダムとエバの誘惑に成功し、人間を配下に置くことに成功したのだ。」


 レビアタンがさらに補足した。

「そして我々はこの陰府の管理を任された。この世も陰府も我々の手中にある。」


 アザゼルは反論した。

「ルシファー様もベルゼブル様もレビアタン様も私の質問に答えていません!私の疑問は地上には女がゴマンといるのに陰府にはなあんで一人もいないのか、です!教えてください!」


 レビアタンが答えた。

「最初に私が答えた。天使や堕天使には男も女も犬も猫もない。」


 アザゼルは全身を震わせて訴えた。

「犬猫はどうでもいいです!我が分隊を地上に遣わして下さい!」

大胆過ぎる直訴に、数秒場が静まり返った。ベルゼブルとレビアタンは顔を見合わせた。


 ルシファーはアザゼルの提言を黙って聞いていたが、ベルゼブルはアザゼルを窘めた。

「地上には今無数の悪霊が配置され人間を日々堕落に導いている。人口は何億人にも増えているが、カインの末裔は酷いもので、セツの子孫であっても神のことを崇めているのはかろうじてノアの家族のみだ。このノアさえ落とせば、この世はルシファー様の思惑通りの完全堕落の世界となる。貴様は折角の計画と折角の秩序を乱したいというのか?」


 ベルゼブルの窘めにアザゼルはブチ切れた、

「秩序なんてクソ喰らえですわ!!」

「ク、クソ?な、なんてことを・・・・」」

「悪魔の秩序って何ですかあ??秩序がぐちゃぐちゃだから悪魔なんじゃないですか??まどろっこしいんですわ!!人間の堕落のスピード、遅すぎなんですよ!ノアの攻略にもう何百年もかかってるじゃないですか!一気に片付けましょうよ!今こそ天を取り返すんです!早く神を天から引きずり落としましょう!」


 出過ぎたアザゼルの態度にベルゼブルとレビアタンは剣を抜いた。

「黙れ!」

 二人の剣はアザゼルの体を突き刺し壁に刺さったのでアザゼルは壁に磔になった。アザゼルの体からは血が吹き出した。


 数秒の沈黙の後ベルゼブルがルシファーに進言した。

「こやつを処分しましょう。」


 天使や堕天使は死なないので処分とは無期懲役刑のことを指す。


 ルシファーがようやく口を開いてアザゼルに言った。

「アザゼル、どうしても地上に行きたいか?」

 アザゼルは血を吹き出しながら答えた。

「はい!ルシファー様!」

「わかった。アザゼル、地上に行って来い。」

 ルシファーの反応にベルゼブルとレビアタンが驚いた。

「はい?」


 ベルゼブルとレビアタンは狼狽えたが、血だらけのアザゼルは壁に釘付けの状態で右腕を上に伸ばして手のひらを手前に向けて敬礼した。

「ルシファー万歳!」


 アザゼルは剣から開放され元気よく床に両足で着地した。

「ルシファー様、地上の偵察、お任せ下さい!」


 アザゼルは右肘を曲げ指先をこめかみに寄せる型式の敬礼をベルゼブルとレビアタンに捧げ、全身から血を吹き出しながら部屋の外に出た。


 扉の裏側でアザゼルはガッツポーズした。そして地上での人間の娘との結婚生活の妄想が広がり、自分を抑えきれず、喜び勇んで自分の分隊のもとへ戻って行った。


 部屋の中ではレビアタンとベルゼブルがルシファーを問いただしていた。

「ルシファー樣、どういうおつもりですか?おおっぴらに地上に出たら、ミカエル達が動いてしまいます。」


 ルシファーは答えた。

「活きが良い悪魔も必要だ。」

ベルゼブルとレビアタンはルシファーの考えがわからず、沈黙した。



 アザゼルは分隊に戻って、分隊員たちに対して大声をあげた。

「皆のもの、よく聞くがよい!」

分隊員たちはアザゼルに注目した。


「な、なに?・・・」

 ラミエルはアザゼル分隊内の騒然とした雰囲気に気づいて狼狽えた。

友人のカマエルがシーっと人差し指を口に当てながらラミエルが喋りださないように諌めた。


 アザゼルは分隊員たちに向かって叫んだ。

「皆のもの、出撃だ!いざ人間界へ!」


 分隊員たちの目がキラキラと輝き出した。

「おーっ!」


 アザゼルは演説を始めた。

「一六〇〇年ぶりにわが分隊の実力をルシファー様にお見せできる絶好の機会が与えられた!地上で人間を徹底的に堕落させ、神から天を奪還するのだ!」

「おーっ!」

「ルシファー万歳!」


 アザゼルは演説を続けた。

「我が分隊はルシファー様から勅令を授かったのだ!一人たりとも裏切り者は許されない!」


 分隊員の一人がアザゼルの命令に応答した。

「我々はアザゼル分隊長を裏切りません!誓います!」

他の分隊員たちも同意した。

「アザゼル分隊長を裏切りません!」

「おーっ!」

「ルシファー万歳!」


 ラミエルは事情がよく分からず話についていけなかったのでカマエルに聞くしかなかった。

「なに?出撃って?僕に関係ある?」

 ラミエルは他の堕天使と違うことを嫌い、自分を「僕」と呼んだ。

仲が良く精神年齢が近いカマエルも事情はよく分からなかったが、状況についてはラミエルよりは理解できていた。

「な、なんか、アザゼル様がルシファー樣に新しい作戦を進言して認められたらしい。」

「それってすごいの?」

「すごいだろ!この分隊は小さいし、ルシファー様から直接命令されるなんて栄誉なことだと思うよ。」


 私語が目立ったラミエルとカマエルの所にアザゼルが近寄ってきた。

「おい、ポンコツコンビ、準備は万端か?」

 カマエルが答えた。

「はい!いつでも出撃準備はできております!」

 アザゼルが薄ら笑いを浮かべた。

「カマエル、今から地上の女たちを漁りに行くわけだが、ラミエルは女だからお前が支えるんだぞ。」

「お、女だから支える?・・・・」

 カマエルはアザゼルの命令の意図を掴めなかったので尋ねた。

「我々の任務は何なのですか?・・・・」

 アザゼルが答えた。

「ふっ・・・それがわからないとはお前もラミエルもお子ちゃまだな。カマエル、周りを見てみろ!」

「は、はい・・・・」


 カマエルが周りを見渡すと起立して地上の女たちのビジョンを見ながら赤ら顔でヨダレを垂らしている分隊員たちの姿が目に入り、カマエルの顔は真っ赤になった。

「ハッハッハ!カマエル、お前はわかったみたいだな!ラミエルに教えてやれ!おまえも精々楽しむが良い!」


 アザゼルは壇上に戻り「ルシファー万歳!ルシファー万歳!」と分隊員を鼓舞し、分隊員たちはなお一層盛り上がった。


 ラミエルがカマエルに小声で尋ねた。

「楽しむって何?戦いに行くんじゃないの?」

「あ、いや、まあ、行けば多分分かるかな・・・」

「ふーん・・・」


 こうしてアザゼル分隊の地上作戦は始まった。



(注19)ノアの洪水前後の話は偽典第一エノク書からの引用。

(注20) アダムの死 この時点でアダム死後七二〇年経過している。最近というのは堕天使たちの感覚。


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