memento mori
青柳ジュウゴ
死を忘れるな
天使と殺し合いの真っ最中、どういうわけだか異世界に飛ばされてきて一体どのくらい経過しただろう。元の世界に戻る為一時的な協力体制を取ってはいるものの、相変わらず目途は立たず。様々な紆余曲折の後、現在人間の兄妹の世話となっていた。
「なんでこんなことに……」
魔界の女王たるルーシェルは誰に言うでもなく呟く。
もう幾度目かもわからない呟きである。
現在時刻は午後一時を少し回った頃、窓の外を見やれば薄く淡い色彩の空が広がっていた。魔界にはない柔らかな色、それ共にこの世界へとやってきた天使を思い起させる。春の空のような透き通った青い瞳をした、長い金髪の優男。ふわふわとした穏やかな表情につい騙されがちだが、なかなかに喰えない男。
どうしてこうなった。
深く深く溜息を吐いて、ぼす、と。やや乱暴に椅子に腰かけると部屋の外から物音を聞いた。人間の兄妹の家を間借りさせてもらっている現在、己の自室として分け与えられた部屋に誰かがやって来ている。
ぱたぱたと小気味よいほどに楽しげな足音は、知りたくも馴染みたくもなかったが結果そうなってしまった人物のもの。身構えるのは戦闘体制。身体ではなく、心の戦闘である。この相手に常識は通用しない。
心の安定を、安息をはかるにはそれ相応の構えが必要だ。
足音が止まる。逃げる事は可能だが後々面倒ごとになるであろう事は目に見えている。
ぱたん、とドアは軽い音を立てただけだが、それすらルーシェルにとってまさに地獄の門が開かれたようなものであった。いや、地獄へ続く門なら願ったりかなったりだが、この場合あまり嬉しい結果は当然の如く訪れない。
まるで油の切れた金属製の人形のような緩慢且つ音を立てて、背を向けていたドアへ肩越しに見やれば。
「ルーシェルさん!」
そこにいたのは一人の少女。いっそ寒気すら感じそうなくらいのいい笑顔である。この娘がこういう表情をしている時、ろくな事があったためしがない。
逃げればよかったかもしれない。今更であるがそう思ってしまう。
しかし相手の心境など相変わらず全く理解できていないこの人間の少女は、此方が引きつった顔をしていると言うのにやっぱりまるで気付かない。もしかしたら解っててやってるんじゃないだろうかと思わず疑うほどで、もしそれが本当ならこの少女の黒さはいかばかりになるのだろうか。
いささか現実逃避気味である、埒もない事を考えていても梓の勢いは止まらない。いや、だから気付いていないからの所業なのか。
「ルーシェルさん!」
また名を呼ばれる。
「ケーキ、作りましょう!」
頬を高潮させ息巻く少女に対し、己の反応と言えば。
「…………はぁ?」
そんな一言。
こんな反応しか返せなかった自分を、後から考えてみてもやっぱり誰も文句は言えないと思う。
× × ×
時は三世紀、ローマ。
当時の皇帝クラウディウス二世は、強い軍隊を作る為兵士の結婚を禁じていたという。兵士が結婚し家族が出来ると、家族の事が気になって志気が落ちる、というのがその理由である。しかしキリスト教の司祭・バレンタイン司教は、結婚禁止令に背き、結婚を望む兵士たちの結婚式を密かに執り行い続けた。
程なくしてその事実が皇帝クラウディウス二世の耳に入ると、バレンタイン司教は捕らえられ処刑されてしまう。その処刑日が二月十四日。以来、キリスト教徒はバレンタイン司教を聖人としてたたえ、恋人たちの守護神として奉り、この日をセント・バレンタインデーと呼ぶようになったという。
「お前の説明はよくわかった」
わけが解らない此方に嬉々としながら力説してくれた
「だがそのバレンタインデーとこの状態と何の関係が……」
「ですから今の説明はバレンタインのルーツですって。外国じゃ違うみたいですけど、日本じゃバレンタインデーって言うのは――」
「そんな事は聞いてない!!」
ほえほえと語る
「今日は二月ではなく三月だろう! 大体何で私がこんな格好をしなければならないというんだ!!」
ああもう本当に。
私は一体何をしているというのか。
まくし立てながらルーシェルは本気で泣き崩れたくなってしまった。
半ば連行されるようにして連れてこられたのは「ケーキを作る」という目的の通り台所である。それは納得できるが何故自分がしなくてはならないというのか。しかもいきなり。
激しく理解できない。どうして差し出されたエプロンなるものがレースをふんだんにあしらったピンクなのか。どうしてそれをつけなければならないというのか。作る事はまだ譲歩しよう、しかしこれだけは勘弁ならなかった。
「ですから今日はホワイトデーなんですって」
会話がかみ合わない。
いや、かみ合うかみ合わないの問題ではない。この娘は此方の一言一言をきちんと応えようとするあまりテンポがずれてしまうのだ。一気にまくし立てると特にタイムラグが発生する事をルーシェルは最近ようやく理解できた。決してトロいわけではないのである。……酷く善意的な解釈ではあるが。
「そのエプロンだって似合うと思うんですけどねぇ」
「貴様の目は一体どこについているッ!」
叫ぶ自分におそらく非はあるまい。
一体自分のどこを見てこんな女らしいものが似合うというのか。
問い詰めようとするが、しかし
「だってルーシェルさんバレンタインの時何もしなかったじゃないですか」
ぷう、と頬を膨らませてすねているようだが、そんなことは此方の知った事ではない。寧ろ此方がすねてしまいたい。
話の内容は彼女の中で消化されているものなのだから当然話している本人には解り良い。しかし全くその辺の事などわからない自分にとって内容はまるで謎かけである。ホワイトデーとは一体何なのか。バレンタインというものに対してもまたしかり、聖日なのは解ったが具体的に何をするというのか。
「……悪魔である私が何で聖人の日を祝わなくてはならない」
「祝う必要なんてないですよ」
早速料理に取り掛かるようで材料をごそごそと取り出し、それらを満足そうに眺めながら
「だが聖日だと、」
祝う気などさらさらないが、何故この娘は祝う必要がないと言い切るのかが解らなかった。
「ですからバレンタインって言うのは――」
「なにやってるんですか」
第三者の声。
ひょこりと、此方を覗き込む。
「あ、ヨシュアさん」
奴の顔を見ると同時に眉根を吊り上げる自分とは対照的な
自分がここにいるのが意外なのか、いや自分自身なんでこんな事になっているのか良く解らないというのが正しい見解であるのだが、きょとんと、男は交互に此方と人間とを見比べている。
「今からケーキを焼くところなんですよー」
嬉しくて仕方ないのか、何がそんなに嬉しいのか全く謎だがとにかく満面の笑みでいる
しかし男にとっても事態が良く飲み込めないのか、
「……ルーシェルも一緒にですか?」
意外そうな顔。
怪訝な、といったものとは違う。
「はい!」
「おい待て私はやるとは一言も……ッ!」
此方の言葉は届かない。いや、通じていない。
言語は言語として上手く機能されていない。
「それは楽しみですね」
嫌味の欠片もない。
心底“楽しみ”にしているとわかる。それこそが嫌味であるという事を男は気付いていない。
「今日はホワイトデーですもん」
「……え? でも」
どうにも食い下がれない此方の言葉を遮り、此方の言い分などまるで聞く気がないのだろう
「いいんです、私がお兄ちゃんやヨシュアさんにあげたいと思っただけですから」
そんな天使ににっこり微笑みながら言っているが、当方としてみれば迷惑なだけだ。あげたいと思うんなら自分ひとりでやれば良い、自分まで巻き込まないで欲しい。
切実な願いであるがしかしそれが成就される事は無いようである。流される自分も自分だが、巻き込もうとするこの人間も人間だ。何故人間が悪魔にここまで構うのか。それとも考える事は最早無意味なのか。
「ルーシェルさんもいつもお世話になってるんですから、ね」
邪気のない笑み。
ね、じゃない。
寧ろ世話をしているのは此方の方だ。
言ってやろうかと思ったが最早それすら億劫でルーシェルはべたーっとテーブルの上に突っ伏した。
いつまでも抵抗しても埒が明かない。所詮かなわない相手なのだ、逃げ回っても良いが後々面倒な事になるのは目に見えている。ここに来てまだ日は浅いがそれは嫌と言うほど身に染みていた。
「……もう良い、好きにしろ」
世界は妥協に満ちていて、妥協によって成り立っているといっても過言ではない。
それ故に歪みが生じる事を、現時点で理解できている者など一人としていなかったのである。
×
家へ帰ってみると、居間に天使はいたが悪魔と妹の姿が見えなかった。
それはまだそこまで気にする事ではなかった。大概この時間妹は夕食の準備をしているはずで、悪魔は一人がいいとか言って部屋に篭っているのだから。悪魔が外に出ている事も多々あるが、その場合家全体に結界が張られており天使の姿も見えないのが常であるからだ。
では何が常ではないのか。
「…………何だこれは」
天使もそれに気を取られていたのかようやくこちらに向き直り、お帰りなさい、と微笑んだ。
しかし、いつも曇りないその笑みにどこか引きつったようなものがあるように見えるのは気のせいだろうか。
「おい、なんか妙な匂いがするんだが……」
曖昧な微笑のまま何も言わない男に、
その間も何とも形容しがたい匂いが漂ってくる――そう、台所から。
「何でもケーキを作るらし……」
ドゴッ
此方へ解説をしかけていたヨシュアの言葉がそのまま途切れる。
屋敷全体を震わすような、爆発音。
尚一層立ち込める奇妙な匂い。
「何を……作るだって?」
「いえ、ですからケーキを……」
ぼんっ
がさがさがさがさっ
「…………」
「…………」
この世のものとは思えない、ましてや料理を作るだけではしないような音を立てる場所に、男二人踏み込めるだけの勇気は少し足りなかったりする。少々情けないような気がするがしかし、死よりも確実に理解できないであろう世界が広がっているかと思うとどうしてもその一歩が出なかった。
げひょ――――――……
奇怪な悲鳴のようなものに思わず手と手を取り合ってしまった二人は、己の選択は間違っていなかったと互いに認識したという。
×
生まれてこの方料理を作った事などない。必要がなかったからである。
天使も悪魔も食事など必要としないのだから当たり前の事だ。
当然の結果だ。
ルーシェルは出来上がったものを直視せずに胸中で呟く。
そうとしか思えない。
だから私が悪いわけではないのだ、断じて。
まるで呪文のように、己に暗示をかけるようにルーシェルは繰り返す。
そう、少女趣味としか言えないデザインのエプロンをつけて料理をすると言う時点で既に間違っているのだ。最早これは根負けしたとしか言いようがない。
出来上がったもの。
焼きあがったのはスポンジケーキなるものらしい。
別に焦げているわけではない。
火加減とか時間とかきちんとしないと、墨みたいに真っ黒になっちゃいますから、とは
別にどうでも良かったので自分は関与していない。
きちんと作る気がなかった。当たり前である。強引にここへと押し込まれたのだから。
奇妙な匂いが漂い始めたのが焼き始めてから幾分立ってからである。そして、何故か爆発音。
天敵たる神にでも誓ってやろう。
私は何も入れていない。何もしていない。
ああ! 確かに真面目になんてやっていない。だが、だからといってこうなる様になんてするわけがない。する必要なんてない。ていうか、何でこうなったのか私にこそ教えてくれ。
焼きあがったケーキ。
きちんと膨らんで、焦げてなくて……では何に問題があるのか。
それからは、何故か腕が生えていた。
いや、厳密に言うなら腕のようなもの。人間のような生身の腕が生えているわけではない。他にも何やら良く解らないものがはみ出ている。中に緑色の球体がいくつか入った半透明なものとか。生き物のようなそうでないようなものとか。顔のようなものから不気味な音が漏れ出ているとか。半分ケーキの中に埋もれている蜘蛛のようなものが、がさがさと針金のような足でテーブルの上を引っかいていたりとか。それらを除いたら普通のスポンジケーキに見えないこともない台自体も、触れてみれば何故かぶよぶよとしていたり……
自分なら食べない。いや、多分食ったら死ぬ。死なないまでも再起不能に陥るだろう事はたやすく想像できる。
そう、これは武器だ。
毒物は立派な武器になる。
「何か凄いモノ出来ちゃいましたねー」
呆然としている此方に、しかし
そしてこともあろうか、
「お、おいちょっと待て!」
「はい?」
先に泡立ててあった生クリームとやらを、ぺたぺたと縫っていくではないか。
その、奇怪極まりない物体に、何の躊躇いもなく。
「“はい?”じゃないだろうが! お前それを食わせる気か!?」
「えーでももったいないですしー」
言ってる傍から手際よく塗りたくり、残ったクリームを袋に入れると物体に綺麗にデコレーションしてゆく。
あれだけ面妖な姿をしていた物体を事も無げに飾り立ててゆくというのはある種の才能かもしれない。そんな才能欲しくもないが。
ていうか、もったいない、と言う理由で死人が出たらそれこそ洒落にならないような……
「よし完璧!」
嬉しそうに完成を喜んでいるが、どの辺りが完璧なのか本気で問い詰めたい。
それなりに飾られたとはいえ、オブジェとしてならまだ何とかいけたかもしれないがしかしこれを食すとなれば……そうか、あれなのか。致死確実の毒物として完璧なのか。
天使を殺すのが最終目的であるのは確かだが、しかし今回はそんなつもりで作ったわけではないし、そもそも手料理で死なせたともなればあまりにも情けない。いや、奴ではなく自分自身が。
「さてとー」
そういってひょいと皿に飾られたそれを持ち上げる
彼女を止める手立てなどある筈がなかった。
×
どんと乗せられたそれに、
フルレース仕様というの何とも可愛らしいエプロンを装着した、似合っているとは口が裂けても言えない風貌でいる悪魔にすら突っ込みが出ない。
「何というか……個性的な形だな……」
個性的で済むならまだ良かったのかもしれないな、自分で言っといてそんな事を考える。
あの爆発音やら奇妙な音、そして悲鳴を聞いた時点で既にまともな物が出るとは思ってはいなかったが……しかしこれはさすがに予想外と言うか……どうにかして食べずに済む方法はないものだろうかと思案するには十分すぎるそれ。
しかし。
「それじゃあ切り分けるねー」
血を分けた我が妹はまったく顔色を変えることもなくその物体にナイフを入れる。
その後継を目の当たりにした自分と同様に席につかされている天使も、
通常のケーキであるなら、ナイフを入れれば多少の抵抗値はあってもすんなりと刃が通る筈であろう。
だがそれは、通常ではなかった。外見からもそれは十分伺えるか。
――――ぐに、とそれはかなり歪に撓んだ。
その事実に
今日は何の日だ? 世に言う俗に言うホワイトデーという平和な日なのではないのか?
もらった事はないが、壊滅的に料理の出来ない女子から手作りチョコと言う罰ゲーム以外の何物でもない物体を贈りつけられるという、某月某日ではない筈だろう?
これは何か?
俺に問題があるのか?
俺何かやったか? 俺が悪いのか?
ていうかどうやったらこんなもんが出来るんだ?
その辺りを切実に尋問したい。
そんな現実から激しく逃避していた此方にはい、と言って
しかし相手の心境など相変わらず全く理解できていない
「はい、ヨシュアさんも」
無邪気さほど恐ろしいものはない。
差し出されたそれを天使はそれでも「ありがとうございます」とか言いながら受け取る。
渡す方も渡す方だが、何の抵抗もなく受け取る方も受け取る方だと思う。どれだけ情に厚いのか。いや、他人の事など言えた義理ではないが。
だが皿は受け取っただけ、切り分けられ中身が見える今、それはさらに形状は食物から逸脱しまくっていた。とても食指は動きそうにない。これを料理と称したら世界中の料理人が暴動を起こすだろう。
「……食わない方がいい」
今まで黙りこくっていた悪魔がぽつりと呟きをもらした。そこでようやく
顔を上げれば
何で? とその表情には描かれていた。
「それは失敗だ……食わない方がいい、それはあまりにも……」
「でも、初めて作ったのでしょう?」
珍しく己が行いの非を認める悪魔の言葉を遮って、天使が言う。
酷く罰の悪そうな表情で視線を宙に泳がせていた悪魔は、ばっと面を上げ天使を見た。
彼はにっこりと笑うと、用意されていたフォークを手にとって――そして、一口。
あまりの衝撃に口が半開きになる此方などお構いなしに彼は口に入れたそれを丁寧に咀嚼し飲み込んだ。
「味は悪くないですよ」
「本当か!?」
自分と同じく時が止まったように目を見開く悪魔に天使はそう言って微笑むと、悪魔は叫んだ。
問い詰めるようなものではない。その表情は僅かではあるが嬉しさが滲み出ている。そんな表情をする彼女を
「あ……いや……」
我に返ったようにはっとした悪魔は言葉を濁し、口元を押さえ視線を彷徨わせる。本当に珍しい事だが頬を真っ赤にしてさえいた。
そんな彼女に向かってヨシュアは、まるで幼子に微笑みかけるような、しかしその場にいる全員が忘れられなくなるような壮絶な笑みを浮かべ――当然の如くひっくり返ってしまった。
それでも例の物体を吐き出さなかった彼が、偉業を成し得たと称えられるには充分すぎるだろう。
後日談。
某魔王が二月十四日と三月十四日の意味を知り、烈火のごとく暴れまくったと言うのは非常にささやかな余談である。
memento mori 青柳ジュウゴ @ayame6274
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