第4話 船橋戦争――消えていく者
ここで簡単にこの物語の背景について説明しよう。
慶応3年10月の大政奉還で260年余りも続いた徳川幕府は消滅した。しかし徳川が大大名であることには変わらず、徳川慶喜は薩長との対決を決意し、翌年1月鳥羽・伏見の戦いが始まる。しかし完敗し、蟄居謹慎の身となった。
しかしそれだけで日本を2つに分けた戦いが終わるはずはなく、旧旗本・御家人の中には継戦を唱える者が少なくなかった。奥羽地方には反新政府の藩が多く、それら旧幕府方と新政府の局地戦が各地で勃発した。
これを後に
戊辰戦争は、鳥羽・伏見の戦いを皮切りに、市川・船橋の戦いから第2ラウンドへと移り、有名な上野の戦い、そして白虎隊で知られる会津の戦い、東北戦争、そして五稜郭の戦い、箱館戦争へと続くのである。
こき使われる毎日に嫌気が差したわけではない。こき使われるのが当たり前の時代である。周りの人間は皆優しく、松楠を気に掛けつつ、自分たちの人生を懸命に生きていた。おそらく、松楠は撒兵隊に入隊しない方がいい人生を送れたのだと思われる。
だが、攘夷派と幕府が新しく組織した浪士組が、町中で斬り合っているところを目撃し、松楠の人生は変わった。攘夷派の浪士は2人、浪士組は3人。元は攘夷派の浪士組である。面が割れている攘夷派の浪士を追い込み、手土産にしようと言うことだったらしい。
剣戟は1分も経たずに終わった。抜刀と同時に奇声を上げて切り込み、鞘も抜け切っていない刀でかろうじて受けた浪士は、そのまま前蹴りを入れて距離をとった。刀は振り下ろされ、伸ばした蹴り脚を深く傷つけた。しかし興奮していて痛くないのだろう。浪士は鞘ごと刀を投げて相手の目潰しをすると脇差しを抜いてすぐに突き立てた。
もう1組の方は2人が1度に斬りかかっていたから簡単に勝敗が決していた。1人を倒しても、2人は無傷だ。すぐに刀を突き刺され、浪士は絶命した。
血なまぐさい事件だったが、幕末では、江戸でも京都でもこのような事件が多発していた。ほぼ大多数の者はこの不幸で不吉極まりないこれらの事件を忌避した。これらの背景が、現代では理解することが難しい、『ええじゃないか』という奇異な民衆運動――または集団ヒステリー現象――へと至る原因の一つだと考えていいだろう。
しかし松楠はそんな遠回しな影響は受けなかった。人殺しの現場を目撃したことで、己の中に黒い炎があることを、自覚してしまったのだ。
俺も刀を振るってみたい。
そう、震える脚を気力で抑え込みながら、ただ単純にそう心の中で言葉にしたのである。しかし町人のままでは刀を持つことなどできない。それ故に、撒兵隊に潜り込んだのである。
普通の町人故、姓はない。住んでいた掘留を、姓の代わりとしたのだった。
撒兵隊に全くの素人として入隊した松楠は、それ故に洋式軍隊の戦い方を乾いた砂が水を吸うように、会得していった。中でも小銃の扱いに掛けては隊の中でも抜きん出た。
当時、旧幕府軍と新政府軍の主力小銃は名前だけはよく知られている、エンフィールド銃であった。英国製のこの小銃は、国産の火縄銃に比べて射程4倍、発射速度も毎分3発程度と倍となり、火力は圧倒的に向上している。弾丸も球形から、現在の円錐形に近いものになり、銃身内部の
鎖国していた日本にとって、エンフィールド銃は戦術にイノベーションを促す、未来の兵器だった。
松楠はこのエンフィールド銃と共に寝るほど、身体に馴染ませ、その腕前は文字通り飛ぶ鳥を落とすほどになった。本職の猟師顔負けの腕になったのである。また、銃剣の扱いについては、隊随一となった。というのも、士族出身の隊員は皆、慣れ親しんだ日本刀を手離さなかったからである。銃剣術は槍術にも似ている。竹刀と刃が付けられていない模擬銃刀での模擬戦では、常に優位に戦うことができた。銃にも刀にも適性があったのである。
2年ほども鍛練を重ねた後、その腕を買われ、士族ではない者で構成されているとは言え、小隊長に任命された。
しかし松楠はくすぶっていた。薩長で戦争が起きているというのに、自分たちには戦場を与えてはくれなかった。後に鳥羽・伏見の戦いといわれる戦争に動員されることもなく、江戸城は無血開城した。戦争は、起きないかと思われた。
しかし歴史は松楠を見放さなかった――そう形容するのが正しいのであれば、だが。彼の所属する撒兵隊は江戸を脱出し、船橋の法華経寺に拠点を置き、抗戦の道を選んだ。
松楠の部隊は少し離れた船橋大神宮に拠点を置いた。新政府軍と撒兵隊の間に、幾度も交渉の場が設けられたが、撒兵隊の士気は高く、戦闘は避けられない状態が続いた。
松楠にとってはどうでもいいことだった。ただ、自分が培った人殺しの技を、思う存分揮える場を与えられさえすればよかった。
そして閏4月3日未明、撒兵隊が市川方面に打って出て、新政府軍との戦争が始まったのである。
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