第8話:ゲロ味のファーストキス
「あー」
俺は目を覚ました。なにか面倒なことを思い出していたような感覚が意識を襲うが、別に何をされたわけでもないので、とりあえず腹を掻く。
「くあ」
昨日の一抹は童貞男子としては逃した魚の大きさを嘆く程度には勿体なかったが、まさか俺のアレルギーを誘発させながら事をいたすわけにもいかないだろう。アレで良かったのだ。水越さんも俺の不毛さに気付いただろう。いや、毛は生えているけども。
後で何かのフォローをしなければならない。
そう思いつつ洗面所の扉を開けると、
「あ?」
「い?」
愛?
濡れた身体をタオルで拭っている水越さんが、そこにいた。おそらくシャワーを浴びていたのだろう。もちろん全裸だ。R指定も上等だといわんばかりの鮮明さでそこにあった。
戦闘力百オーバーの胸は動画編集ソフトでも活用しているのか疑わしいボリュームでユッサユッサと揺れていた。その破壊力は例えるならば夜アニメで気に入ったラブコメが円盤で買うと修正が入っていなかった時のそれに近い。もう需要がストップ高で感涙するより他にないという。
大きいながらも形は崩れず。おそらくだが下着についても吟味されているのだろう。揉むだけで悟りを得られそうな高貴さと、煩悩まみれで地獄に落ちそうな危うさを並列させている。というか相手の着替えを見てこんなこと考えている時点で事案なのだが。
「失礼しました」
パタン。
扉を閉じる。
「えーと」
ていうか何故水越さんが家に? いや分かっているのは分かっている。彼女にVR機器を被せて夢の世界にご案内したのだから、その後セカンドブレインであるあっちの俺とよろしくやったのだろう。その後で俺の家から出ていなければ朝のシャワーを浴びるというはまこと以て理に適う。はずだが、普通は気まずくならん?
「おちつけ。素数を数えて落ち着くんだ……素数は一と自分の数でしか割ることのできない孤独な数字……俺に勇気を与えてくれる」
実際にそれで数えられるほど俺は素数をそこまで憶えていないのだが。十三か十七くらいまでならわかる。
「えーと。で? 弁明は?」
あっさりと脱衣所から現れた水越さんは服を着ていなかった。正確には下着姿だった。乳バンドとスキャンティは装備していたが、そんなものは少年の色フィルターにとって無いも同然だ。
艶やかな肌は張りがあり、たとえ水越さんが巨乳でなくとも俺は彼女に興奮していたはずだ。昔の人が女体を絵画や彫刻で表す意味が分かった。見事な裸体は芸術として残すに値する。
まぁロリ巨乳である水越さんは、どっちかってーと魔改造フィギュアの印象が近いのだが。
「服を着ろ!」
「メイド服は洗濯に出したわよ。ついでに学校制服も」『案外テンパるのだお。ちょっと安心』
安心されてもなぁ。むぅ。そうなると今用意できるのは。
「お前のようなおっぱいオバケに視界に入られると困るぞ」
「キャラじゃあるまいし」『スーンより大きいと思うんだけど』
ガンダムネタは通じるのね。さすがはオタク少年に優しいクソオタガール。
「で、結局何がしたいのよ。お前様?」
「ナニ」
「オーライ。学校行け。お前とやりたい奴はいっぱいいる」
「でもウチがしたいのは美空氏という皮肉」『ていうか絶対分かって言ってるでしょ』
なんとなく意思疎通は成立している。互いに日本語を話しているのだから、それは当たり前だ。ただ何というか俺のタブーに触れない。好意アレルギーである俺が吐き気を覚えるような迷信さを、今の彼女からは感じない。こっちを見てニコニコ微笑んでいるが、六識聴勁が捉える挙動は、妄念に似た好意ではないのだ。
とはいえ、俺の方には都合のいい話でもある。アレルギーを発症しなくて済むなら、そっちの方が穏便だ。
「ていうか、心でも読めるのだぞ? 美空氏って」『ちょっとした確認なんだけど』
「そうだな。まぁそこそこに」
「今ウチが何考えてるか読める?」『さてなんと返してくるか……』
「俺の股間の膨張率が気になる……とかな」
「ふむ。よくわかったぞ」『つまり相手の思考を読んでいるのではなく、なにか自分から得られる情報を整理して相手の心象を明示化している……だお』
そこまで分かっているなら聞かないで欲しいんだが。あと妄言だからツッコミが欲しい。
「飯食うか? トーストで良ければ用意するぞ」
俺はエナジードリンクさえあれば朝は十分なのだが。
「ああ、大丈夫。あとでウチが準備するぞ」『デュフフ』
その内なる声が酷く怖いのだが。
「じゃあ勝手に食え。俺も勝手にする」
「あー。胃には何も入れないでね」『どうせ意味ないし』
「ちなみに何故と聞いても?」
「今から美空氏が盛大に吐くから」『覚悟してね』
おい、まさか。
「愛しているぞ。美空カスミ。貴方をこの上なく」『心の底から……愛しているお』
いきなりだった。開幕パンチでアッパーカットをくらったかのような衝撃。こいつ、こんな好意を今まで隠していたのか?
俺は身体をくの字に曲げて、せり上がる胃液を喉で抑え込む。此処で吐いたら支障が出る。
「美空カスミ? 大丈夫? こっちを見て」
その俺の両頬に両手を添えて、水越さんが俺を見ている。笑顔。だがそこにあるのは、喜びとしての笑顔ではない。六識聴勁が本物なら、これは同情か?
「やめろ……」
せき止めている荒波は確実にすぐそこまで迫っている。そのことに事情を知る水越さんが気付いていないとは思えないのだが、彼女の笑顔からは好意と思惑と同情とが渦巻いて、一言で形容しがたい感情は発露している。俺はこういう笑顔をあまり見たことがない。あえて類似の例を挙げるなら、最悪の時に出会った春奈のそれが最も近い。
「ガチで吐くぞ」
「吐いていいよ。別にカスミの吐瀉物ならウチは気にしないぞ」
「いや。俺が気にする……か……」
言い訳というか懇願にも近い俺の言葉が途中でふさがる。唇が閉ざされる。
キス。
そう呼ばれる行為。アニメ声とも言える奇跡を紡ぐ水越さんの唇が、俺の唇に重ねられていた。その意味を理解した瞬間、俺の喉は決壊する。濁流のように胃の中の物が全部溢れ出して、容赦なく水越さんを汚してしまう。まるで絶頂で得られるアレを好きなヒロインにぶっかけるが如き背徳感と罪悪感が俺を襲う。別にドン引きされて困るような関係ではないが、相手が肯定しても俺自身の自裁は相手にゲロをぶちまけた時点で割腹確定だ。
「げ……ぇえ……ぐ……」
相手の唇、顔、髪、首から胸までゲロに染まる。そのことに罪悪感を覚えるより先に、俺の感じている識覚は深刻なストレスだ。眩暈がするほどの不快感。それによる自律神経の失調。ひどい船酔いをさらに五倍ほど煮詰めたような猛烈な嘔吐感は、ほぼ認識するだけでも絶望的だ。
「ぐぇ……ぇげ……が……」
たしかに何も胃に入れていなくて助かった。もし何か食べていたらさらに状況は酷かったろう。
「お……前……自分が……何したのか……」
「わかってるぞ。カスミは愛さえることが怖い、でしょ? でもね。愛されることが怖い人間なんてこの世にただ一人も存在しないの。総じて起こる愛の不利益は全部二次被害でしかない。ストーカーとか浮気騒動とかも、ね?」
「俺の何を知ってる……?」
「全部見せてもらったぞ。セカンドブレイン美空くんに。自分のせいで両親が死んで、その両親を忘れないために悪魔に魂を売った。そうして今の君がいる」
慈しむような目で俺を見るな。ここにある感情は他人が触れていいものじゃない。
「くだらないことを……ッ」
「くだらなくないよ。母親の愛を大事に思っているカスミは世界でも有数の親孝行。でもカスミは誰かに好意を向けられて、それを読み解く力がある。このままだと早期に限界を迎える。それも分かるよね?」
六識聴勁。それによる意思疎通の拡張。たしかに俺の今の能力は俺の社会性において致命的だ。まさか一生外出せずに暮らすわけにもいかない。とはいえ、どうしろと?
「だからウチが愛を与える。愛が怖くないって教え込んであげる。クソオタ的に言えばわからせてあげる」
間欠泉のように俺の口からはゲロが出てくる。だがそれを正面から受け止めて、水越さんは何ら動揺することがない。
「大丈夫だぞ。美空カスミ。君のゲロは汚くない」
そんなわけあるか、とは思っても、確かに俺の感情は波立っていない。吐瀉をすれば嫌われるという当然の観念が、水越さんには適応されない。俺のゲロを真正面から浴びておきながら、彼女の瞳に嫌悪は一分も存在しない。
「ん……」
またキスされる。俺の中にある不快感が暴れ出す一方で、その極み切った不快感を遠くで見ている俺もいる。そういえば、なんで俺は愛されることをここまで怖がっているのだろう? だって目の前には俺を好きだと言ってくれる人がいて、そいつは俺の吐瀉物を平然とした顔で気にしないと言ってくれるのだ。
「好きだぞ。美空カスミ。だぁい好き」
愛を囁かれ、またキス。
俺の中に両極端な感受が湧いている。
つまり「欲しい」と「欲しくない」
ゲロの味のする女の子とのファーストキスは俺にとって最初で最大の衝撃だった。
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