一ノ章 屋根裏の来訪者①

 オーケリエルム家の大きな屋敷の屋根裏部屋で、リディアは窓の外を見やった。

 窓は立て付けが悪く、どれだけ力を入れてもぴくりとも動かないので、生まれてこのかた十七年の間で一度も開けたことがない。そこにまったガラスは、この部屋にいる者に外の景色を見せようという気がそもそもないのか、あさもやのように曇っている。内側からいくら磨いても無駄だったので、そういうものなのだとあきらめて久しい。

 だというのにリディアが窓の外を見たのは、太陽の位置を確認するためだ。

 小さな窓からせめてもの陽光を浴びせたいものが、この部屋の中にあるからだった。

「今日もきれいなお花を咲かせてくれたわね、アイノ」

 リディアはブリキのじょうろを手に、目の前の鉢植えたちの一つにそう微笑みかけた。窓辺に組んだ細いカウンターのような台の上に、いくつもの鉢植えが置かれているのだ。花が咲いているものもあるし、葉だけのものもある。どの鉢も、満足に採光もできない室内に置かれているとは思えないほどみずみずしく、生き生きと育っている。

 アイノと名付けた黄色い花に水をやると、小さな花がいくつも集まったその花房がうれしそうに揺れた。無論、花に意思などないのだから、リディアがそう感じただけだけれど。

 その隣、中央の隆起が特徴である白い花の、深い緑の葉にも水をやる。

「今日は火傷やけどのお薬を作りたいの。だから後で葉を少し貸してね、ベッテ」

 ベッテと名付けたその葉に掛けた言葉の通り、これは薬草だ。ベッテだけではない。アイノも、緑がかった王冠のような花を付ける樹木マイレや、ラッパ状の白い花であるヨエル、その他の鉢植えたちのすべてが薬の元となる植物である。

 じょうろを持つあかぎれだらけの自分の指を見ながら、リディアは思案する。

「マイレの木皮で作ったお薬はまだ十分残っているから、あとはこの間採れたヨエルの種から、もしもの時のための麻酔のお薬を作って保存しておいて……。わかってるわ、また大きな怪我をしたりしないように気を付ける」

 まるで本当に会話しているかのように、リディアは花たちに微笑んでみせた。

 この屋根裏部屋で鉢植えを育てるのも、育った植物を用いて簡単な薬を作るのも、リディアにとっては実益を兼ねた一つの趣味のようなものだ。生きと言ってもいい。

 この屋敷では、誰もリディアに薬をくれないのだから。

 薬が必要になるような場面に陥れられることはたびたびあっても。

 と、壁にいくつも掛けられたベルのうちの一つが鳴る。滑車や銅線を複雑に組み合わせて屋敷中に張り巡らされたその古式ゆかしいベルは、使用人を呼び出すためのものだ。ベルの下部に貼られたプレートには、女主人の寝室と書かれている。

 リディアはまだ水が入ったままのじょうろを慌てて床に置き、ごわつく麻のエプロンで手をぬぐいながら屋根裏部屋を飛び出した。

 この屋敷の女主人からの呼び出しには、遅れることは決して許されないのだ。


「一分遅れたね」

 リディアが部屋に到着するなり、オーケリエルム夫人イサベレは冷たい視線でそう吐き捨てた。

 リディアはひざを折り、頭を下げる。

「申し訳ございません、奥様」

 イサベレへの口答えはもちろん、少しでも反抗的な態度を取ることは許されない。たとえ実際には一秒も遅れていなかったのだとしても。

 腹の前で合わせた両手の指先が震える。これはもう幼い頃からの条件反射のようなものだから、自分で抑えることは困難だ。

(ああ……靴が、また)

 自分のつまさきを見つめていると、靴が破れかけていることに気付いた。ついこの間繕ったばかりなのに、毎日屋敷中を走り回っているからすぐに破れてしまう。

 イサベレはベッド脇の小さなテーブルに、長く伸ばして赤く塗った爪を立て、かつかつと音を鳴らした。テーブルには朝食のざんがいが載っている。ベッドから出ないまま、肥えた身体を半身だけ起こして遅い朝食を取るのが、この女主人の午前中の日課なのだ。

 皿の上には、リディアが昨日の夜に焼いたレモンピールケーキが載っている。昨夜、台所をすべて片付け終えたリディアが自室に戻って休もうとしたときにイサベレがやってきて、朝に食べるケーキを一から作れと命じたのだ。だから夜中までかかって作ったものだが、しかし一口も手をつけられていないように見える。

 家人の食べ残しは、そのままリディアの食事だ。たとえ残飯であっても、いい食材を使用してリディア自身が作ったものだから何も問題はない。子どもの頃からそうだったから、残飯があるだけありがたかった。食べ残しがない日には、調理の際に出た野菜くずをかじるしかなかったから。

 今日はあのケーキが自分の昼食になるのかと内心喜んだのも束の間、イサベレは煙管キセルを手に取った。まさかと見つめるリディアの目の前で、イサベレは煙管をケーキの上でひっくり返した。当然、中に入っていた灰がケーキの上に降り注ぐ。

「オレンジの皮を使えと言ったはずだよ」

「……はい」

 のどを震わせるようにしてリディアは返答する。

 そんなはずはないのだ。確かにレモンと言われた。食料庫に保管しているレモンの在庫の数までかれて、その場で確認したのだから。

 イサベレの脂肪で肉厚な唇が、意地悪く弧を描いた。

「姿も醜けりゃ、耳も悪いのかい、お前は。今すぐオレンジのケーキを作り直しな。ああ、もちろん朝の日課の掃除も手を抜くんじゃないよ。そうだ、今日は屋敷中の絵画の額縁を磨いてもらおうか。彫りの部分も爪の先でも何でも使って、お前の顔が映るくらいれいに磨くんだよ。ほこりひとつでも残ってないか後で確認するからね。当然、昼食の支度が遅れたらお仕置きだからね」

 また両手の指先が震えてしまう。

 子どもの頃から、食事の支度が遅れたときの罰といえば、ろうそくの溶けた熱いろうを手の甲に落とされることだった。幸いベッテの葉で作った薬が火傷によく効いてくれるので、そのたびにあとを残さずに治ってはいるのだが、痛みと恐怖は手の甲に刻まれている。

 イサベレはいらったように、またテーブルの上でかつかつと爪を鳴らす。

「鈍臭いね。わかったら返事をおし、醜いリディア。お前は本当に、生きている価値のない娘だよ」

 はい、奥様。

 承知いたしました、奥様。

 そう呼んで、召使いとしてこの女主人に仕えて、もう何年になるだろう。

(……はい、お母様)

 そう呼ぶことを許されなくなったのは、どれほど幼い時だっただろう。

 リディアは女主人に──実の母親であるイサベレに、再度深く頭を下げた。

「はい、奥様」


 リディアが屋敷の二階に位置するイサベレの部屋を出て、一階の端にある台所へと続く階段を駆け下りようと足を踏み出した瞬間、横合いから何か長いものが伸びてきて、リディアはすべもなく前につんのめった。

 もつれた足は階段を踏み外し、身体はそのままの勢いで前に転がってしまう。何段か転がり落ち、何とか腕を伸ばしてさくを摑む。長年の栄養失調のせいで年齢の割に体重が軽いため、落下の勢いを殺すことができたのは不幸中の幸いだが、したたかに打ち付けた背中が涙がにじむほど痛んだ。

 見上げると、リディアよりも二つ歳上の、華やかに着飾った娘ヨセフィンがこちらを見下ろしている。ご丁寧に、リディアを引っかけた自分の足を差し出したままの体勢でだ。長いまつときらきら輝くアイシャドウに縁取られた大きなひとみを、こちらを責めるように見開いている。熟れた果物のような口紅の塗られた唇はつんとつぼめられており、不快さを隠そうともしない表情だ。

「何よ。最後まで落ちなさいよね、つまんないの」

 そう言いながらヨセフィンは階段を軽やかに下りてきて、先週恋人に買ってもらったばかりだという新しいハイヒールの爪先でリディアを小突いた。リディアはしゆんじゆんし、彼女を見上げる。

 地面を歩く蟻の行列を一匹一匹、指先で丁寧につぶしていくような無邪気な残酷さをたたえた笑みで、ヨセフィンは「ほら」とリディアをまた促した。

 リディアは抵抗を諦めた。元より、この屋敷の主人である母娘おやこに逆らうことなど自分には許されない。

 自分は醜い、生きている価値のない娘なのだから。

 リディアは目をきつくつぶって歯を食いしばり、そのまま自ら階段を下に向かって転がった。思ったよりも勢いがついてしまい、床に激突する瞬間、手首をくじいてしまった。

「あははは! ほんとに自分から落ちてやんの! ばっかじゃないの、あははは!」

 しかしこうしようする彼女のほうを再び見るほどの気力はもうリディアにはなかった。床にうずくまったまま、痛みに耐えながら何とかぼんやりと目を開くと、目の前を小さなねずみが走り抜けていった。

 幼い頃、この屋敷にはまだ何人かの通いの使用人がいた。毎日決まった時間に来て食事を作る人たちと、掃除や植栽の世話をする人たちだ。それらの人々が来ている間は、リディアは屋根裏部屋から出ることを禁じられていた。

 けれどもリディアが八歳になったある日、イサベレはそれらの通いの使用人を軒並み解雇してしまった。彼女はたぐまれな守銭奴で、実は以前から使用人の給金を不当に減らしたり、支払いをしなかったりということを繰り返していた。そして彼女はついに、八歳の娘を無償で働く使用人にできると気付いたのだ。それまでにも使用人たちがいない時間は、リディアは彼女に小間使いとして働かされていたが、それ以来いよいよもって家中の仕事を一手に引き受けなければならなくなったのである。

 いくら何でも、三階建てに屋根裏部屋、地下室まであるこの広い屋敷の管理を八歳の少女がかんぺきにこなすことなど不可能だった。それから年月が経過する間に、小柄できやしやなリディアの手の届かない場所にねずみがみつき、が巣を張り、分厚いほこりたいせきしていった。それでもできる限り目の行き届く範囲は清潔に保とうと努力してはみたが、どうしても吹き抜け部分の大きな窓に掛けられている分厚く重たいカーテンなどは取り外すことができないし、どうしようもなく汚れの積もったシャンデリアは洗うことも交換することもできない。そういった部分から汚れと埃、かびまっていく。屋敷の中を雑用のために急いで移動するたびにそれらの細かい粒子が舞うから、リディアは常に埃や黴を吸い込んでしまっており、夜眠れないほどのせきに苦しむことも多かった。

 屋根裏部屋──リディアが唯一息を吐ける自室であるあの場所で、屋敷のあるじたちの目を盗んで鉢植えを育て始めたのは、植物に心を慰めてもらいたかったからだけではない。幼い少女はただ切実に、生きるために、様々な種類の薬を必要としていたのだ。

 床に転がったまま起き上がることもできず、リディアはねずみが去ったほうをただ目で追う。

 そんなこちらの様子に、ヨセフィンは急に飽きたようだった。ふんと鼻を鳴らし、生地を豊かに使用した上質なスカートの長いすそをふわりと翻して、階段を軽やかに駆け上がっていく。

 恐らくはイサベレに朝のあいさつをしに行くのだろう。彼女の母親に。

 リディアは床に寝そべったまま、彼女──実の姉であるヨセフィンの、舞うように軽やかな後ろ姿をただ見るでもなく眺めていた。

(ヨセフィンお嬢様は、美しいのだもの)

 実は、リディアには人の顔の美醜はよくわからない。美醜を見比べられるほど、人間に接してこなかったから。

 けれどもイサベレがあんなにも、ヨセフィンは美しい、それに比べてお前は、とリディアをののしるのだから、ヨセフィンはきっと美しいのだろう。

 だから生きる価値がある。だから母親に愛され、大事にされる。

 対して自分は。

(わたしは……醜いから)

 生まれてから一度も自分の姿をちゃんと見たことなどないけれど、あれほど毎日毎晩、実の母親からも姉からも醜いとさげすまれているのだから、自分は本当に、見るに堪えないほど醜いのだろう。

 だから誰にも愛されない。大事にされない。

 だから──生きる価値が、ない。

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