一ノ章 屋根裏の来訪者③


 翌朝、リディアが裏庭の掃除をしていると、外の通りをよろよろと歩いている人影が塀の隙間から見えた。

 リディアは普段ならば塀の隙間など気にしたことはない。何せ出入りの商人や郵便配達員を迎えるのが、他ならないこの裏庭にある小さな裏門だからだ。リディアと外界とを唯一つなぐこの場所は、日中であれば屋敷のあるじたちによって厳重に監視されているのである。

 だが今は夜明け前、まだ薄暗い早朝だ。屋敷の主たちは夜遅い時間に眠りに就き、昼前まで起きてこないのが常だから、この時間であれば誰にもとがめられない。その時間にたまたま塀の傍を、それも外の通りが見える程度のわずかな隙間のある辺りを掃除していて、たまたまそこを歩く人影が見えたことが、リディアには何だか妙に気に掛かった。

 塀に身体を預けるようにして、そっと隙間をのぞいてみる。

 そこには一人の老婆が、足を引きずるようにして歩いていた。ひざかどこかの痛みに耐えながらなのか、かなり歩くのが難儀そうだ。足取りがいかにも危なっかしい。

 リディアはいても立ってもいられなくなって、思わず裏門の扉を開いた。いくら早朝といっても、たまたま起きてきた主たちに見つかるかもしれない、そうすれば自分はひどい罰を受ける。そのことに思い至ったのは、門を開いて老婆と目が合ってからだった。

 老婆はこちらを見て、少し驚いたような顔をした。屋敷を見上げ、そしてリディアに視線を戻す。ここがヒェリ・バーリの豪商の屋敷であることをきっと知っているのだろう。

 リディアは慌てて人差し指を唇にあて、声を潜める。

「あの、お節介だったらごめんなさい。その……足の具合、大丈夫ですか?」

 え、と老婆はいぶかしげにまゆを寄せる。その反応にリディアはどきりとした。今さらながらに、布で顔を隠し忘れているということを思い出したのだ。

 オーケリエルムの屋敷の醜くみすぼらしい使用人に話しかけられた、と嫌な気分にさせてしまっただろうか。

 門扉を開けているのが見つかってしまうかもしれないという焦りも相まって、リディアはおぼつかない手つきで、エプロンのポケットから自作の痛み止めの包みを取り出した。せつかんによる激しい痛みを感じたときにいつでもすぐに自室に戻れるわけではないので、アイノの根から作った痛み止めの薬など応急処置に使えるものはいつも持ち歩いているのだ。哀しい習慣ではあるが、今朝ばかりは助かった。

「これ、わたしが作った痛み止めのお薬です。痛むときにお白湯さゆと一緒に一粒飲んでください。もし寝る前にも痛むようなら、お薬を半分に割って飲んでください」

 そう口早に告げてリディアは、老婆の手の中に薬の包みを押しつけると、急いで門扉を閉めた。戸に背中をぴったりと預け、裏庭の向こうにそびえる屋敷の窓という窓に視線を走らせる。幸い、こちらに向かって光っている目はない。それを確かめてからようやく深く息を吐いた。

 リディアが再び塀の隙間から通りのほうを覗き見ると、老婆は既にいなくなっていた。

 主たちの目を盗んで塀の外の人に話しかけるなんて大それたことをしてしまった。知られてしまったらどうしよう、という恐怖で、その夜は眠れなかった。

 明けて早朝、リディアは寝不足の身体を引きずり、裏庭で植栽の水やりをしながら、昨日の朝のことを考えていた。

(おばあさん、大丈夫だったかしら)

 薬はきちんと効いただろうか。いや、醜い使用人から渡された薬なのだ、不審がって飲んでもらえなかったかもしれない。お年寄りが痛みに苦しむ姿を想像すると胸が痛む。

 と、門扉が控えめにノックされる音がした。あまりに控えめだったので、最初は気付かなかったほどだ。

 もしかして、と心が高揚する。だが直後、リディアは門扉を開くのを一瞬躊躇ためらった。

 昨夜あまりに主たちを恐れるあまり、嫌な想像をたくさんしてしまったのだ。例えば次に門扉を開けたら、そこにイサベレが立っていて、熱い火かき棒を押し当てられるとか。背後から忍び寄ってきていたヨセフィンに、頭から汚物だらけの水をかけられるとか。

 リディアはかぶりを振って嫌な想像を振り払う。そして意を決して門扉を開く。

 果たしてそこには、昨日の老婆が立っていた。

 老婆はリディアの顔を見た途端ほっとしたような表情になって、微笑みかけてくる。

「よかった、会えて。お手伝いさんってのは日中忙しいだろうから、この時間なら会えるかと思ったんだよ」

 ボロ布のような衣服をまとったみすぼらしいリディアのことを老婆は、お手伝いさん、と優しい言葉で称した。ほとんど奴隷に近い下級の使用人だということは見ればわかるはずなのに。

 老婆はリディアに向かって深々と頭を下げた。

「昨日あんたがくれた薬、足の関節痛によく効いたよ。痛みを忘れてぐっすり眠れたのなんていつ以来だろうね。本当にありがとうね。これで日課の朝の散歩もつらくなくなるよ」

 リディアはほっと胸をで下ろした。それは昨夜の不安が一瞬で吹き飛んでしまうほどの温かいあんだった。

「よかった。お体に合ったかどうか、心配していたんです」

「あんたは恩人だよ。よかったら名前を教えてくれないかね、優しいお嬢さん」

 問われて、リディアはしゆんじゆんした。顔を見られた上に名前まで教えたことが主たちに知れたら。

 リディアが躊躇っている何らかの理由を想像したのだろう、老婆がリディアの手を取る。

「あたしはビルギット。あんたにささやかなお礼をしたいだけの、ただのおばあさんだよ」

 その穏やかでこちらを安心させてくれる声と、手のひらの温かさに、リディアの胸が締め付けられる。こんな温かい人が善良でないはずなどないのに、その人に名乗ることすらできないなんて、そんなの哀しすぎるではないか。

「……わたし、リディアです。ビルギットさん」

「リディア。いい名前だね。安心おしよ、誰かに言いふらしたりなんてしないから。恩人を困らせるようなことをしたくはないからね」

「あの、お礼なんていりません。今日ビルギットさんのお顔を見られただけで、わたし、うれしいですから」

 そうだ、とリディアはビルギットの手を握り返す。

「よかったらまたお薬を取りに来てください。本当はわたしが届けられたらいいんですけど、お屋敷から出ることを許されていないので……。早朝ならこの門の扉を開けられますから」

 ビルギットは申し訳なさそうに眉を寄せる。

「ありがたいけど、そうはいかないよ。お代を払えないんだ。道楽息子がお金をあればあるだけ使ってしまうから。若い頃の蓄えももうほとんど残っていなくてね……」

 だからビルギットは痛みをこらえながら、足を引きずって歩いていたのか。

 そんなことを聞いてしまってはますます放っておけない。

「いいんです。お薬の材料にも、作るのにもお金はまったく掛かっていないんです。それにこれ、自分用に作ったお薬ですけど、あまり長く保存はできないから、どなたかが使ってくれるととても助かります」

「だけど……」

「お願いです。お薬の効き目が切れてビルギットさんがまた辛い思いをしてるのかと思うと、わたし、きっと仕事に身が入らず、ご主人様から罰を受けてしまいます」

 方便とはいえつるりとそんなことを口走ってしまってから、イサベレやヨセフィンに聞かれていたらとひやりとする。

 しかし説得のあって、ビルギットはようやくうなずいてくれた。

「わかったよ。厚意に甘えるのは申し訳ないけど、あんたが罰を受けるのは、あたしも耐えられないからね」

 リディアも笑顔で頷き、あ、と言い添える。

「わたしからお薬を受け取ったってことは……」

「大丈夫。誰にも言わないよ。元より話し相手はあんたぐらいだ」

 その日以来、リディアはほとんど毎朝、ビルギットに薬を渡すようになった。ビルギットに言った通り、幸い薬は一度にたくさんの量を作ることができるから、もらってくれる人がいるとありがたいというのも本当だった。それ以上に、毎朝少しでも顔を見て言葉を交わせる相手がいること、そして何よりもその人の手助けができているという事実は、曇ったガラスのようだったリディアの人生ににわかに一筋のきらめきをもたらした。

 何よりも、本当なら目を背けたいほどに醜いのであろうリディアを前にしても顔をしかめたりせず、温かい笑顔で向き合ってくれるビルギットの存在は、リディアにとっては屋根裏部屋の鉢植えたちと同様に、今を生きる理由になったのだ。

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