一ノ章 屋根裏の来訪者④

 一方ビルギットは、朝の日課に一輪のれんな花のような彩りが加わったことで、散歩の足取りが以前よりも軽くなり、うきうきと弾むような気分になっているのを自分でも感じていた。

 リディアが作ったという痛み止めの薬はどんな市販薬よりも効いたし、老体には辛い副作用なども一切ない。

 何より、ビルギットの息子は中年だが独身で、もはや孫の顔を見ることはあきらめていたのだ。そんな彼女にとって、小柄でけななリディアは今や孫のようにも思えていた。

 オーケリエルム家といえば、女主人が一代で成り上がったという豪商だ。別れた夫が大層美男子で、その一人娘も街で噂になるほどの美女だと息子が話していたことがある。とはいえ噂話程度のことで、直接接点を持ったことはなかった。オーケリエルムの商店は、なけなしの蓄えを切り崩して暮らす身には縁のない場所だ。

(早くあの子にお礼を渡したいねぇ)

 リディアに渡すためのお礼の品は、ささやかなものではあるけれども、心をこめて準備している。ただ如何いかんせん、寄る年波には勝てない。目も以前よりも見えづらくなってきているし、指先も以前のように意のままに細かく動かすというのが難しくなってきている。けれどもそんな自らの衰えでさえも、リディアへの贈り物を作るためだと思えば𠮟しつできるのだ。

 今日は曇り空だ。街にはうっすらと霧も掛かっている。

 夜明け前の通りが今朝は一層ほのぐらく感じて、ビルギットはオーケリエルムの屋敷までの道のりを急ぐ。この時間のこの道には、いつも人通りがまったくないのだが、今朝に限ってはそれが何だか変に心細く感じられる。

 と、細い路地の奥に、誰かが立っているのが見えた。

 ビルギットは驚いて、思わず足を止める。

 この辺りは住宅街だが、その人影が立っている路地の奥は空き地なのだ。

 霧に紛れて姿ははっきりとは見えない。が、黒髪に黒い服を着た若い男のように見える。それがこちらに背中を向けてたたずんでいる。

 何だか視線を外すことができず、ビルギットはげんまなしでその青年を見つめる。一体ここで何をしているのだろう。街で酒を飲んだ若者が迷い込むには、ここはあまりにもただの閑静な住宅街の奥だ。それに青年は、何もしていないように見えるのだ。ただそこに佇んでいるだけ。

 青年の周囲の霧がふわりと動いた。

 その中で黒衣の青年もまた動く。黒いもやの塊がうごめいたように、ビルギットの目には映った。

 青年が振り向き、こちらを見る。

 顔ははっきりとは見えない。が、その視線は確かにビルギットをとらえている。

 ビルギットはのどが渇いて張り付いたようになっているのを感じた。つばを飲み込み、口を開く。

「お──おはよう。散歩かい?」

 何とか当たり障りのない言葉を絞り出す。

 すると青年は、笑った。

 それはおよそ友好的な笑顔などではなかった。顔がよく見えないのにもかかわらず、その笑みがどんなに邪悪なものなのかが、ビルギットにはよくわかったのだ。

 そして次の瞬間、青年の姿が霧とともにき消えた。

 霧は文字通り一瞬で霧散し、そこにはいつも通りの、夜明け前のほの明かりに包まれた、人っ子ひとりいない路地だけが残る。

 ビルギットはぞっとして思わず後ずさり、腰を抜かしてその場に座り込んでしまった。

「……ゆ、幽霊だ……誰かが化けて出たんだ」

 難儀して立ち上がり、よろめきながら自宅への道を引き返した。このままリディアのもとへ向かうのは、何だか良くないものを引き連れて行くような気がしてひどく嫌だったのだ。

 きっと見間違いだ。寝起きで頭がまだぼんやりしていて、濃霧を人だと見間違えたのだ。

 家までの道中、ビルギットはそう自分に言い聞かせ続けた。

(そうだよ。自分じゃ認めたくないが、あたしの目は自分が思ってるより老いていたってことさ)

 ──頭の中に浮かぶあの黒い靄を何度搔き消そうとしても、こちらを見つめる金色のそうぼうも、そしてあの邪悪な笑みも、一向に消えてくれはしないけれども。


 ビルギットが恐怖に追い立てられるようにしながらも何とか自宅に戻ると、居間では一人息子のテオドルが飲んだくれていた。夜中まで酒場に入り浸り、遅い時間に帰ってきたと思ったら家でもこの調子なのだ。明け方まで飲み続けて、やがて気絶したように眠る。そして昼過ぎか、遅いときには夕方近くに起きて、また街の酒場に出かけていく。

 小さなテーブルの上に所狭しと並ぶ酒瓶の空き具合に、ビルギットはまゆひそめた。

 中年に差し掛かってもろくに働きもせず、高齢の母親のなけなしの蓄えを食いつぶしながら毎日浴びるように酒を飲んでは、ばくに有り金をつぎ込み、時には母親に暴力すら振るう──そんなろくでもない道楽息子であっても、ビルギットにとってはたった一人の肉親であり、腹を痛めて産んだ子どもなのだ。

「ちょっと飲み過ぎじゃないかね。こう毎日じゃ身体によくないよ」

「あぁ? うるせぇな、ババア」

 れつの回らない息子のうなり声に、ビルギットは少しひるみつつも続ける。

「お前だってもう若くはないんだから、そろそろ身体をいたわらないと──」

「黙れって言ってんだろ! また殴られてぇのか!?」

 テオドルは怒鳴り、空の酒瓶を持って殴りかかってくるふりをする。

 それに反射的に身体をすくめながら、ビルギットは目に涙を浮かべた。

(どうしてこんなふうになってしまったんだろうね……)

 最初に息子が道を踏み外してしまったのはいつだっただろう。母一人子一人の家庭だけれど、ビルギットは自分なりに精一杯息子に尽くしてきたつもりだ。それでも確かに他の家の子ができることを経済的な理由で諦めさせなければならない場面は多々あった。

 自分がこんなに貧しくて何もできない、ろくでもない人生なのは、ヒェリ・バーリなんかに生まれてしまったせいだ──次第にテオドルはそんなことを毒づくようになっていった。せめて都会のアーレンバリに生まれていればこうはならなかったかもしれないのに、と。そして、選択肢の多い都会ではなく片田舎に産み落としたビルギットのことすらも、次第に責めるようになっていったのだ。何かをかなえるための努力は一切せぬままに。

 そしてそれは近頃更に悪化の一途を辿たどっている。

 テオドルはどうやら、反聖獣・反神殿とでも呼ぶべき異端的な思想に傾倒し始めているようなのだ。

 絶対的な正義とされる高位の存在、わば崇拝対象や信仰対象というものが存在する場所には、その光が強い分だけ色濃い影もまた存在する。

 その高位の存在が、実は自分たちを脅かすものであり、信じあがめ続けるのは危険だという思想。特にそれを裏付ける確たる証拠もないのに、世間に逆行した自分たちの思想こそが正しい、裏側に潜むものを見抜いた自分たちこそが他者より優位であるという、これこそが世界の真実だとする偏執じみた妄信だ。

 ここヒェリ・バーリにも、そういう異端的な思想に傾倒してしまう者たちがいる。

 いわく、聖獣は本当は実在しない。初代国王が聖獣にいだされたという伝説は噓っぱちだ。聖獣をまつる神殿はいんちき集団で、神殿の傍の屋敷に暮らす聖獣を名乗る人間はただの詐欺師だ、うんぬん

 立て看板を持って街を行進したり、神殿前に座り込んだりという過激派も、長いヒェリ・バーリの歴史の中ではなくもなかったという。そしてそういう過激派は、実はヒェリ・バーリのみならずアーレンバリ国内にも少なくないらしい。

 ともあれテオドルは、ヒェリ・バーリという都市国家への不平不満が高じた結果、その大本である聖獣にまで憎しみが向いてしまっている様子なのである。

 週に一度は神殿に礼拝に通っているけいけんなビルギットにとっては、これは恐ろしいことだった。信仰は個人の自由だから、聖獣を信じないこと自体は別に構わない。問題は、反聖獣・反神殿の者たちがそうでない者たちに対してしばしば攻撃的な言動をすることだ。

 大体、とテオドルが酒瓶をテーブルにたたきつけた。

「もう若くはないって、そうさせたのはどこのどいつだよ! 生まれる場所がここでさえなきゃ、俺はもっと自分の力を発揮できたはずだ。かねもうけだってできてたはずなんだ、こんな貧乏生活しながら、何にもなれねぇ人生なんて送ってなかった。俺がこうなったのは聖獣とやらのせいなんだよ!」

 その言いように、さすがにビルギットは青ざめる。

「お前、聖獣様に対してそんな恐れを知らないことを言うなんて──」

「聖獣信者のクソババアは黙ってろよ! いいか、俺がヒェリ・バーリ中の奴らの目を覚まさせてやる。俺がこんななのは聖獣のせいだって叫んで回ってやる!」

 言ってテオドルは本当に立ち上がり、酔ってふらつきながらも外に出ようとする。

 こんな状態で外で何を叫んだって、酔っ払いのたわごと扱いをされるだろうが、それでもそんな不敬な振る舞いをさせるわけにはいかない。度が過ぎれば神官たちに捕らえられてしまうかもしれないのだ。

「待ちなさいテオドル、どこに行く気だい」

 息子の腕に必死にすがりつくビルギットを、しかしテオドルは腕を大きく上げて振り払った。

「てめぇには関係ねぇだろ!」

 ビルギットは床に倒れて腰をしたたかに打ち付け、動けなくなってしまう。

 その隙にテオドルはビルギットの金が入った財布を引っつかみ、乱暴に扉を開けて外へと出て行った。街はもう夜明けだ。窓から入ってくる日差しはあんなに明るいというのに、ビルギットの胸の中はあんたんたる雲で覆い尽くされていた。

(ごめんよ、テオドル。母さんがお前をアーレンバリじゃなくヒェリ・バーリで産んだものだから……)

 長年息子から浴びせ続けられていた言葉によって、ビルギットは今や本当に自分が悪かったのだと思い込むようになってしまっていたのである。

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