一ノ章 屋根裏の来訪者⑤

 結果としてテオドルは、朝の街中で反聖獣・反神殿の思想を叫んで回ったりはしなかった。家を出てしばらくしたところでい潰れ、道端のベンチで寝てしまったからだ。

 昼間の強い日差しを顔面にじかに受け、テオドルは毒づきながら目覚めた。そしていつもの習慣で、行きつけの酒場へ向かった。みのその店は昼間は店先で軽食を売り、奥では夜と同じように酒を出しているのだ。軽食は店内で食べることもできるが、純粋に昼食だけ取りたい地元住民は酒を出さない他店へ入ることが多い。昼間にこの店にいるのはテオドル含む常連客か、この辺りのことをあまり知らない観光客ぐらいだ。

 テオドルが酒場に入ると、今日は顔馴染みの常連客の代わりに見知らぬ顔があった。

 青年だ。年齢は恐らくテオドルの半分ぐらいだろうか。

 青年が座る席の隣がテオドルの定位置だったので、いつもの場所に腰を下ろす。すると青年はこちらを見てにこりと微笑んだ。あまり特徴のない顔立ちだが、背筋を伸ばしたその座り方には見覚えがあった。

「お前さん、ひょっとしてアーレンバリの軍人かい」

 問うと、青年は少し目を丸くした。

「どうしてわかったんだい?」

 青年は敬語ではなく、友人同士のような気安い言い方でそう言った。親子ほども歳の離れた相手だけれど、酒場では珍しいことではないのでテオドルもいちいちそれを不快に思ったりはしない。都会の男らしい気取った口調ではあるけれど。

「前にも軍人を見かけたことがあったんだよ。軍服を着てなくっても、何つうかこう、雰囲気みたいなもんが同じだぜ。もっとも前に見かけた奴は、エリートだってことを鼻に掛けてたけどな」

 すると青年は鼻でわらった。

「軍部が政権を握る国において軍人であることは、確かに誇りに思うべきなのかもしれない。だけどエリートだなんて勘違いもいいところだよ。命令されるがままに動く、要はよくできた手足だ」

 ちよう交じりのその言葉に、テオドルは急激にその青年に対して興味が湧いた。

 手を差し出し、告げる。

「俺はテオドルだ。この辺りに住んでる」

「フェリクスです。どうぞよろしく」

 フェリクスと名乗った青年は、テオドルの手をとんちやくなく握り返してきた。こちらが見るからに風体の悪い酔っ払いであることを気にも留めていない様子だ。その振る舞いに、テオドルの中で無意識に張っていた壁さえもすっかり取り払われる。

「華々しいアーレンバリ軍部の軍人様が、こんな片田舎のひなびた酒場で観光かい」

「休暇中ではあるけど観光とはちょっと違うかな。新しく家族になるかもしれない人がここの人だから、その縁で」

「なんでぇ、わざわざヒェリ・バーリの女と結婚か? アーレンバリのほうがいい女が山ほどいそうなもんだが」

「だとよかったんだけどね。結婚するかもしれないのは俺じゃなくて父親なんだよ」

 テオドルは思わず身を乗り出す。このフェリクスという青年は、こちらの興味をそそる話し方に非常にけている、と感心してしまう。

 フェリクスは食べかけのパンを皿に戻した。そしてためいきを吐きながらテーブルにほおづえを突く。

「母さんが早くに亡くなってから、父さんは長らく再婚する気配もなかったんだ。なのにちょっと前にヒェリ・バーリで恋人を作って、しかも近々プロポーズまでする気らしくてさ。俺はヒェリ・バーリに今まで一度も来たことがなかったから、一体どんな場所なのか試しに見てみようと思って」

「親父さんの再婚相手ってのはどんな女なんだ?」

 ひょっとして知り合いの誰かかと思って興味本位でいてみたが、フェリクスは首を横に振った。

「まだ何も聞いてない。とはいえ魅力的な人なんだろうとは思うよ。何せ反聖獣・反神殿思想の父さんが、わざわざヒェリ・バーリの人と一緒になろうと思ったんだから」

 テオドルは口をぽかんと開けた。

「……てめぇの親父さんが、何だって?」

「だから、反聖獣・反神殿派なんだよ。軍部の中じゃ珍しくもない。みんな表だって言わないだけで」

 がたん、と音を立ててテオドルは立ち上がった。そして青年の向かいの席へと座り直す。顔を間近で突き合せる格好だ。

「おい。アーレンバリ軍部ってぇのは、そういう考えの奴らが多い場所なのか?」

 興奮気味のテオドルに対して、フェリクスはあくまで傍観者のように淡々と答える。

「多くはないよ。だけど少なくもない。中世のまま時間が止まってるようなヒェリ・バーリの城壁の中とは違って、アーレンバリは先進国だから。聖獣なんて非現実的なものをありがたがって暮らしているのが、まず俺には時代遅れに感じるね。とはいえまぁ、普通のアーレンバリ国民なら、それを他人が信じていようがいまいが、別段気にしたりはしない」

 ただ、とフェリクスはテーブルの上のコースターを手もとでもてあそぶ。

「問題は父さんみたいな思想の人たちだよ。ああいう人から見たら、確かにここは気味の悪い宗教国家かもしれない。だけどいくらヒェリ・バーリがアーレンバリ国内にあるからって、都市国家と認められているからには外国だ。そこの党首がその国内で力を持っていようがいまいが、俺たちに何の関係があるんだって話だよ。相手が武器を持って攻め入ってこようとしてるってんならともかく」

 つまらなそうに突き放すようなフェリクスの口調に反して、テオドルは自分の胸の奥が、何か火種のようなものが放り込まれたように熱くなるのを感じた。度の強いアルコールがそこにまっているかのようだ。

「てめぇの親父さんは、聖獣様を引きずり下ろそうとしてるってことかい」

「さあね。もしそんなことになったら、実行させられるのは俺たちだから勘弁してほしいけど。上官の命令に逆らうわけにはいかないから。言っただろ? 俺たちはよくできた手足だって」

 ということは、フェリクスの父親というのはアーレンバリ軍部でそこそこの地位に就いている軍人なのか。

 テオドルの頭の中を、己自身の、何者にもなれなかった惨めな半生が駆け巡る。

 自分が何もし得なかったのは、こんな片田舎の貧しい家に生まれてしまったせいだ。せめてアーレンバリに生まれていたら。自分にもっと未来への選択肢があったなら。

 ヒェリ・バーリなんて場所があるから、自分はこのざまなのだ。

 聖獣なんかをまつっている、この場所のせいで。

 ──聖獣のせいで。

 その日放り込まれた火種は、その後もテオドルがずっと抱えていた怒りを糧にしているかのようにくすぶり続けた。

 フェリクスと名乗ったあの若いアーレンバリ軍人とは、その後はもうヒェリ・バーリで会うことはなかった。だがその日交わした会話は、悪夢のように、ほのぐらい夜明け前の濃霧の中に凝る黒いもやのように、あるいはまとわりつく火の粉のように、テオドルにつきまとっていたのだ。

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