一ノ章 屋根裏の来訪者⑥

    ***


 リディアはビルギットがもう二週間も顔を見せないことに気をんでいた。

 最後に渡した薬はもうとっくに飲みきってしまっているはずだ。

(もしかして……何かの理由でお薬が飲めなくて、歩けないほどの痛みが出てしまっているんじゃ)

 薬を渡すとき、他の薬との飲み合わせには気を付けるようにとリディアはビルギットに告げていた。もし高齢のビルギットが風邪などをひいていたら、それが長引いてしまっている可能性もある。仮に風邪の薬を優先して飲みながら寝込んでいるのだとして、きちんと休めているならそれでいい。問題は同居している息子に看病もしてもらえず、風邪の薬も痛み止めの薬も飲めずに、病と足の痛みの両方に苦しんでいる可能性があるということだ。

 実の家族とともに暮らしていても必ずしも助けてもらえないということを、それどころか虐げられてしまうかもしれないということを、哀しいことにリディアはよく知っている。

 夜明け前の仄暗い空を見上げて、リディアはエプロンのポケットを握り締める。そこに入っている痛み止めの薬を。

(……行こう。お薬を渡しに)

 決意を込めて、リディアはエプロンを外した。それを頭からかぶり、顔を隠す。そして裏庭の門扉に手を掛ける。

 ビルギットがどこに住んでいるかは知っている。彼女との雑談で家がある通りの名前も、外観の特徴も教えてもらったことがある。

 この門扉の外には一歩も出たことはないけれど、だからこそ屋根裏部屋の書物の中にあったヒェリ・バーリの地図は何度も見て、覚えている。

 幸い、今朝はいつもよりも更に早い時間に目覚めた。夜明けまではまだ随分ある。

 リディアは意を決して、門扉を音を立てないようゆっくりと開き、そして外の通りへ一歩を踏み出した。

 後でイサベレやヨセフィンからせつかんを受けることになっても構わない。

 これから受けるかもしれない身体の痛みよりも、今ビルギットを思って感じる胸の痛みのほうが、何倍もつらいから。


 人生で初めて一歩外に出た瞬間、リディアは何だか拍子抜けした。あれほど自分とは隔絶されていると感じていた外の世界とは、なんだ、こんなものか、と思ったのだ。

 身構えていたほど特別なものは何もなかった。ただ夜明け前の薄暗い、所々にごみが落ちたさほど広くない道と、みっちりと詰まった家々がそこに広がっているだけ。本の挿絵で見た街の景観よりも薄汚れていて、妙に冷めたような現実味が、そこにはあるだけだった。

 屋敷から逃げ出すことを今まで一度も実行してこなかったのは、それがまったく現実的な考えではないとわかっていたからだ。醜い自分はきっとすぐに道行く誰かにとがめられて、オーケリエルムの屋敷にしらせを入れられてしまうだろう、と。

 だが今は夜明け前だ。街はまだ寝静まり、通りには人っ子ひとりいない。仄暗い薄闇に街全体が覆われている。

 今この瞬間だけなら、自分は自由だ。

 リディアは途端に、自分の足に羽でも生えたかのように足取りが軽やかになるのを感じた。

 幸い、この街は建物が密集してはいるけれど、区画自体は秩序立っている。地図を頭に浮かべながら初めて街を探索するリディアにも迷うことなく進むことができた。

 この時間なら早起きのビルギットはもう目覚めているかもしれない。ひょっとすると顔を見てあいさつができるかもしれないし、もしまだ寝ていたとしても、薬を自分で届けられたという達成感はきっと何にも代えがたいものだろう。はやる気持ちとともに駆け、やがて彼女から聞いていた特徴と合致する家を見つけた。

 灰色がかった青い屋根に、薄い黄色の壁の小さな平屋。

 その玄関の扉の横の窓に、室内からこちらをうかがうように人影が映っている。

(よかった。ビルギットさん、やっぱりもう起きてるわ)

 リディアは扉に駆け寄り、呼び鈴を鳴らすか少し迷って、やはりノックにしようと手を伸ばした。その手が扉に触れる直前、窓際の人影があの小柄なビルギットよりも明らかに上背があることに気付いた。

 気付いた時にはもう、遅かった。

 内側から勢いよく開かれた扉、その中から、何か長いものが勢いよく飛び出してくる。こんぼうのようなものを振りかざした男だ。

 ──リディアはいつもより夜明けが遠いこの時間が、ある者にとってはまだ真夜中であるということに気付いていなかった。

 男は低くうなる。

「やはり来たな、魔女め」

 頭が真っ白になる。殺されるかもしれない、とはその瞬間には考えられなかった。

 街灯の明かりもないため、男の顔は見えない。だがこちらを憎んでいるらしいことはその声音でわかる。

 男は棍棒を勢いよく振り回した。ぼうぜんとそれを見上げているしかなかったリディアは、避けることもできなかった。側頭部に強い衝撃が走る。視界がぐらついて、思わずしりもちをついた。痛みよりも、突然殴られた衝撃があまりにも強すぎて、声を発することができない。

「ただでさえこの街の住人は頭のおかしい聖獣信者だってのに、年寄りに怪しい薬を作って飲ませるなんて許せねぇ。あれはどんな薬だ!? 言ってみろ! 身体の中に悪いものを埋め込んで、何かの情報を抜き取ろうってんだろう!? 抜き取ったもんを神殿が統制して、俺らを支配しようってんだろう!? 俺らが貧しいのは神殿の、聖獣のせいだ。俺がこんな暮らしをさせられてんのも!」

 男は大声で訳の分からないことをわめいた。

「魔女め、とっとと失せやがれ!」

 棍棒が振り上げられる。

 ──あれが自分の頭にまっすぐに振り下ろされたら。

(そうしたら、わたし、ここで──)

 そのとき、男が背にしている扉の中から、か細い声がかかった。

「どうしたんだい。誰か来ているのかい?」

 すると男が慌てた様子で室内のほうを振り向く。

「うるせぇな、ババアは黙って──あっ!」

 リディアは駆け出した。男が背後から何事か口汚く叫んでいるが、構わず走り続けた。

 心臓が破れても、足が折れても構わない。

 あの場で殺されてしまったら、ビルギットが死体を見てしまう。──自分の息子が殺した魔女の死体を。

 リディアは街の中を無我夢中で走った。体に血が巡ったことで、殴られた側頭部がにわかに痛みを増してくる。視界が白み、足がもつれる。それでも走り続けると、家々が途切れて目の前に公園が現れたので、構わずそこに飛び込んだ。

 公園というよりも森に近い場所だ。木々がうつそうと生い茂っている。夜明け前の薄闇を集めて抱き込んでいるかのように、通りよりも一層暗かった。

 リディアはかえってその暗さにあんした。走るのをやめ、ふらふらと歩く。歩くというよりも、あまりの疲労で逆に足が勝手に動くのを止められず、立ち止まることができないといった状態だった。

 喪失感が激しく胸をえぐってくる。

(……もう、ビルギットさんのところには行けないわ)

 彼女の息子が喚いていた内容にはまったく心当たりはなかったが、とにかく彼はリディアを憎んでいた。追い返されるだけなら、それで怪我をするだけならまだいい。けれどきっと次はない。彼は次こそリディアを殺そうとするだろう。

 誰かの役に立ちたいという、はかなくささやかな生きる理由。

 ようやく手に入れたと思ったそれを、リディアは再び失ってしまった。

 側頭部がじんじんと痛む。あまりの無力感に、何もかもを投げ出したい気分だった。

(わたし、このままもう……)

 ここで死んでしまおうか。

 誰にも知られないままに。

(ここなら……わたしの他に、誰も……)

 もやがかかったような視界のまま、リディアがぼんやりと目線を足もとから前方へ向けた、その時だった。

 眼前の木の下に、白っぽい人影が浮かび上がっているのが見えた。

 ひっ、とのどが鳴る。思わず足が止まる。

 人影は、木の下に座って、じっとこちらを見上げていた。

 この薄闇の中、なぜそれが見えたのかというと、人影の足もとに携帯用のランタンが置かれていて、辺りをこうこうと照らしていたからだ。

「……お……」

 リディアの喉が震えた。

「おばけ……」

 思わずあと退ずさろうとしたリディアに、その人影はランタンを持ち上げてこちらに向ける。

「違います。失礼な」

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