一ノ章 屋根裏の来訪者⑦

 まだ変声期の途中にあるような、高くも低くもない声。

 こちらを見上げるそうぼうにばかり目を取られてしまっていたが、よく見たら、リディアより少し年下であろう少年である。

 伸ばした金色の髪を、後頭部の高い位置でひとつにくくっていて、着ているものも白っぽい。どこか貴族の屋敷に仕える高級使用人のお仕着せのような身なりだ。アーレンバリでは貴族制度が廃止されて久しいが、アーレンバリでもヒェリ・バーリでも、資産家などにはその系譜の家も多く残っていると聞く。

 しかしだからこそ、こんな時間にこんな場所で、そんな姿の少年がランタンの明かり一つで木の下に座っているのは、意味がわからない。

「あ、あの……」

 何か言わなければ、と半ば強迫観念に駆られてつぶやく。少年はやはりこちらを見上げている。

 が、よくよく見れば、彼はこちらの目ではなく、少しずれたところを見ているようだった。側頭部の、さっきあの男に棍棒で殴られた部分だ。

 思わずその部分に手を触れると、ぬるりとした感触があった。気付かなかったがどうやら血が出ているらしい。そしてようやく、走っている間にエプロンが外れてしまってショールのように肩にかかっており、肝心の顔が丸見えだということにも気付く。

 リディアは血の付いた手を後ろに隠した。が、一連のその動作をやはり少年はじっと見ている。

「え、ええと……こんなところで何をしているんですか? おうちの方が心配されてるんじゃ……?」

 誤魔化すように口早にそう言ってみる。実際、まだ未成年であろう──この国では十八歳で成人とされるが、少年はまだ十五歳前後に見える──少年が、こんな時間に人けのない場所に一人でいるのは不自然だ。

 少年は少し考えるような素振りを見せたあと、口を開いた。

「そうですね。おうちの方、という表現が適切かはわかりませんが、心配はしてるんじゃないでしょうか」

 どこか他人ひとごとのようにも、突き放すようにも、それでいて極めて親しい相手について話すようにも聞こえる不思議な言い方だった。

「あなた、いつからここに?」

「昨日の夕方からです」

 少年は淡々と答えるが、それはすなわち、ここで野宿をしている最中だということだろうか。

 頭が混乱しかけているリディアに、少年は自分の身をひねってみせた。すると今まで見えていなかった足もとがあらわになる。彼はひざたけのズボンに革靴という品のいいちだが、清潔そうな靴下に包まれた足首に、明らかに不自然なものがまとわりついている。何か金属でできた獣の口が、少年の足首にみついているかのようにも見える。

「この公園が近頃小型の害獣の被害に悩まされていると聞いて来てみたのはいいんですが、その害獣を捕まえるためのわなにうっかり掛かってしまいまして」

 あまりに当たり前のことのように淡々と告げるから聞き逃しそうになったが、間一髪、リディアは聞きとがめることに成功した。

「……え? 罠に?」

「はい。どうやら付近の自治組織が自主的に罠をいろいろ仕掛けていたみたいですね。市民同士の間で相互扶助が行なわれているようで何よりです」

 それは確かにそうだろうが、今まさにその罠に引っかかっている当人が言う台詞せりふではないのではないだろうか。

 リディアは慌てて少年に駆け寄り、罠に挟まってしまっている足もとに彼のランタンを向ける。

「怪我をしてるわ。大丈夫ですか? 痛みは?」

「痛くはありますが、しよせん小型の獣向けの罠なので、致命傷ではありません」

 そういう問題ではない。実際、靴下は痛々しく裂けて、そこから血がにじんでいるではないか。

 リディアは屋根裏部屋の書物から得た知識を総動員した。かつて読んだ本の中には、狩りの指南書もあったのだ。あれに載っていた罠のひとつと、今目の前にある罠は作りが似ているように見える。仕組みを思い出せば、外してやることができるかもしれない。

 リディアは四苦八苦して、しばらく罠と格闘した。罠は少年の足首をがっちり挟んでいたが、やはり仕組みを思い出せさえすれば、あとは外すことは容易だった。とはいえ四苦八苦している間にリディアの指先はぼろぼろに傷ついてしまっていたが。

 がちゃん、と音を立てて罠が開く。途端に今まで止まっていた傷口の血があふれ出してきたので、リディアは慌てて肩にかかった自分のエプロンのすそを裂いて、少年の傷口に押し当てた。

 少年はどこかぼうぜんとして、自分の足を見ている。

「……ありがとうございます。助かりました」

「よかったです、罠が外れて。後は血が止まるのを待って、それから……」

 言いながら、エプロンのポケットから薬の包みを取り出す。ビルギットに渡そうと持ってきた包みの中には、いつもの痛み止めの飲み薬のほかに、切り傷や火傷やけどにも効く傷薬も入っている。

 止血した後、その薬を使って手際よく手当てしていく。最後に細く裂いたエプロンの布を包帯にして傷口を覆った。

「おうちに帰ったら、すぐにきれいな当て布と包帯に取り替えてもらってください。このお薬を使って……痛みが強く出るようなら、こっちのお薬をお水と一緒に飲んで。知り合いのおばあさんのために作ったお薬だったんですけど、もう必要なくなってしまったから、遠慮なく使ってください」

 少年は差し出された薬とリディアの顔を交互に見た。

「ひょっとして、お医者様ですか?」

 言われてリディアはどきりとした。医者と間違われたことに対する罪悪感のようでもあり、一抹のうれしさのようでもあった。

「……違います。ただの、魔女です」

「魔女?」

 問い返してくる声に、リディアはちようめいた目顔を浮かべてみせた。皆まで言わずとも、見た目の醜さできっとこの少年も悟っただろう。

 もしあの男に投げつけられた言葉のような内容が、何かの悪い噂話として街中に広まっているのだとしたら。

「わたしのことは誰にも言わないでください。魔女に手当てされたって知られたら、きっとあなたが責められてしまいます」

 そうだ。こんなところで自分と話しているのを誰かに見られたら、それこそきっとこの少年が責められてしまう。さっき自分があの男から受けたような暴力を、今度はこの少年が受ける羽目になるかもしれないのだ。

 もう夜明けが近い。街はじきに起き出してくる。

 リディアは朝日の気配に追い立てられるように立ち上がった。少年はやはりこちらの挙動をじっと見ている。

「もう行かないと。その……ご主人様たちが起きていらっしゃる前に戻らないといけないので」

 すると少年はその場で深く頭を下げた。

「手当てと薬をありがとうございました。情けないことですがまだ立ち上がれそうになく、家までお送りできずに申し訳ありません」

 その言いようにリディアは慌ててしまう。何だか年齢よりもはるかに老成したような雰囲気だったのだ。

「そんな……わたしのほうこそ、一緒にいられなくてごめんなさい」

「お気を付けて」

「ええ。あなたも」

 リディアは少年に会釈し、足早にその場を去った。辺りはまだ暗いが、徐々に鳥の鳴き声が聞こえてきている。しかし夜が明けきる前に屋敷に戻れるだろうか。事前に聞いていた道を随分外れて走ってきてしまったのだ。

 するとその焦りを見越したように、背後から声が聞こえた。

「大丈夫です。道には迷いません」

 何の根拠があってそう言ったのかはわからない。が、少年の声はどうしてか確信に満ちていた。

 リディアは思わず振り向く。

 すると少年はうなずいた。

「エルヴィンド様のご加護がありますように」

 ──エルヴィンド。

 それこそがアーレンバリの初代国王をいだしたという、聖獣ファフニールの名前だ。

 ヒェリ・バーリの多くの者たちは、聖なる存在をはばかって、あるいは親しみを持って「聖獣様」と呼ぶそうだ。エルヴィンドという名前を聞く機会はそう多くはないという。

「ありがとうございます」

 リディアは少年に頷き返し、また駆け出した。どうしてか、今度はまっすぐに屋敷に戻れるという確信めいたものがあった。

 そして不思議なことに、本当に少しも道に迷わずに、夜明け前に屋敷に戻ることができたのだ。

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