一ノ章 屋根裏の来訪者⑧

 魔女と名乗った少女の背中が見えなくなると、少年はひとつ息を吐いて、背後の木の幹に背中を預けた。

 罠にやられてしまった足首はひりつくように痛むが、そんなことよりもだ。

 魔女と名乗った少女から感じた、あの不思議な気配は何だったのだろう。はっきりと言葉にはできないが、何となく特別な何か、とでもいうような。自分が感じたその感覚の正体がわからず少女を観察してみたけれど、彼女の外見からは何も読み取れなかった。

 空が白んでくるまで、少年はその場でそうしていた。

 やがてやかましくなってきた鳥の大合唱の中に別の物音が交じったのを聞き分けて、少年は口を開く。

「随分遅かったですね」

 背後の木のさらに後方から聞こえてくる、草を踏み分けるその足音の主は、殊更ゆったりと少年の傍にやってきた。

 見上げると、白銀の長い髪が視界に入ってくる。

「まさか『聖獣』の従者が、獣のわななどに引っかかって夜を明かしているとは思いもよらなかったからな。捜すのに手間取った」

「僕はただの人間ですよ。これだけ巧妙に仕掛けられてしまったら、うっかり引っかかることもあります」

「ただの?」

 そう問いただしてくる彼の顔を見たわけではないが、恐らくかたまゆを上げてこちらを見下ろしているのだろう。少年は嘆息した。

「訂正します。人間の中でも僕は無鉄砲なほうです」

「罠くらい自分で外せただろう」

「……ここで待て、と言われている気がしたので」

 誰にそう言われたのかは少年自身にも説明できない。ただ、ここで罠に引っかかったのは意味がある出来事だったような気がしたのだ。

 ──ひょっとして、あの少女に出会うためだったのか。

 この世には不思議な巡り合わせが確かに存在する。運命などという概念を信じているわけではないが、時にそうとしか説明できないような出来事が確かに起こるのだ。

 そしてそれは、である自分のほうが、より敏感に感じ取ることがある。

 傍らに立つ彼よりも。

 しかしこの予感めいた考えを、今は彼に話すわけにはいかなかった。他ならないあの少女本人に、自分のことは誰にも言うなと言われてしまったからだ。善意で手当てをしてくれた相手への精一杯の敬意として、彼女の意思を尊重しなくてはならない。

 傍らに立つ彼が、こちらの足首を見下ろしている気配がする。明らかに他者に手当てされたことが見て取れるからだろう。問い質してこないのは、こちらに何か事情があると勘づいているからだ。その程度のことはわかるくらいには、長い時を一緒に過ごしてきた。

「僕を助けてくれた人が、困っているようです」

 考えた末、少年はそう告げた。

「短い時間でしたのですべては読み取れませんでしたが、助けたい老婆がいるのに邪魔が入ったせいで助けられなくなってしまったようでした。頭に怪我までしてしまって」

 言って少年は、街のほうを見やる。

 すると傍らに立つ彼も同じように街を見た。しかし少年が漠然と見やる視線とは異なった方角の、ある一点に視線が向いている。

「火種がくすぶるようなこの不快な気配はそれか」

 少年は知る由もなかったが、傍らの彼の視線の先には、正確に、さっきの少女が暴力を受けた家がある。

「ただの人間にしては上出来の読みだ」

「恐れ入ります」

「立てるか、ノア」

「はい。問題ありません」

 どうやら彼女がくれた薬はとても効きがいいようだ。──少し、効きがよすぎる気もするが。

 ノアと呼ばれた少年は立ち上がり、白銀の髪の彼の傍に控えた。そしてまっすぐに彼を見上げる。

 文字通り人間離れした、神々しいまでの美しさを持つ、己のあるじを。

 主は街の一点から視線を外さず告げる。

「先に屋敷に戻れ。火種は小さいうちにつぶさなければならない。他の場所に飛び火してしまわないうちに」

 そう低くつぶやく主は、視線の先に、今目の前にあるものではない存在も見ているのだろう。

 その火種を、この街ヒェリ・バーリに見えない火の粉のようにき散らし、黒いもやのように塗り広げていく存在を。

 ノアは頷き、一礼した。

「承知いたしました。行ってらっしゃいませ──エルヴィンド様」


 テオドルは自宅前に現れた忌まわしい魔女を追い払った後、己の内に燻る炎を持て余すかのように、母親に暴力を振るった。

 少し前に腰を痛めて以降、ほとんど寝たきりだった母親の、床にいつくばって虫けらのように縮こまりいのちいをする弱々しく惨めな姿が、いらちに拍車を掛ける。

 頭の中が黒い靄に覆い隠されていく。その靄にほんろうされるように、何も考えず、ただ衝動的に殴り、りつける。

 テオドルの手がいよいよ、さっきあの魔女を追い払うのに使ったこんぼうに伸びた。

 母親は信じられないものを見る目つきで、息子が棍棒をつかみ、己へと振りかざすのを見ている──

「そこまでだ」

 背後から掛けられた声とともに、振り上げた腕が突然、何者かに強い力で摑まれたように止まった。

 テオドルはとつに自分の腕を見る。何にも摑まれていない。だというのに、腕どころか身体が動かない。

 まるで背後から、何者かに圧倒され、し、身体が凍りついてしまったかのように。

「それ以上やったら死んでしまう。そんなこともわからないほどに、。……愚かさにつけ込まれた、哀れな人間よ」

 誰だ。一体何を言っている。

 ちんにゆう者に向かってそう問い質したいのに、後ろを振り向くことも、声を出すこともできない。

 昇ったばかりの朝日が、背後の扉か、あるいは窓から差し込んできて、涙を流す母親の顔がよく見える。

 直後、背後からたたき込まれた強烈な一撃によって、テオドルはすべもなくこんとうした。

 意識を失う直前、白銀の長い髪がちらりと見えた気がした。

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